Rule

 

 窓の外を流れる景色には一切目を向けず、車のハンドルを握り締め前だけをまっすぐに見つめる蓮川の表情が、段々としかめられる。その車の助手席と後部座席では、力の抜けた会話ばかりが繰り広げられていた。
「なあなあ、なんでおまえ教習所の教官にならなかったんだ?」
「すかちゃん、すごーいっ!! もしかしてドライバーの模範になるために生まれてきたの!?」
「しかしある程度はスピード出してくれないと、返って事故の元になるんだが。見ろ、背後から思いっきり煽られてるぞ」
 一時停止時は全てきっちり三秒数えてから発進。法定速度は厳守。常に「かもしれない運転」を心がけ、見ている方が疲れてくるほどに規則正しく運転を続ける蓮川がチラリとバックミラーを除くと、背後車が明らかに苛立ちを隠せない様子でぴったり後をついてきている。しかし蓮川は、動じない表情で前を見つめた。
「関係ありません。こっちは定められたルールをしっかり守ってるだけですから」
 煽るなら煽れと言わんばかりに、蓮川は一向にスピードをあげることはしなかった。
「でも、すっごく腹立ってると思うよ、あの車」
「おまえな、「流れに合わせる」って言葉知ってるか? この道制限速度30キロだぜ? せめてあともう少しスピード上げてやれよ?」
 今にも衝突してきそうな背後車を見つめながら、瞬がハラハラした様子で、光流が完全に呆れた口調で言い放った。次第に蓮川の肩がわなわなと震える。
「だったら自分達で運転したらどうです!?」
「えーーっ、面倒くさーいっ。僕、人の車運転するのって嫌なんだよねー」
「俺、帰ってきたの朝方だろ? まだ昨日の酒抜けてねーんだよ」
 ついにこらえきれない怒りを爆発させた蓮川だったが、飄々と勝手なことばかり抜かす二人を背後に、諦めのため息をつくより他はなかった。
「俺が変わってやるから、一度どこかに止め……」
「それは駄目です! あなたに運転はさせられません!!」 
 いつも通り冷静に口を開いた忍に、蓮川はがっと噛み付いた。一瞬にして忍の眉がしかめられ、不機嫌なオーラをかもしだす。しかし言い返すことはせず、「俺の車なのに……」と拗ねる忍をよそに、瞬が声をあげた。
「それ、僕も同意~! 先輩達の運転する車には乗りたくありませーん!」
「ちょっと待て! 忍はともかく、俺はそれなりに安全運転だぞ!?」
「どーこーがー!? こんな風に煽られたら、わざと追い抜かさせてそのあとどこまでも追いかけて思い切り煽るくせに!!」
「確かに俺は煽られたら追いつけないほどスピード出すが、おまえほど下衆いやり方はしないぞ」
「あんたらどっちも同レベルですから!!」
 蓮川が声を荒げてもまるで聞いておらず、ああだこうだと言い合いを続ける三人に、もはや言うべき言葉は見つからず。まったくもうとぶつぶつ言いながら、きっちり道路交通法を守りつつ運転を続ける蓮川であった。

 
 まったく、何が悲しくてこの面子で車移動なんかしなきゃならないんだ。
 目的地の結婚式場に辿り着き車を降りると、蓮川はまだ心の内で文句を連ねながら式場に足を踏み入れた。
 かつて寝食を共にしたグリーン・ウッドの仲間から結婚式の招待状が届いたのは、つい二ヶ月前のこと。忍と二人、当然参加しますよねと和やかに会話していたところ、速攻で両隣の隣人二人が駆け込んできて、出し物何にするだの何着ていくだのと大騒ぎになり、妻(※妄想です)と二人きりで懐かしい記憶に想いを馳せる暇もなくなった日のことを思い出し、蓮川は深くため息をついた。
 せっかくの新婚生活(※妄想です)、何故にここまで邪魔されなければならないのだろう。数え切れないほどの嫌がらせが走馬灯のように頭の中に駆け巡り、蓮川は握り締めた拳を震わせた。


 会場で受付手続きを済ませ、開始時間までロビーで談話していると、次から次に懐かしい顔が姿を現した。みなそれぞれに、それぞれの高校時代の友人と談笑を始めている中、久しぶりの運転で疲れ切った蓮川は、人の群れから距離を置くため化粧室に向かった。
「蓮川」
 人気の少ない化粧室前でふぅと小さくため息をついたその時、ふと背後から声がかかり振り返ると、先日一緒に選び合いながら購入した黒のスーツに身を包んだ忍が歩み寄ってくる。遠目にも人を惹きつけずにはいられないほど整った顔立ちと、スラリとしたスタイル。いつも綺麗だけど、今日は一段と綺麗だ。こんな人が、俺の妻(※妄想です)だなんて。そんなことを思いながら、ぽっと顔を赤らめた蓮川のネクタイに、忍の白く細い指が絡まった。
「だいぶ乱れてるぞ」
「あ、ありがとうございます……」
 うわ、近い……!と心の内で焦りながら、気遣いが嬉しくてますます頬を赤らめる。
「帰りは俺が運転するから……」
 しかしその言葉を聞いた瞬間、目を据わらせずにはいられない蓮川だった。
「それは駄目だって言ったでしょう」
「無茶な運転はしない」
「信用できません」
 一切聞く耳持たずといった態度で、蓮川はくるっと忍に背を向けた。
 しかし忍は負けるまいと言わんばかりに険しい表情で、スタスタと前を歩く蓮川の後にぴったり着いていく。
「俺はおまえが疲れてるだろうと思って言ってるんだ」
「そんな言葉には騙されません。単に車の運転がしたいだけでしょう?」  
 忍が一瞬言葉を詰まらせた。図星であることを証明しているその様子に、蓮川がますます厳しい顔つきをする。
「……俺の車なのに」
 ついには完全に拗ねた瞳で睨まれ、蓮川は仕方ないようにため息をついた。
 まだ付き合い始めた頃、あまりにも無茶な運転ぶりに白目を剥いてからというもの、忍の運転は断固として許さなかった蓮川であったが、脅したり甘えたり拗ねたりといった技を駆使して何とか車に乗ろうとする忍に、幾度か心折れて譲ったことがあった。しかしそのたび初めての運転時と変わらず、喧嘩を売られたと見れば道路交通法も何もあったものではない無茶な運転ぶり。もう絶対に何がなんでも車の運転は許さないと心に誓った蓮川だった。人間、運転の時は本性が出る。その人の本当の性格を知りたいなら車の運転を見ろ、と過去に誰かが言っていた言葉を思い出す。全く持ってその通りだったと、蓮川はつくづく思ったものであった。
「車はオモチャじゃないんですから、我慢して下さい。カッとなったら自分じゃ制御できないって、よく解ってるでしょう?」
「それはおまえだって……!」
「ええ一緒です、だから解るんです! でも幸い俺は、車の運転だけはそうならない自信ありますので」
 断固として運転はさせないと言い張る蓮川に、忍はまだ納得いかないという瞳ばかりを向ける。しかし蓮川の言うことが図星であるという自覚はあるのか、それ以上言い返すことはしなかった。
「それより……」
 ふと、蓮川がつい先ほどまでの照れたような表情を見せる。前髪を指で掬われ、忍がやや目を見張った。
「今日の先輩、凄く綺麗です。そのスーツ、やっぱりよく似合ってる」
「……少しおまえに汚されたけどな」
 ふっと忍が微笑すると、突然に昨夜のことが思い出され、蓮川の頬がますます赤く染まった。
「今夜も……汚しちゃうかもしれません……」
 どうしよう。今すぐぎゅっと抱きしめたい。思いながらもこの場所で出来るはずがなく、忍の肩をそっと掴み、まっすぐにその綺麗な瞳を見つめる。
「は……」
「蓮川~!? ひっさしぶり~!!!」
 忍が口を開いたと同時に、全くの別方向から元気で明るい声が響き、蓮川が咄嗟に顔をあげて忍の身体を引き離した。
「おまえ……戸丸……?」
 蓮川が声の方を振り向くと、そこには久しぶりに会う高校時代の同級生の姿があった。
「おー! 元気そうだなおまえ!? 相変わらず可愛いツラしてんのかと思ったら、やっぱ可愛いな!!」
 すっかり大人になったものの中身は全く変わっていないらしい同級生に、蓮川はヒクッと顔を引きつらせた。
「そーいうおまえも相変わらず俺よりずっと可愛いじゃねーか……っ」
「いーや! 絶対おまえのが可愛いっ!!」
「どこがだ可愛いんだよ!? 俺もう身長160センチじゃねーぞ!?」
 会うなり盛大に口喧嘩を始める、外見だけはすっかり一人前の男に成長したものの中身はまるで男子高校生に逆戻りな男二人を、面白くなさげに見つめる忍であった。


 滞りなく式が終了し、二次会の会場に辿り着くも、着くなり速攻で群がってきた女性軍にソツなく愛想笑いをする忍と、その隣で同じようにソツなく明るい笑顔を向ける光流を遠目に眺めながら、蓮川はやや寂しげな瞳を烏龍茶の入ったグラスに移した。
 相変わらず、二人揃ってよくモテることで。高校時代と少しも変わらない妬み僻みでいっぱいの自分の心に嫌気がさした、その時だった。
「きゃ……っ!」
 突然、バシャッと音をたてて降りかかってきた冷たい感覚に目を丸くすると、ワイングラスを片手に持った女性が酷く焦った顔を向けてきた。
「す、すみません……!」
 どうやらすれ違い様につまづいたか何かで、グラスの中のワインを撒けてしまったらしい。肩より少し長い髪をくるりとカールさせ、派手過ぎないナチュラルなメイクの小柄な女性。特別美人ではないけれど、かもしだす雰囲気が柔らかく、男なら思わず守りたくなるような可愛らしさを兼ね揃えているその女性は、慌ててバッグからハンカチを取り出し、蓮川の濡れたスーツの袖口をぽんぽんと叩き始めた。
「やだ、やっぱり染みになっちゃいますね……!」
「あ……ありがとう、もういいよ。どうせクリーニングに出すつもりだったし」
「本当にごめんなさい……! あの、クリーニング代出しますので……っ」
「いいって、本当に。それより、そっちのが染みになっちゃうかも……」
 よく見ると彼女のベージュ色をしたパーティードレスの胸元にも、わずかだがワインが飛び散っていて、蓮川は困ったように眉をしかめた。
「ちょっと待ってて」
 それから何か思いついたような顔をして、蓮川は店の店員に声をかける。しばらくして戻ってきた店員に渡された白いタオルを持って、蓮川はまだ困り顔を隠せない彼女の元に向かった。
「わ……凄い! 綺麗に落ちた~!!」  
 蓮川が手に持っていた白いタオルでぽんぽんと叩くように拭うと、彼女のドレスの染みは跡形もなく消え去った。感嘆する彼女に、蓮川は良かったと安堵の表情をする。
「これ、食器用洗剤つけてもらったんだ」
「へぇ、洗剤でこんなに落ちるものなんですね? 私、全然知らなかったです」
「小学校の頃、よく給食で体操服に染み作ってきてさ。帰ると必ず兄貴がこうやってすぐ、台所の洗剤で汚れ落としてから洗濯してたの思い出して」
「お兄さんが……?」
 きょとんと目を丸くする彼女に、蓮川は「あ……」と口を篭らせた。
「あー……なんていうか、所帯じみた兄貴でさ」
  誤魔化すようにハハッと苦笑する蓮川を前に、彼女はクスリと柔らかく微笑んだ。 

 
「おまえ、相変わらずあの先輩達とツルんでんのな」
 ビールグラスを片手に、完全に酔った口調で戸丸が言った。蓮川は相変わらず女性軍に囲まれている光流と忍を見つめてから、すぐさま目を逸らす。  
「ちぇ~、今日けっこう可愛い子いっぱいいたのに、あの人達と一緒じゃなぁ……」
「……そうでもないぞ」
 あれを見ろ。蓮川が指差した方向では、瞬が数人の女性に囲まれて実に楽しそうに談笑していた。
「あいつもすっかり男になっちまって……しかもけっこうイイ男に」
 この裏切り者、と戸丸が悔しげに瞬を見つめる。
「会話はたぶん女子だけどな」 
 蓮川は目を据わらせて言った。
「なあ、なんで? 自分で言うのもなんだけど、俺だってこれでも普段はけっこうモテるのよ? なのにあの三人がいると途端に格下げ……って、おまえよくいつも一緒にいるなぁ……」
 非常に哀れみをこめた瞳で戸丸に見つめられ、蓮川は「どういう意味だっ、どういう!」と屈辱に身を震わせた。
「いや、おまえだって決して不細工の類じゃないと思うぜ? でもあの人達と一緒にいると、どこからどう見ても普通にしか見えないっつーか……」
「余計なお世話だっ! 俺だって好きで一緒にいるわけじゃ……!」
 高校時代のままに声を荒げると、不意に背後から羽交い絞めをくらい口を封じられた。
「蓮川~、いーい具合に酔ってるかぁ?」
 いつものごとく完全に酔っている光流に絡まれ、蓮川は実に迷惑そうに顔をしかめた。
 戸丸が呆れ顔で、そんな二人の元を去った。


 二次会が終わる頃、さんざ飲んだ光流が酔いに酔った同級生に拉致され消えていき、瞬はどこかの見知らぬ女性といつの間にか消えていて、あの二人は放っておいてさっさと家に帰ろうと決めた蓮川は、数人の女性に囲まれた忍からやや距離を置いたところで、「もう帰りますよー」と口の動きだけで訴えた。忍が「了解」と表情で応える。
「えーーっ、もう帰っちゃうんですかぁ!?」
「せっかくだから、もうちょっと他のところで飲みましょうよぉ!!」
「ヤキモチやきの彼女が待ってるので。今日は楽しかったです」
 取り囲まれていた女性達ににっこりと完璧な愛想笑いを向けてから自分の元に歩いてくる忍を、蓮川は不機嫌丸出しの瞳で見つめた。 
「誰がヤキモチやきの彼女ですか?」
「彼氏と言って構わなかったか?」
 悪びれもせず飄々と言ってのけた忍に、蓮川は「いいえ」と答えた。
「……光流先輩ならあの女性陣も納得もしたでしょうけど、俺じゃ白い目で見られるだけですから」  
 完全に拗ねた口調で言う蓮川を、忍は無表情で見据える。その眉がやや釣りあがっていることに気づかないまま、蓮川が店を出ようとしたその時だった。
「あ、あの……蓮川さん……!」
 ふと背後から声をかけられ、蓮川と忍は同時に足を止めて振り返る。するとそこには、誤って蓮川にワインをかけてしまった女性が慌てた様子で駆けつけてきていた。 
「もう……帰るんですか……?」
「あ、うん」
「さっきは、ありがとうございました……!……あの……」
 見た目からしていかにも内向的な彼女は、頬を赤らめながら、上目遣いで意味ありげな瞳を蓮川に向ける。何か言いたいけれど言い淀んでいる彼女を前に、蓮川がひたすらきょとんとしていると、彼女は勇気を振り絞った様子で声を発した。
「あの……っ、良かったら、また……」
「すみません、僕たち急いでるんです」
 彼女が何も言い終わらないうちに、忍がその声を遮った。そして蓮川の腕をぐっと掴むと、そのまま彼女に背を向け、強引なまでに足を急がせ店内を去った。


「ちょ……、先輩……っ!」
 腕に強い力を込めたまま、スタスタと歩き続ける忍に蓮川が声をかけるも、忍は振り返りもしない。
「彼女、まだ話し途中だったのに……!」
「最後まで聞いて、どうするんだ?」
 店を出て数メートル歩いたところで、忍はぴたりと足を止めて鋭い瞳を蓮川に向け言った。
「どうって……、どうもなにも、聞かないと何も解らな……」
「「良かったらまた会ってくれませんか?」だ。それを聞いておまえはまた彼女に会うのか? それとも会わないのか?」
「え……それは……」
 しばらく考えてから、蓮川はようやく忍の言葉の意味を理解し、それから意思の強い眼差しを忍に向けた。
「会いません」
 その言葉に、忍の表情がやや緩む。
「……だったら、聞かなくても同じことだろう」
 ふいと視線を逸らした忍に、蓮川は少し考えて、困ったような表情をする。
「同じじゃ……ないと思います」
 ぽつりと真剣な声で、蓮川は言った。  
「たぶん、頑張って声かけてくれたと思うから……。ちゃんと、彼女の言葉に応えてきてもいいですか……?」
 どこまでも真面目な蓮川は、彼女と忍と両方の気持ちを考え真摯な瞳を向けるが、忍は応えない。けれどぎゅっとスーツの裾を握り締めてきた忍の手が、なにより本当の気持ちを示していた。
 蓮川はふっと緩やかに笑って、それからそっと、忍の身体を包み込むように抱きしめた。
「解りました。もう……帰りましょうか?」
 耳元で囁くと、忍の手にますます力が篭るのが伝わってきて。
 誰がヤキモチやきの彼女ですか?
 そう尋ねると、忍の肩が小さく震えて。
 蓮川はぎゅっと強く、その震える肩を抱きしめた。


 本当に、勝手な人だと思う。
 愛想笑いと社交辞令のしすぎで疲れたのか、助手席で眠る忍の顔をチラリと見つめ、蓮川は苦笑した。
 今日一日、さんざヤキモチやかされたのはこっちなのに、最後の最後で目一杯ヤキモチやいてくれるなんて。もちろん嬉しいことではあるのだけれど、それにしても。
(ズルいよなぁ……)
 蓮川が心の内で呟いたその時、
「ん……」
 不意に忍が小さく声をあげ、ゆっくりと閉じた瞳を開いた。
「俺……寝てたか……?」
「いいですよ、家に着くまで寝てて。好きでもない女の子達相手に疲れたでしょう?」
「……なにも好き好んで場の雰囲気を悪くしなくてもいいだろう」
 蓮川の問いかけに、忍はやけに素直に応じた。
「昔の俺だったら、モテるんだからいいじゃないですかって言ってたでしょうけど……大変だったんですね、忍先輩も。それから……光流先輩も」
「別に。慣れてる」
「それは……慣れて欲しくなかったです」
「おまえもいずれ慣れる」
「俺が……? まさか、そんなにモテないですし」
 あくまで自分を卑下する蓮川に、忍は窓の外に不機嫌な表情を向けた。
「……ばーか」
「今、何て?」
 尋ねながらも忍の声がしっかり聞こえていた蓮川は、聞き捨てならないと眉をピクリと釣りあげる。
「馬鹿だって言った」
 突然にハンドルをとられ、蓮川がわっと声をあげて驚愕に目を見開いた。
 慌ててハンドルを戻し道の端に車を停め、大きく安堵の息をつく。
 まるで交通のない道路だったから良かったようなものの、一歩間違えば電柱に激突していたであろう忍の無茶な行動に、瞳を吊り上げた刹那、唇を塞がれた。
「……っ……」
 あまりにも強引に、舌までもが絡んでくる。蓮川は苦しげに目を閉じ解放の時を待った。
「おまえは相変わらず……自分のこと、何も解ってない……!」
 街燈の灯りに照らされ、忍の強気な瞳がまっすぐに自分を捉える。蓮川はその酷く感情的な眼差しに圧倒され釘付けになった。
「俺や光流に寄ってくる女なんて、見た目でしか判断できないガキみたいな女だけだ。でも、おまえを好きになる女は違う。おまえの本質を見抜いて好きになって、さんざ迷って考えて待つ、本気でおまえのことを想ってくれる女ばかりだろう……? 女だけじゃない、光流や瞬やおまえの同級生みたいに、おまえのこと構わずにいられない人間が、この世にはごまんといるんだ。いいかげん、そのことに気づけ馬鹿!」
 忍の叱咤に、蓮川はまるで意味が通じていないかのように目を丸くするばかりだ。それでも足りない脳味噌でぐるぐると思考を駆け巡らせる。
 ええと、それって、つまり、要するに……。
「別に俺、好かれたり構って欲しいわけじゃ……」
 だめだ、全然頭が回らない。
 蓮川がまるきり気の抜けた返答をすると、忍はますます目を吊り上げた。
「だったら……そうして欲しくて、したくもない愛想笑いを続けて頑張ってきた俺達は、ただの道化師だとでも……?」
「そんなこと……!」
 ただの妬み僻みだと、そう言いそうになって初めて、蓮川は気づいた。
「……すみません。俺、何も気づいてませんでした……」
「だから……馬鹿だって言ったんだ……」
 切なげな声で叱責され、蓮川は動揺を隠せないまま目を細めた。
 高校時代からずっとずっと、妬み僻んでいたのは、自分だけじゃなかった。そのことに、今更気づくなんて。でも。だけど。だって。
 誰もが羨むような人達が、まさか自分なんかを羨ましいと思うなんて、あるはずがないと思っていたから。一度たりとも、微塵も、考えたことはなかったから。
「おまえは無意識かもしれない。でも俺よりずっと、人の心を惹きつける力があるんだ。だからもう……比べたりするな」
 忍の真剣な眼差しに見つめられ、蓮川の瞳に涙が浮かんだ。
 どうしよう。泣きそうになる。
 生まれて初めて、認められたような気がして。
 自信を持ってここにいていいんだって、言われたような気がして。
 
 あなたを好きになって良かったって、思えて。

 

 たぶんこの場所は間違いなく駐車禁止だし、そもそもこんな場所でして良いことじゃないし。
 でももう、自分を制御できない。いけないことだと解っていても、止めることなんて出来ない──。
「ねえ先輩、俺がずっと見てたの、知ってました……?」
「……ん……」
「あなたが女に囲まれてる時も……光流先輩と一緒にいる時も。ずっと、ずっと……見てましたよ……?」
 はだけたシャツごしにもはっきりとわかる、忍の尖った乳首を指先で弄びながら、蓮川は耳たぶをやんわりと噛んだ。噛むたびに、忍の体がピクピクと反応を示すのが心地良くて。
「それで……今夜は絶対に、許さないって決めてたんです」
「……ぅあ……っ」    
 蓮川がぎゅっと乳首を摘むと、忍が痛みに顔を歪めた。
「そん……なの……、俺だって……同じ……っ」
 忍が瞳に涙を浮かべながら蓮川を睨みつける。
「ずっと……おまえに言い寄る女に睨みきかせて追い払ってたの……気づいてなかっただろ、この馬鹿……っ」
「……そんなことしてたんですか……?」
 あまりにも思いがけない忍の台詞に、蓮川は目を見開いた。
「だから……自覚しろ……っ、おまえは見た目も全然悪くない……! むしろ……!」  
「むしろ?」
 蓮川がきょとんとした表情で尋ねると、途端に忍の顔が耳まで真っ赤に染まった。
「……煩い……っ、猿……っ!」
 そんな顔をして悪態をつかれても、もう照れているだけとしか思えない。蓮川は酷く嬉しそうに微笑み、助手席のシートを一気に後ろに倒した。
 シャツをはだけさせ、露になった乳首に唇を寄せる。ちゅと音をたてて吸い付くと、忍の肩がビクンと揺れる。
 乳首を舌で愛撫しながら、忍のズボンのベルトを外し、下着ごとズボンを摺り下ろした。既に反応を見せているペニスに右手を絡ませる。親指で亀頭を潰すように撫でると、忍の身体は素直に反した。
「あ……ぁ……っ」
 ぬるぬると滲んでくる液体を塗りつけるように撫で、ぷっくりと膨れあがった乳首から唇を離す。夜の空間ででうっすらと見える忍の顔は、先ほどまでのキツさは微塵もなく、桜色に染まった頬と潤んだ瞳がただ愛しい。
「先輩こそ……自覚して下さい? その顔……これからは、俺だけに見せて下さいね……?」
 蓮川はそう言うと、ぐちゅぐちゅと音をたてて忍のペニスを扱いた。ぎゅっと目を閉じ苦しげに眉を寄せる忍の表情を堪能してから、手を止めペニスの先に唇を寄せた。愛しげに口付け、亀頭を舌先でチロチロと愛撫する。
「……っ……や……ぁ……、も……イ…きた……っ」
 緩やかでもどかしい愛撫ばかりに、忍が涙の混じった声をあげる。それでも緩い愛撫ばかりを続けていると、今にも引き千切られんばかりに髪を掴み引っ張られ、蓮川は痛みに顔をしかめた。
「もうちょっとだけ……我慢してください」
 蓮川は唇を離し忍の耳元に顔を近づけると、指を忍のペニスの裏筋に這わせ、こちょこちょとくすぐるように愛撫する。
「あ……っ、ん……ん……っ」
「ちゃんと我慢するって約束出来るなら、イかせてあげます」
「……ん……っ、……るか……ら、それ、いや……っ」
「どうにも信用できないんですが……」
 なにせ昔から、ルールを守ることが出来ない人なので。蓮川は心の中で呟いて、再度ペニスを口に含む。亀頭に、くびれに、裏筋に満遍なく舌を這わせた。 
「あ……ぁ……っ! イ……く……っ」
「まだ、らめれす」
 ペニスを口に含んだまま我慢しろと訴えるが、口をすぼめた瞬間に忍の体が大きく振るえ、熱い飛沫が咥内に飛び散った。
「やっぱり……守れませんでしたね」
 蓮川は忍の放った精液を飲み込み、ペロッと亀頭を舐めてから、瞳を吊り上げて言った。 


「ん……あ……っ、あぁ……っ!!」
 狭い車内でなりふり構っている余裕などなく。
 運転席に座ったまま起立させている忍自身に入れさせたペニスを、思う存分に味わってもらう。最高の表情を見せてくれる忍を目前に、蓮川の瞳は興奮を隠せない。
「イ……く……っ、も……イ……く……っ!!」
「……っ……」
 完全に我を忘れて乱れる忍の腕が、首に絡んでくる。蓮川もまた、息を荒げながら忍の身体を抱きしめ精を放った。
 達した後も正面から抱き合ったまま繋がっている感覚を存分に味わっていると、忍が気だるげにに息を吐く。
「先輩……ここ、駐車禁止なんですけど……。今お巡りさん来たらどうします?」
「逮捕……されるしかないだろう、色んな罪で」
 冗談めかした忍の言葉に、蓮川が愛しげに目を細めた。
「……ルール破るのって、快感なんですね。初めて知りました」
「おまえは馬鹿真面目すぎるんだ、馬鹿……」
 忍が愛情の篭った声でそっと囁く。同時に熱い唇が重なってくる。
 はい、よく解ってます。自分でも、嫌になるくらいに。
 蓮川は心の中でそう呟いて、触れるだけのキスの後、ただただ愛しいばかりの恋人そぎゅっと抱き込んだ。
「でも、今夜だけです。決められたルールを破るのは」
 いつもと同じ、真面目な声で蓮川は言った。 
 今までだって、何度も何度も言われてきた。そんなに真面目で疲れないか。馬鹿じゃないのか。いつか病気になるぞ。もっと柔軟になれ。そのたび、真面目であることの何が悪いんだと反発しては、落ち込むことの繰り返し。
 そうして批判されればされるほど、心は更に頑なになっていって。俺は何も間違ってなんかいない。守らないなら何のためのルールなんだ。間違っているのはおまえ達の方じゃないか。
 反発すればするほど周囲から人は消え、浮くばりの存在となっていった。
 そんな自分だったけれど、頭空っぽにしてふざけるばかりのグリーン・ウッドでの生活が、少しずつ、少しずつ、頑なな心を解きほぐしてくれていって。
 今はこれでも昔よりもずっと柔軟になって、生きやすくなった。
 それでも、たった一つ、どうしても消してはいけない傷があって。
 たとえどんなに馬鹿だと言われても、クソ真面目だと罵られても、それを消してしまうのは、忘れることと一緒だから。
「……俺の母親、交通事故で亡くなったのは知ってますよね?」
 抱き合ったまま、蓮川は静かな声で忍の耳元に語りかけた。出来れば顔は見られたくなかった。忍の顔を見たら、つい甘えて泣きそうになってしまうから。
「その時の加害者、免許取り立ての十代の大学生だったらしいんです。たぶんまだ遊び半分で、まさか事故るなんて思わず運転してたんでしょうね。狭い道でかなりのスピード出して、しかも飲酒運転だったみたいです。俺はそれ知った時、そんな奴今すぐ死刑にしろ、なんで死刑にしなかったんだって、兄貴に喚き散らしました。でもそいつ資産家の息子で、親が罪を軽くするためにずいぶんな大金差し出してきたらしいです。兄貴は……仕方ないって。俺達二人だけで生きていくのに、どうしても金が必要だったからって。たぶん母さんもそれを望んでるって。でも俺は……悔しくて悔しくて、兄貴のことも許せなくて、いつか絶対にそいつ殺してやるって、心に決めてました。でも……」
 もうとうに乗り越えた想いであることを象徴しているかのように、蓮川の声は穏やかだ。
「今は、解ります。俺を育てるために……俺のために、兄貴が一番、自分の気持ちを殺してくれたんだって。そのおかげで、俺は私立の高校に行けて寮生活までして、大学に行って、親が無くてもまっとうな社会人として生きていられる。だから俺に出来ることは、せめて二度と同じような悲劇を繰り返さないこと……だと思うんです。だから……解ってもらえますか?」
 お願いだから、解って下さい。そう心の内で訴えると、忍の首がコクリと小さく頷いた。
 首に回してきた手に、腕に、更にぎゅっと力が篭る。
 ごめんと小さく呟いた恋人の身体を、蓮川もまた強く抱き返した。
 
 
 
 その翌日、蓮川は仕事帰りにデパートのアクセサリー売り場に足を伸ばした。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
 延々と唸ること小一時間、さんざ一緒に悩んでくれた店員が勧めてきたいくつかの指輪をよそに、蓮川が選んだのはごくごくシンプルな細いシルバーリングだった。
 どうしてか解らないけれど、絶対にこれだと思ったんです。そう店員に訴えると、「素敵だと思いますよ。お幸せに」と気持ちの良い笑顔が返ってきた。
 
 家に向かい歩いている最中、ふと先日の結婚式が思い出された。
 同時に、凄く良い式でしたねと、家に着いてから忍とした話を思い出す。
 「先輩は、結婚式したかったですか?」と尋ねたら、忍からは「全然」と予想通りの応えが返ってきた。「おまえは夢見てそうだな」と尋ねられ、蓮川は「全然」と応えた。それはカッコつけてるわけでもなく、拗ねているわけでもなく、本当に昔から思っていたことだ。
 何故ならもしも将来結婚する人が現れた時はどうしようと、本気で悩んでいたからだ。
 なにせ自分には親がない。招待するべく親族もいない。小学生の頃からずっと、兄一人弟一人だけでの生活。それはいくらなんでも、彼女にとっても彼女の家にとっても、あまり歓迎できる事柄ではないに違いない。やはり恥をかかせてしまうだろうし、結婚式なんてしない方が良いのではないだろうか。うん、絶対にしない方が良い。だったら、最初から夢なんて見ない方がいい。
 そう説明すると、忍は「家族ならたくさんいるだろう?」と答えた。
 自分にとっての家族。
 蓮川は考える。
 自分が結婚すると報告した時。
 真っ先に、誰が喜んでくれるだろう。誰が祝福してくれるだろう。誰が結婚式に来てくれるだろう。誰が……。
 想像を膨らませたら、様々な顔が思い出されたと同時に、一気に涙が溢れてきて。
 ああ、俺って、本当に幸せ者だったんだ。
 そう気づいたら、それまでまだありもしない未来を必死で考えていた自分が、あんまり馬鹿みたいで、殴ってやりたく
なった。
 そうして今、結局は男同士で結婚式なんて出来やしないし、傷つけてしまうであろう両親も親戚もいないのは逆に助
かったんじゃないかと思うし、全ては順調に前に進んでいる。
 
「順調に……?」
「違うんですか……?」
 いきなり神妙な目を向けてきた忍を前に、蓮川は途端に不安を隠せない表情に一変させた。
 え?え?と戸惑う蓮川に、忍はクスリと悪戯っぽい笑みを向ける。
「冗談だ、この単純馬鹿」
 そう言って、一瞬交わしたキスの後、情けないくらい安堵した顔をする蓮川の目の前で、忍は幸せそうに微笑んだ。
 
 だから、絶対って、決めたんだ。

(結婚式、するぞ……!!)
 
 本当は、ずっと、ずっと、夢に見ていたんだ。
 幸せそうな新郎新婦を見つめるたびに、ずっと、ずっと。
 だからもう、自分には出来ないなんて決め付けない。
 指輪を渡して、教会に行って、神様の前で永遠の愛を誓う。
 ただそれだけ。
 たった、それだけのことじゃないか。
 
 そうして、この先もずっと、死が二人を分かつまで共に在り続ける。
 それは他の誰も関係ない。
 世界でたった二人だけの、守り続けていかなければならないルールなんだ。