愛欲<後編>
しかし水曜日。土曜日の夜はまだ遠い。
頭の中はあれもこれもそれも、いっぱいしたいし、色っぽい顔とか潤んだ瞳とか艶やかな声とかも見たいし聞きたいのに。
「ヤりてーよおぉぉっ!!!!」
そう叫んだ瞬間、頭に激痛が走る。
「うるさいぞ万年仮病患者」
頭上で一弘が丸めた本を手にし、呆れ顔を見せている。
思わず妄想に浸ってしまい、すっかりここが保健室だということを忘れていた光流は、しかし悪びれない様子で深くため息をついた。
「何がやりたいんだ? 悩み事でもあるのか少年」
一弘の問いかけに、光流はむくりと起き上がり、冴えない表情で応えた。
「えっちしたい」
「そりゃ当然だろうな、おまえの年頃じゃ」
一弘は一瞬、光流がそんなことを言い出すのが意外といった表情をしたが、すぐに平静にそう答えた。
「でもやっぱ四六時中こんなことばっか考えてんのって、異常じゃねぇ?」
「男なら普通だろ」
「そう? そんなもん? あんたも奥さん相手に毎日ヤりたい? っつかヤってんの?」
なにやら興奮している様子の光流の頭を、一弘はもう一度バシッっと叩いた。
「いってーなっ、青少年の悩みを聞け!!!」
「だーれが青少年だ、この人外が。仮病が治ったらとっとと教室に戻れ」
「言われなくても戻りますぅ!!」
子供みたいな憎まれ口を叩いて、光流は保健室を後にした。
いつの間にか三時限目の授業が終わって、教室から出てきた数人の生徒達が廊下を埋め尽くしている。自分の教室に入る少し手前で、光流は見覚えのある姿を発見した。
「あ……しの」
「手塚先輩!!」
呼び止めようとした瞬間、光流の横を小さい影が走り抜けていく。
「ちょっと良いですか?」
どこかで見たことのある、小柄で大きな瞳をしたその少年は、とある日を境に忍のことをやたらと崇拝している布施少年だった。
「何だい?」
布施に呼び止められた忍が、澄ました笑みを浮かべて布施を見下ろす。
「今日の放課後、空いてますか? 先輩に聞いてもらいたいことがあって……」
頬を高潮させながら忍を見つめる布施を見て、光流の表情がやや険しくなった。
「忍」
ツカツカと早足で光流は忍に歩み寄って行く。
「今日一緒に帰ろうぜ。待ってるから」
「ちょ、ちょっと待って下さい!手塚先輩は僕と話があるんです!!」
仮にも先輩に対して少しも怯まない様子で、布施が光流に噛み付くように言った。
光流の眉間に皺が寄る。
「光流、今日は先に帰っててくれ。布施君、放課後生徒会室で待ってるよ」
「はい!!すぐに行きます!!!」
布施は酷く嬉しそうに返事をすると、光流を一睨みしてその場を去っていった。
「なにあいつ……すげームカつくんだけど」
「おまえが人を嫌うなんて珍しいな。素直で扱いやすい奴だぞ、アレは」
既に忍が布施を人として扱っていないことには気づかず、光流は忍を睨みつけた。
「俺よりあいつとるんだ?」
「何を言ってる」
「だってそうだろ?!」
光流は忍の肩を掴むと、乱暴に壁に押し付ける。
「おいおい、なに痴話喧嘩してるんだ、お二人さん」
「熱いね~、昼間っから」
そんな二人を、からかいながら同級生たちが通り過ぎる。
「うっせー!! 誰が痴話喧嘩だっ!!」
大声を張り上げる光流を、忍が深刻な目で見ていることに、光流は気づいていなかった。
(私以外の人を見ないでよ……!!!!)
また、あの記憶だ。
「光流が好きなの……愛してるの……!!!」
違う、これは夢だ。
あの時の夢。
「ずっとそばにいて! 離れないで!!」
セーラー服に流れ落ちる涙。
「違うわ、あなたは私のものよ。絶対に誰にも渡さない」
長い髪の隙間から覗く鋭い瞳。
やめろ、やめてくれ。
そんな風に縛りつけられたって、苦しいだけなんだ。
「あんな女に光流は渡さない……!!!」
「あの娘には渡さないわ。愛してるのよ……光流」
がんじがらめになる。
愛情を遥かに超えた嫉妬という名の手錠で。
独占欲という名の足枷で。
愛という名の鎖で。
頼むから、もう自由にしてくれ。
そんな愛なんていらない。
そんなものが愛なら、俺はいらない。
「光流! なんで出て行くんだよ?!」
正……?
どうしてそんな顔をする?
そばにいなくたって、俺はこんなにおまえを愛しているのに。
「行くなよ!! ここにいろよ光流!!」
やめろ……やめてくれ!!!
「私のものになってよ!!」
「あなたは私のものよ」
「ここにいろよ!!」
やめろ!!!
俺は……俺は、誰のものでもない。
ものなんかじゃない……!!!
「いらない」
この声は……誰だ?
「あなたなんて、いらないのよ」
確かに知っている声。ずっと……ずっとずっと前に聴いた。
「だから捨てるの」
「光流……光流!!!」
呼び覚まされて、光流はがばっと上半身を起こした。
「どうしたんだ? やけにうなされてたぞ」
ベッドの下から忍の声がする。
光流は汗に濡れた額を袖で拭った。
「なんでもない……。たぶん悪い夢見ただけだ」
夢の内容は、はっきりと覚えていない。
けれど酷く憔悴感が伴う、酷い夢だった。
「大丈夫だよ。……おやすみ」
忍に心配はさせまいと、光流は優しくそう言って、再び布団の中に潜り込んだ。
けれど何かとてつもない嫌悪感が体中に纏わりついて、しばらくは眠ることができずにいた。
何故だろう、無性に苛つきが収まらない。
いつもと変わらない日々なのに。
笑顔もバカみたいな言葉もくだらない洒落も、誰かの前でなら平気で発せられるのに、一人になるとまるで泥沼の中を這いずり回ってる気分だ。
長い廊下を歩きながら、光流は疲れたように息を吐いた。
少しでも気を紛らわすために教室で友人達と話をしていたら、もう校舎にはほとんど誰もいない時刻になっていた。 何となく、生徒会室に足を運んでみる。この時間でも、忍は公務のため学校に残っていることが多い。これだけ苛つくのは、きっと腹が減っているせいだ。早く一緒に寮に帰って夕飯にありつこう。思いながら、ガラリと音をたててドアを開く。
「忍、いるかー?」
もはや我が物顔で生徒会室に足を踏み込むと、忍はやはりまだ生徒会室に残っていた。
しかしその場にいたのは、忍だけではなかった。
「まだ帰ってなかったのか、光流」
忍の声と共に、忍の横にピッタリ寄り添った布施が、時計を見て椅子から立ち上がる。
「もうこんな時間だったんですね……僕、そろそろ帰ります」
「ああ」
「ありがとうございました、手塚先輩!! あの……また来ても良いですか?」
「もちろんだよ。じゃあ、気をつけて」
いつものベールに包まれた笑顔と、社交辞令。
しかし布施は嬉しそうに笑みを浮かべ、光流の横を通り過ぎていった。その瞬間、光流の眼が険しく忍を見つめる。だがそのことに忍は気づかず、机の上に散らばったプリントを整理し始めた。
「俺たちもそろそろ帰るか」
時間はとうに十八時を過ぎている。窓の外は暗い。おそらくもう校内に残っているのは教師が数名だけだ。
「いや……」
光流は後ろ手にゆっくりとドアを閉めると、険しい瞳のまま忍に近づいた。
「帰らない」
低い声に違和感を感じて、忍が顔を上げる。
刹那、光流は座ったままの忍の後ろ髪を右手で乱暴に掴むと、半ば噛み付くように忍の唇に自分の唇を重ね、荒々しく舌を捻じ込んだ。
「……っ……」
突然の激しい口付けに、忍の目が驚愕に満ちる。
それとほぼ同時に、光流は忍に突き飛ばされ、足元をよろめかせた。
「何を考えてる、ここは学校だぞ」
忍が鋭い眼で光流を睨みつけるが、光流は怯まなかった。それどころか、忍を威嚇するような眼で見据える。
「それが?」
光流はもう一度忍に近づくと、再度後ろ髪を掴み強引に上を向かせ、先ほどよりも更に強引に口付けた。
「や……めろ……っ」
顔を背けた忍に、光流は冷たい視線を浴びせた。
その様子はあまりにもいつもの光流とはかけ離れ、まるで別人で、忍は動揺を隠せない目を光流に向けた。光流はまるで獲物を狙う肉食獣のような鋭い眼光のまま、暗示でもかけるように忍の額に人差し指を向ける。
「動くな」
その一言だけで、まるで蛇に睨まれた蛙のように、忍は身動きとれなくなった。瞳に恐怖の色が浮かび、額に汗が滲む。
わずかでも動いたら、首を食い破られて殺される。そんな獲物のような気分を味わったのはおそらく彼にとって初めてだろう。射すくめられる獲物を眼前に、光流は冷笑を浮かべ、忍の首に手を伸ばした。そして無造作にネクタイを奪い取る。
「いい子だ、そのままおとなしくしてろよ?」
光流は低い声でそう言い放つと、素早い動作で忍の両手首を捕らえ、背中で一つにキツく縛り上げる。手首に食い込んでくる痛みのせいで、忍が苦痛に顔を歪ませた。
「光流……っ」
耐え切れず忍が声をあげたが、容赦ない乱暴なやり方で、光流は忍を机の上に伏せた。
そのまま背後から忍のズボンのベルトに手をかけ引き抜き、ジッパーを降ろしてズボンと下着を同時に脱がせる。忍の下半身が露になり、淫らな姿勢が光流の欲望を膨らませた。
「や……めろ……っ!」
「動くな」
光流は冷たく響く声でそう言うと、忍の性器の先端を指先でなぞりながら、項に舌を這わせた。
忍の体がビクリと震え、頬が紅潮する。
「嫌だ……光流……っ」
「こんだけ濡らして、どの口が言うかなぁ?」
羞恥に顔を染める忍の口に自分の指を咥えさせ、光流は蔑みを込めて囁いた。
既に液が滲んでいる忍自身の性器に、焦らすように指をこすりつける。忍の咥内に含ませていた指を引き抜き、そのまま胸まで滑らせて制服のボタンを器用に外し乳首を摘みあげると、忍が明らかに反応しているのが分かる。けっこう素質あるんじゃねぇの? 光流の脳裏に加虐心が膨れ上がる。やや強く捻ると、そこはますます硬く反応を示した。
「いつの間にか、ずいぶん感度良くなったんじゃねぇ?」
こんな場所で、こんな格好で淫らに喘いでいる忍の痴態は、光流の本能を刺激するには十分すぎるものだった。屈辱に耐えるその潤んだ瞳も、もはや光流を興奮させる以外のなにものでもない。もっと。もっと。何かが頭の中で叫ぶ。熱くなる下半身と共に鼓動の音が高まる。体中の血液が沸騰するようなその感覚のままに、光流は忍の乳首を更に強く捻りあげた。忍が痛みに眉を寄せる。
「……っ……く……」
胸を弄んでいた指が滑らかに降りていき、今度は忍の中に押し込まれていく。
少しキツそうだが、構わず中を掻き回す。苦痛に呻く姿がますます光流の興奮を煽る。徐々に挿入する指を増やし、忍が快楽に喘ぐ様子を瞳は冷徹に観察しながらも、脈打つ鼓動は高まっていくばかりだ。
「今、何本入ってるか分かるか?」
光流はわざと忍の羞恥心を煽るように、愉悦を含んだ声で耳元に囁いた。忍は屈辱を堪え切れない様子で唇を噛み締める。肩が、足が小刻みに震える。勃ちあがりじわりと液の滲む性器にも指を絡ませる。ますます忍の身体が震え、閉じた目尻に涙が滲んだ。
「寮じゃねぇんだ、もっと声出してもいいんだぜ?」
必死で声を押し殺す忍を前に、光流は歓喜にも似た表情を隠せない。
意地もプライドも、なにもかも滅茶苦茶にしてやりたい衝動にかられ、張り詰めている忍の性器を集中的に攻める。それでも忍は決して声を露にはしない。しかしひたすら屈辱に耐えるその姿は、光流の加虐心を更に煽るだけだ。
「イきてぇんだろ? ならお願いしてみな」
わざとギリギリのラインを刺激し、限界には達しないように指だけで愛撫し続ける。忍がどこをどうすれば感じるかは、既に熟知済みなのだ。いまさらどれほど必死で快楽を押し殺したところで、顕著に反応する身体が全身で限界を訴えている。そんなに快楽が欲しいなら素直になれば良いものを。心の中で嘲り、光流は忍の耳たぶを軽く噛んだ。
「イかせて下さいって、言ってみろよ」
冷たい光流の声に、忍は唇を噛み締めて屈辱に耐える。けれど焦らされ続けた快楽は、もうとうに限界を超えている。震える肩と乱れる熱い呼吸。
「言わないなら、このまま置いて帰るぜ?」
いったいどこまで屈辱を与えれば気が済むのだろうか。光流は自分自身に冷笑した。さすがにいきすぎだと分かっていても、止めることはできなかった。征服欲が止まることを知らずに膨れ上がる。服従しろ。頭のどこかで何かが猛烈に叫ぶ。
「い……イか……せて……」
瞳に涙を滲ませ、辛そうな呼吸で忍が口を開く。手の中の忍自身がヒクヒクと痙攣する。熱い内部が指を締め付ける。気が狂いそうな興奮が光流の全身を駆け巡った。
「イかせて下さい、だ」
まだわずかに残っているプライドを徹底的に剥ぎ取るように、光流は容赦なく冷たい声で言った。誰がこの程度で許してなどやるものか。この獲物は俺のものだ。俺だけの。他の誰にも渡さない。渡すくらいなら殺してやる。心の内でもう一人の自分が叫び続ける。
「イかせて……下さ……っ」
乱れる呼吸と共に吐き出された声と同時に、忍の頬に涙が伝う。ギリギリで残っていたプライドが無残に剥がれ落ちていくように。それは紛れもない服従の証だ。
「上出来。やれば出来るじゃねぇか」
光流は勝ち誇った想いでそう囁くと、忍の内部に埋めた指を動かし、握った性器にも刺激を与える。指に絡みつく肉は異常なまでに熱い。
「あ……あぁ……っ」
忍の身体が大きく震え、喉が嬌声を放つ。達するまでにまるで時間はかからなかった。
手を濡らす白濁。紅潮する頬と乱れる吐息。汗に濡れた前髪。涙が滲む瞳。地の底まで堕とされ全てを剥ぎ取られた精神。そのどれもが光流をたまらない充足感で満たす。
「いつもより気持ちよさそうだぜ?」
光流は忍の腕を掴み立たせようとするが、力の抜け切った忍の足はガクリと崩れおち、床の上に座り込んだ。
「っと、自分だけ気持ち良くなられてもなぁ」
光流は冷笑を浮かべながら自分のズボンのベルトをはずし、チャックを降ろす。欲望に猛った自身を露にすると、忍の髪を掴み上を向かせ、それを口元にあてがった。
「咥えろ」
もはやわずかな自尊心までズタズタにされた忍は、抵抗する気力も失せたのか、従順に光流の自身を口内に含んだ。
自分のものに必死で舌を這わせる忍を、光流は恍惚とした眼で見据える。足りない。こんなものではまだまだ足りない。更なる嗜虐心のままに、光流は忍の頭を掴み腰を突き出す。忍が息もままならず、苦痛に表情を歪める。
跪き、時折喉の奥に深く突き刺され、唾液を流しながら苦しそうに顔を歪ませるその懸命な表情がたまらない。 激しい快楽のままに達しようとしたその瞬間、光流は忍の口から自分のものを引き抜いた。
「……っ……」
生暖かい液が顔中に飛び散り、忍は反射的に目を閉じた。
白濁が目元から頬、顎にまで伝う。
「いい格好だな、こんな場所で」
冷徹な目で自分を見下ろす光流を、忍はまだ腕を縛られていて拭うことも出来ない精液にまみれた顔のまま、震えながら睨みつけた。
これだけされてもまだ人を睨みつけるだけの余裕があるのかと思うと、光流は自分の中に更に黒いものが膨れ上がるのを感じ、忍を床に押し倒す。無造作に足を抱え、一気に自身を捻じ込んだ。
「い……っ……!!」
痛みに顔を歪める忍の体を大きく揺さぶる。
とてつもなく黒い感情が、光流の全てを支配する。
壊したい。
全て壊して、ズタズタに引き裂いて、全てを呑み込んで食らい尽くして、自分だけのものにしたい。
永遠に、誰の手にも渡らないように。 その瞬間。
(私のことだけ見てよ……!!!)
また、あの声が脳内に響く。
うるさい……。
うるさい。
うるさい!!!
(あなたは私のものよ)
俺のものだ。
(行くな!!どこにも行くな!!)
俺のものだ。
(私だけを見て……!!!)
俺だけを見ろ。
俺だけを!!!
「あ……あ……ぁ……っ!!」
壊れるほどに激しく抱いたその体が、よりいっそう激しく震え、同時に光流も限界に達した。
己の荒い息だけがやけに耳に響く。腕の中の忍が、ぐったりと力を失くしていく。
「忍……」
ゆっくり自身を引き抜いて、光流はそっと忍の額に手を当てた。
気を失った忍を目前に、ようやく光流の瞳に正気の色が戻ってくる。自分の中のあらゆる黒い感情をぶつけた、精液にまみれた酷い姿を、光流は強く抱きしめた。
「酷い……な……」
消え入りそうな声で光流は呟いた。
いったい何をしていたのだろう、俺は。
こんな……こんなことするつもりはなかった。
けれど抑え切れなかった。
嫉妬という熱い炎が胸の内を焼き尽くして、どうしようもなく滅茶苦茶にしてやりたくて、自分だけを感じてほしくて、傷つけて、それでもまだ足りないと心が叫んでいる。あんなにも自分が恐れていた感情を、今、自分が痛いほどに感じている。
あの頃、少しも理解できなかった。なぜ彼女たちがそんなにも自分を独占したがるのか。苦しめるのか。
でも、今なら分かる。
あの頃感じていた苦しみより、今のほうがもっと苦しい。
きっと彼女達の方が、ずっと、ずっと、苦しかったんだ。
「忍……っ」
光流の瞳から涙が流れた。
長いこと抑えつけていたものが、一気に溢れ出すように。
ずっとずっと昔から抱いてきた悲しみや痛みや苦しみや寂しさ、そんなものがこんな形で吐き出されるなんて。
最悪だ。
激しい自己嫌悪と共に、光流は声もなくただ涙を流し続けた。
生徒会室の仮眠用のマットに横たわる忍の赤く腫れた手首に、光流はそっと口付けた。
綺麗に後始末はしてやったけれど、体中に無残な跡が残っている。
可哀想に、と光流は思う。
犯され汚され、何もかも奪われて、それでもそんな忍を、より一層手放したくないと思っている自分を憎悪する。
きっと自分は今、とても醜い顔をしているだろう。
愛情という名の欲にまみれて。
「……ん……」
不意に忍の体がピクリと小さく反応した。
「みつ……る……?」
うっすらと目を開けた忍は、まだ自分の状況を把握できていない様子だったが、すぐに先ほどまでの出来事を思い出したのか、起こした体を震わせ咄嗟に光流から身を離した。
怯えている。当然だ。
「忍……」
光流は忍にそっと手を伸ばすと、その体を引き寄せて優しく抱きしめた。
「ごめん……ごめんな」
思いのたけを込めてそう囁く。
忍は黙って抱かれていた。
「本当にごめん……」
ただ謝罪の言葉を口にする光流に、忍は何も応えない。
よりいっそう、光流が忍を強く抱きしめたその時。
「光流……」
ふと、忍の手が光流の後頭部に回された。
刹那。
突然、物凄い激痛が光流の後頭部を襲う。
忍におもいきり髪の毛を掴まれたのだ。
「ごめんで済むと思ってるのか?」
「い……!!!」
驚いたのも束の間、物凄い冷気をまとった忍が、一瞬即発で人を殺しかねない鋭い瞳で自分を睨みつけている。
「ご……」
光流はすぐさま忍から離れて、激しい動揺を露に後ずさった。
「ごめんなさい!! ほんの出来心っていうか!! はずみっていうか!!!」
「出来心……はずみ……だと?」
忍が立ち上がり、絶対零度の低い声で呟きながら光流に近づいていく。
殺される。
絶対に殺される!!!
そう思った瞬間。
脳天をぶち破るような音と激痛と共に、光流は一瞬気を失った。
バタンと音をたてて閉まったドアの音で、正気に戻る。
「い……ってぇ……」
口の中に血の味が広がる。
軽く口元をぬぐって、それから、光流はどこか嬉しそうに口の端に笑みを浮かべた。
(さすが、忍くん)
ふと光流は、ずいぶん以前のことを思い出した。
いつだったかも、こんな風に殴られたことがあった。
あの時は、自分も忍を思い切り殴り倒して、気絶までさせて……。
でもやっぱりあの時も、忍は決して怯まなかった。
まっすぐに自分を見て、声を大にして宣戦布告してきた。
そう……忍は、どんなに痛めつけたって、しっかり自分で立ち上がって向かってくる。
そういう、強い奴だったんだ。
(可哀想、なんて……)
思わなくても大丈夫。
もちろん帰ったら死ぬほど謝り倒すけど。
たぶんしばらく許してはもらえないし、近寄らせてもくれないだろうけど。
大丈夫。
あいつは絶対、俺から離れたりしないから。
それでも何も求めてこないあいつだから、俺は求められる。
そして、何度だって、あいつを自分のものにするんだ。
(つか、俺って……) 光流は立ち上がり制服の埃を払いながら、自分の中の知らない自分を自覚し、しばし頭を抱え続けたのであった。 |
|