Telephone
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シャワーの栓を閉めてからふと気づいて、忍はわずかに頬を赤らめた。 同時に新調したばかりのボディソープが視界に飛び込んでくる。忍は更に気恥ずかしいような感覚に襲われた。 いや、これはたまたま以前使っていたソープが切れたからであって。いつもと違うメーカーのものにしたのは、なんとなく良さそうだなと思っただけで。 我ながら言い訳っぽいなと感じつつも言い訳じゃないと断定しながら、濡れた身体をバスタオルで拭いドライヤーで髪を乾かし、しっかりアイロンをかけたズボンとシャツを着込んでから、忍は出かける仕度をはじめた。 社会人生活一年目。 学生時代に進むべき道であったはずの政界とは全く異なる職種であったが、難なくやりこなす自信はあった。どこに行こうがどんな仕事だろうが相手が誰であろうが、人の集まる組織は基本みな同じだ。たとえばヤクザの世界と医者の世界が同列であるように、力あるものが世界を制し、力無いものは知恵を使い強者を制するか、逃げ惑い怯えるしかないだけの弱肉強食の世界。 忍は元より恵まれた頭脳を余すことなく生かし、持てる全てのものを利用して、己の能力を存分に発揮した。結果的に、支持者が増えれば当然批判者も同じだけ増えていく。そんな戦場の真っ只中で、日々小さなストレスは抱えていても、忍の心は到って平穏なものであった。 社会人一年生には全くもってふさわしくない広々とした2LDKのマンションを後に、忍は軽々とした足取りで歩を進めた。 ガタンと揺れる電車にわずかに足元を揺さぶられ、やはり車で来るべきだったと思ってからふと、つい二週間前に会った恋人の怒った顔を思い出す。 『もう次からは絶対に電車で来てくださいね!?』 拳を握り締め顔を真っ赤にして本気で怒る恋人に、反論できる余地はなかった。 確かに、いくら目的地にたどり着くまでに時間が無かったからといって高速道路を時速200キロオーバーで目前を走る車を追い越し追い越し、おまけに後ろにぴったりくっついてくるどこぞの馬の骨と本気で対戦したことは大いに恥じるべきことであるし、車を停めると白目剥いている助手席の恋人を見て「この程度で気絶するか情けない」と思い切り蔑んだことも、せめて口に出さなくて良かったと思っている。 案の定、意識を取り戻した恋人に今にも殴られんばかりの勢いで怒鳴られて、忍は正直「煩い」と、またもどこぞの馬の骨と同じようなことを思ってしまった己を反省したものだった。 自分の運転の荒さは嫌というほど自覚している。それが自分の本性であることも。仕事ならば理性を保ち平常運転が出来るのに、なぜプライベートになるとこうも人が変わるのかは、自分でもよく解らない忍であったが。 だから大学時代にも車を所有してはいたものの、プライベートでの運転はほぼ人に任せきりだった。思い出し、忍は咄嗟に記憶の扉を閉ざした。 そういうわけで、今回は電車に揺られながらの移動となったわけだが、たまには何も考えずただ景色を眺めているのも悪くない。悪くはないが。 忍はどこかぼんやりとした表情で、車外の移り行く景色を眺める。ただじっとしているだけのせいか、車に乗っているよりも遥かに長く感じる時間が酷くもどかしい。早く。早く。と心の内で唱えている自分に気づいた瞬間、再び妙に気恥ずかしい気分に襲われた。 別に、早く会いたいからなんかじゃない。本当に時間が惜しかったから。またも言い訳っぽいなと心中で呟いたと同時に目的地到着のアナウンスが流れ、忍はハッと顔を上げた。 駅のホームに降りる。日曜の昼間、そこそこ人は多い。流れに合わせて改札口を出るとすぐに、赤茶色の髪を発見した。 忍は瞬間、仕方ないように苦笑した。 つまらなそうに携帯電話をいじる横顔。いいかげん飽きたと言わんばかりのその顔つきが、どれだけ長い時間待っていたのかを連想させる。せっかく携帯電話を持っているのだから、犬のようにじっと待っていなくても、その辺りでウロウロ暇つぶしでもしていれば、着いたこちらから連絡するのに。 思いながら、忍は恋人の元に歩み寄った。 「蓮川」 そっと忍び寄り声をかけると、恋人は咄嗟にハッと顔をあげ、それからやや顔を赤らめた。照れと嬉しさが混じったその様子に、忍の表情も自然と緩む。 「悪い、待たせたな」 「あ……いえ、今来たとこですから」 言いながら、蓮川は携帯電話を閉じてジャケットのポケットにしまった。 「昼、まだですよね? なに食いたいですか?」 「おまえは?」 「え……と、俺は、別に、なんでも」 相変わらずの優柔不断ぶりを見せる蓮川を前に、忍は不意に何か思いついたように目を見開いた。 「じゃあ、何か作ってくれ」 「え……」 蓮川が目を丸くした。 「おれのうちで……ですか?」 「嫌か?」 「いえ、別に構わないですけど、大したもん作れませんよ?」 謙遜なのか面倒なのか、おそらくどちらもだろう。眉をしかめる蓮川に、忍は「何でもいい」とだけ応えた。 男の手料理なんて、せいぜいカレーか焼飯程度だろうと思ったら、予感は見事に的中。蓮川がスーパーでまず先に手にとったものはハムで、それから卵、葱、中華だしの元と、実に解りやすいもので、せめてハムではなく叉焼使えと言ったら、貧乏学生に贅沢言わないでくださいと逆に切れられた。 「野菜が足りない」 結局焼飯の材料以外に何も入っていないカゴを見て、忍が目を据わらせる。 「だったら自分で作って下さいよ!?」 「それじゃ意味ないだろう」 いちいち反発してくる蓮川に、忍はあくまで平穏な瞳を向けた。蓮川が眉をしかめながら首をかしげる。 「おまえが作ってくれたものが食いたいのに」 忍が微笑しながら穏やかにそう言うと、途端に蓮川は頬を赤く染めた。 すぐさま目線を逸らし、野菜コーナーにむかう。 解りやすい奴。 忍は心の内で舌を出した。 風呂すらついていない、六畳一間の狭い木造立てアパート。訪れるのは数度目になるが、来る度懐かしい記憶を呼び起こされ、妙に落ち着いた気分になるこのアパートの一室を、忍は酷く気に入っていた。しかし蓮川はいつも、「こんなとこですみません」とあまり良い顔をしない。貧乏人の劣等感から来るものだろうが、それが被害妄想だということにいつ気づいてくれるのだろうか。忍は心の内で苦笑した。 相変わらず実家の兄夫婦と甥っ子に遠慮している蓮川は、高校を出て大学進学すると共に、このアパートを借りた。その頃忍も同じ都内に住んでいたので、高校時代の友人達とごく稀に訪れることはあっても、まさか度々個人で訪れることになろうとは、あの頃は想像もしなかった。 しかも、今は……。 「あ、ちょっと待ってください……!」 忍が安い板で作られたシングルベッドの上に腰掛けようとした途端に、蓮川が慌てふためいて制止してきた。 何事かと目を見開いた忍の右手に、違和感が走った。掛け布団の下のそれは、間違いなく一冊の本の感触。即効で察した忍は、蓮川が手を伸ばすより先に掛け布団をめくりあげた。裸の女性が表紙の本を前に、一瞬にして身体を硬直させる蓮川と、目を据わらせる忍。ピーンと室内の空気が張り詰めた。 「い、いや、これは、あの……!!」 「ほう……ずいぶんと成長したな、蓮川。おまえも健全な男だったようで安心してるぞ?」 にっこり微笑みながら、明らかに負のオーラを発する忍を前に、蓮川は顔を真っ青にする。 「はい、おれも男です! だからそーいうのが無いと出来ないし……っ。忍先輩も同じ男なら解るでしょう!!??」 だから何故そこで逆切れ出来るのか。焦るあまり更に忍の怒りを煽っているということにはどうやら気づいていない蓮川に、忍は額に青筋をたてながらも笑みは崩さない。 「むろん解ってる。おまえ程度の男にはこのテの本が唯一の救いだってことくらいはな。で、この本で何回抜いたんだ? どの女が好みだった? おまえのタイプはロングヘアかショートヘアか? 巨乳かそれとも貧乳か?」 「いや、どっちでもいけますけど! これはそういうのじゃなくて……っ」 どっちでも。 どっちでも。 ……どっちでも!!?? あまりに正直な蓮川の台詞に、忍の怒りは瞬間湯沸かし器のごとく沸点に達した。 「要するに誰でも良いんだなおまえは。相手がロングヘアだろうがショートヘアだろうが巨乳だろうが貧乳だろうが先輩だろうが後輩だろうが男だろうが女だろうが、抜いてくれる相手なら誰でも」 「ちょ……っ、なんでそんな話になるんですかっ!!??」 意味わかんねーと言わんばかりに、蓮川が忍の言葉を遮った。 「だいたい先輩、おれの抜いてくれたことなんかないじゃないですか!?」 「だったら今すぐ抜いてやる」 「い……っ」 忍にいきなり手首を掴まれ、ベッドの上に押し倒された蓮川は、ぎょっと目を丸くした。強い力で押さえつけられ、ズボンのチャックに忍の指が寄せられた途端に、蓮川は思い切り抵抗を示した。 「だ、ダメですって……! 物事には順番というものが……!!」 「なんの順番だ? まさか恋のABCからはじめるつもりじゃないだろうな? 「俺達キスもまだなのに……!」とか処女みたいなことを抜かすつもりじゃないだろうな? だいたい付き合って半年になるというのに、エロ本片手に抜いてる暇があったら、俺のためにきっちり蓄えておけ……っ!!」 完全にぶち切れた忍は、蓮川の胸ぐらを掴みあげ殺気を向ける。 すると、それまで怯えていた蓮川が途端に顔をきょとんとさせた。 「え……それって、して、いいって事ですか……?」 まるで予想していなかった反応をされた忍は、途端に怯んだ表情を見せ、掴んでいた胸ぐらをパッと離し、それからカッと頬を熱くした。 「いえむしろ、して欲しい……って、意味ですよね……?」 蓮川の表情がぱあっと明るくなり、期待に満ちた瞳をする。 忍は自分の台詞を頭の中で反芻させ、激しい羞恥心を覚えた。 (こいつ……っ) いつの間に、人の心理を読み解くようになったのだろう。しかもおそらくは何も考えず、当たり前みたいにあっさりと。くそ、蓮川のくせに生意気だ。もはやそんな八つ当たりでしかない思考ばかりが駆け巡っている間に、気づけば忍の方がベッドの押し倒されていた。 「順番は……やっぱりちゃんと守らなきゃって思ってたんですけど……、いい……ですか?」 「だから……、何の順番だ……っ」 真剣な表情で尋ねてくる蓮川に、忍は悔しさと羞恥心ばかりを露に尋ね返した。 「なんていうか……先輩の気持ちが、ちゃんと固まるまでの……。おれ、やっぱり、大事にしたいから……」 慈愛に満ちた瞳。突然に、忍は過去の記憶を思い出す。 今にも泣き出しそうになりながら告白してきた、あの日の記憶を。 一途で真剣な瞳に胸打たれて、全てを委ねても良いと思えた、あの時の蓮川の眼差しが、今目の前にある。忍は思い出し、胸の内の甘い疼きを確かに感じた。 「気持ちなんて……とっくに……」 あの時に、固まっている。だからここに来る度にいつも覚悟してきては、いつもキス止まりであっさり肩透かしをくらっては、悶々とする毎日であったのに。 そう言おうとしたけれど、言えなかった。つまらないプライドばかりが邪魔をして、本当の気持ちなんてとても口には出せない。だからおまえが気づけ馬鹿。いつの間にかそんなに成長していたなら、こんなくだらないプライドなんか、さっさと全部壊してくれたらそれで構わないのに──。 「せんぱ……」 言えない代わりに唇を重ねる。触れるだけのキスをして、そっと唇を離すと、そこには今にも泣き出しそうな蓮川の瞳があった。何故だろう。同じように泣きたくなる。じわっと瞳に液体が浮かぶのを感じているのに、忍は自分が泣いていることをまだ自覚できずにいた。 「好き……です。だからもう……、抱いても、いいですか……?」 ずっと、ずっと、我慢してたんです。そう言って、蓮川に再び唇を塞がれ、忍はそっと瞳を閉じた。 熱い唇の感触。舌を絡めた瞬間、脳が痺れ全身が疼いた。 待っていた。ずっと、この時を。半年もの長い時間。告白して、手を繋いで、キスをして。ただ真面目に順番を守っていたなんて、中学生の処女じゃあるまいし馬鹿みたいだ。 でもだからこそ、大事にされていると感じることが出来たのかもしれない。こちらから求めずにはいられないほどに。 大切に大切に育んできた感情が、一気に膨れ上がる。もう自分では制御できないほどの熱に襲われ、忍は蓮川の首に腕を回し、舌での愛撫に無我夢中で応えた。 「……は……っ……」 唇を離すと、すっかり欲情の色に染まった忍の瞳が蓮川を見つめた。 「うわ……おれ、エロ本の一億倍興奮してます……」 「あんなものと……比べるな……っ」 欲情を露にしながらシャツのボタンを外す蓮川に、忍はあくまで強気な瞳を向けたが、同じくらいに昂ぶっている自身を抑制できずにいた。首筋に噛み付かれるように歯を立てられ、ゾクッと全身に鳥肌が立った。 (やっぱり……) 準備、してきて良かった。 思いながら、忍はぎゅっと目を閉じる。ボタンが全てはずされ、腰から胸に蓮川の指が伝う。けっこう慣れた手つきをするのが何だか妙に腹立たしいけれど、ぐいと片手で腰を引き寄せられた途端に、また身体の芯が熱く疼いた。 もう自分でもパンパンに膨れ上がっていると解る股間に手が伸びてきたその瞬間、唐突に蓮川の携帯電話の着信音が鳴り響いた。 「あ……ちょっと、待っててください」 蓮川がいきなり素の声を発したと思うと、ぱっと忍から離れて携帯電話に右手を伸ばした。 突然に放り出された忍は、言葉もなく唖然とした瞳を蓮川に向ける。 (普通、出るか……?) 忍は心の内で呆然と呟いた。 あまりにも無神経な蓮川の行動に、思わず肩を震わせたその時。 「光流先輩!?」 蓮川がすっとんきょうな声をあげたと同時に、全身が硬直するほど破壊力のある名が耳に届き、忍の表情が青冷めた。 「あ……いや、ちょっと驚いただけで……。え、今日はちょっと……。用事が……。いや、デートとかじゃないですって!」 蓮川はいつもの調子で電話の相手と会話を続ける。似たような会話ばかりが延々と続き、忍がいいかげん切れと思ったその時、蓮川は半ば切れ気味に「もう切りますよ!」と言って、携帯電話を電源ごと切った。 それからふぅと小さくため息をついて、どこか気まずそうにゆっくりと忍に目を向ける。咄嗟に忍は目線を逸らしてから、しまったと思ったが、正直な反応をしてしまったことに今更言い訳しようもない。案の定、蓮川は傷ついたような瞳を忍から背けた。 酷く重苦しい空気が二人の間に流れる。 どうして。なんで。よりによってこんな時に電話してくるんだあの馬鹿は。行き場のない感情は、ごく自然によく知る相手への怒りへと変わった。 蓮川は相変わらず何も言わない。思うことがあるなら言ってくれれば良いのに。忍は焦りと共に苛立ちを覚えた。 「……なんて、言ってきたんだ?」 先に口を開いたのは忍だった。蓮川が「あ……」と暗い顔を向ける。マイナス思考もすぐ顔に出してしまう蓮川を前に、忍は問うべきではなかったかと後悔したが、今更後には引けなかった。 「いや、今日暇だから、遊ばないかって……。相変わらず急だし、しつこくて困りますよ……」 苦笑しながら蓮川が言う。忍は返すべき言葉に迷った。それがますます蓮川を不安にさせることには気づかずに。 「……腹、減りましたね。俺、飯作ってきます」 もはやさっきまでの続きという空気ではなく、蓮川が立ち上がって台所に向かっていく。 忍もまた、心の内に不安ばかりを覚え、握った手をわずかに震わせた。 なんて言えば良かったのだろう。以前だったら、どう返していたのだろう。思い出せない、何も。 そもそも蓮川が電話になんか出なければ。せめて電話の相手が光流じゃなかったら。こんな空気にはならなかったはずなのに。 そんな八つ当たりでしかない文句を心の内で連ねていると、更に苛立ちばかりが募っていく。 何も言わずあくまで平常心を装ってふるまう蓮川の心の内が読めない。拗ねているのか、怒っているのか、それとももううんざりだと思っているのか。蓮川の思考なんて、昔は考えるまでもなく馬鹿みたいに簡単に読めたのに、どうして。 怒り。不安。恐怖。マイナスの感情に支配され、忍は今すぐここを出て行きたい衝動にかられたが、必死でその衝動を押し殺した。 「ちょっと、味濃いですか?」 「……いや、このくらいで良い」 当たり障りのない会話。少しも味のしない食事。相変わらず重苦しい空気。 こんな時、あいつみたいに気の利いた冗談の一つでも言えたら。思ってからまた、酷い嫌悪感に襲われた。きっと同じことを、蓮川も思っているに違いないから。そんなこと思わなくても、決して比べたりなどしないのに。 「ビデオでも観ます? この前借りたやつ、おれ、まだ観てなくて」 昼食を食べ終えた皿を無言で洗っていると、蓮川が無理のある笑顔を浮かべながらビデオデッキに手を伸ばす。だいぶ気を使わせていることに気づき、忍は台所から離れ蓮川の隣に腰を下ろした。 「お皿、ありがとうございます」 「いや……」 このくらい、当然のことだ。せっかく作ってもらったのだから、「ありがとう」って言わなければならないのに、先に言われたら、言えなくなってしまった。 完全に自信を失い不安ばかりに囚われる忍に、もはや発する言葉は何も見つからず。 ただ、どうして良いか解らない。 相手の心の内を考えれば考えるほど、迷宮に迷い込んで抜け出せなくなって、不安感でいっぱいになって思考がまとまらず、心の中はまるでパニック状態だ。 目の前の映画の内容も、まるで理解できない。「この女はタイプか?」そんな軽い冗談すら、明るい髪色と明るい笑顔の頼り甲斐がある男性が恋の相手では、今はマイナスに受け止められてしまいそうで。 忍が蓮川にチラリと横目を向ける。あくまで普通だった。表面上は。こんな時こそ、いつものようにつまらない事で文句ばかり連ねてくれれば良いのに、物分りの良いフリなんてするな馬鹿。それが出来ないなら、さっさと光流と縁を切るなりすれば良いのに、いまだ高校時代と何一つ変わらない関係を維持し続けていられる感覚もよく解らない。 光流は蓮川と忍が恋人同士であることを知らない。だから蓮川には今だ変わらず、遠慮なしの暴君だ。蓮川もまた、高校時代そのままで、光流の強引な態度には決して逆らえない。けれど蓮川自身は知っているなら。かつて忍と光流が恋人同士であったことを知っているなら。 (何か一つくらい、言ってくれたって……) 馬鹿。ともう一度心の内で呟いてから、忍は暗い表情で口を開いた。 「……別に、光流と遊びに行っても良かったんだぞ」 「え……?」 気が付けば無意識の内に、忍は声を発していた。 「あいつのことだ、しつこく誘ってきただろうし、おまえのことだから断るのは気が引けるだろう? それに、俺と一緒にいたって何も楽しくないだろうしな」 「なに……言ってんですか……?」 「……帰る」 不信感いっぱいの瞳に見つめられ、忍はほとんど衝動的に立ち上がった。 何を言っているかなんて、自分でも解らなかった。ただ、何か言わなければと思ったから。 「待ってください……!!」 「帰る……!!」 咄嗟に手首を掴まれ引きとめられたが、忍はその手を振り払って逃げるようにその場を去った。 嫌だ。 もう、嫌だ。 何が? 誰が? どうして? 決まっている、答えは一つだ。 (こんな自分は、もう……) 大嫌いだ。 言いたいことが何一つ言えない。逃げることしか出来ない。人を傷つけたくないと思いながら、誰よりも人を傷つける。解っているのに。全部、解っているのに、どうして……!! 「先輩……!!」 腕に感触が走ったと同時に、強い力で引き寄せられ、忍は目を見開いた。 「す、すみません……! おれ、なんか悪いことしたなら、謝りますから……っ!!」 いつものように焦りばかりを露にする蓮川に強く抱きしめられ、忍の瞳に涙が浮かんだ。同時に、渦巻いていた心が更に加速を増していく。 「おまえが……っ、電話なんか出るからだ馬鹿!!!」 八つ当たりだ。完璧に。そう思ったけれど、子供みたいに当たらずにはいられなかった。 「す、すみませんっ、もう二度と出たりしません!!」 馬鹿正直に謝る蓮川を、忍はもっと責めたくなった。 だから、そういうことを言ってるんじゃない馬鹿。もしかしたら、大事な電話だったかもしれないし、そんなことで怒るほど子供じゃない。でももしあの時、何もかも無視して自分だけを見ててくれたら。そう思ってしまうのは、我儘でしかないのだろうか。決まってる。我儘でしかない。 「しかも何で、よりによってあいつなんだ……っ!!」 「い、いや、それはおれに言われても……っ」 困惑した表情を見せる蓮川を、忍は涙目のままに睨みつける。我儘だと解っていても、制御できずにいた。何を言っても、今なら許されるような気がしたからかもしれない。 でも本当は、蓮川は何も悪くないと、解っている。 自分にとってはもう二度と顔も見たくないほど最悪な別れ方をした元恋人でも、蓮川にとっては今だ大事な友人で。だから邪険にしろだとか無視しろだとか、そんな身勝手なこと言えるはずもないのに、自分が不快に思うものとは何もかも縁を切って欲しいと願ってしまう。最低な独占欲だ。 「……何で、なにも言わないんだ……」 全部、全部、自分の我儘だって解っている。それなのに、憤りばかりを感じる。 結局、一番責めたいのは。一番不安なのは。一番怖いのは。 「忍先輩……?」 今にも泣き出しそうな瞳を向ける忍に、蓮川は心底困ったとばかりに首をかしげた。 「あの、よく解らないんですけど……、ほんとにすみません……!!」 本気で何も解っていない蓮川に、ぎゅっと抱きしめられ、忍はようやく心の落ち着きを取り戻したように肩の力を抜いた。 いつの間に、身体全部包み込まれるくらいに背が伸びて、手が大きくなって、力が強くなったのだろう。それなのに、中身は少しも変わらない。 ほんの数年前を思い出したら、必死で抱きしめてくる腕がなんだか急に可笑しくなって、忍はそっと蓮川の背に腕を回した。温もりを感じると、心の内の波は穏やかに静まり返った。 (頼むから……) 怒るのでも、泣き喚くのでも、殴られるのだって構わない。 ただ一つだけ、どうしてもと願うのは。 (放っておかないでくれ) 電話に出なければならないなら、手を握ってくれているだけで構わない。友人と話がしたいなら、時折そっと目を向けてくれたら。昔の恋人を不安に想うなら、素直にそれを伝えてくれれば。そう思ってから、自分も同じことをしなければならないのだと気づいて、忍は潤んだ瞳で蓮川の瞳を見つめると、自ら手を握り、そっと唇に唇を寄せた。 「こ……ここまでして、ダメなんですか……?」 ベッドの上に寝転びぎゅっと抱き合いながら、まるで拷問だとでも言うように、蓮川が震えた声を発した。 「順番は、きちんと守れよ?」 「気持ち、固まってたんじゃないんですか~~~!?」 ぎゅっと抱きついたままであるにも関わらず、にっこりと邪悪な笑みを浮かべる忍を前に、蓮川は我慢の限界突破な涙目で訴えた。 「おまえの馬鹿さ加減のおかげで見事に揺らいだからな」 胸にすりすりしてきながらその台詞って、ほんと意味わかんないんですけど!!?? あくまで喚き続ける蓮川に、忍はわざと思い切り甘えてやった。 おまえに全部やるのは、まだ100万年早いクソガキ。 そう、心の中で呟きながら。 |