SUN
その日のことを、俺は今でも鮮明に覚えている。 雲一つない青空が広がっていた。太陽の熱がギラギラと輝いていて、あまりの暑さ眩しさに目深まで帽子を被った。 そのままあの場所を通り過ぎていたら、今とは全く違う人生を送っていたのだろうか。それは今よりずっと、幸福な人生だったのだろうか。 そんな想いを馳せていると、ふと小さな手が俺の手をぎゅっと握りしめてきた。 「……どうした?」 「……」 もうすぐ三歳になる俺の息子は言語能力に発達の遅れがあり、まだ単語すら発することはない。けれどその少し不安げな表情を見ていたら、言葉がなくとも何を感じているのかはハッキリと理解できる。俺はそっと、小さな身体を抱き上げた。 それが正解だったのだろう。息子は首に腕を回してきて、ぎゅっとしがみついてくる。得体の知れない寂しさ。不安。恐怖。なぜ子供というのは、絶えず温もりを欲しがるのだろう。絶えず不安を抱えているのだろう。決まっている。まだ自分一人の力では生きることが出来ない、か弱い存在だからだ。 だから強く抱きしめる。大丈夫。どんな時も傍にいて、守ってみせる。 そう心で強く訴えれば、息子は安心し切ったように、腕の中ですやすやと寝息をたてた。 どうしてだろう、酷く安心する。 まるで、自分が抱きしめられているかのように。 だから絶対に、後悔なんてしない。 あの日、あの時、あの場所で、おまえと出会ったことを。 金色の瞳に魅入られた刹那、強く激しく恋をした。 俺の運命の──α。 「……っ……!」 突然、ガクッと膝を落とした忍を横に、溶けかけのアイスを必死で食べていた光流が目を見開いた。 「忍、どうした?」 光流は残り一口を慌てて口に放り込み、忍の肩に手をかけた。忍の体がびくっと震える。よく見ると、額にはじんわりと汗が滲んでいた。 「何でもない……から、放っておいてくれ……」 忍は地面に膝をついたまま、酷く苦しげに言った。放っておけるわけがないだろうと、光流が喚く。それなのに、その声は少しも頭の中に入って来ない。ただ心臓がドクドクと脈を打ち、腹の中が熱を持っているかのように熱い。得体の知れない初めての感覚に、忍は息を荒くした。何故だ。何故だ。何故だ。己に問いかける。今いったい、何がおきた? 俺は何を見たんだ? 恐る恐る、顔をあげる。見てはいけないと心の警報が訴えている。けれど本能はそれを許さない。己の制止を振り切り、忍はガラスで囲まれた檻の向こう側に目を向けた。 (……っ……!) ドクン、と、心臓が鳴った。 ガラスを隔てた先に在る者。それは一匹の黒豹。これまで何度もテレビの中や動物園で見てきた姿と何一つ変わらない獣の姿。それなのに。 目が離せない。その射るような瞳から。スラリと伸びた美しい肉体と、ギラギラと光る野生の瞳から。 「……ぁ……」 じわりと股間が熱くなった。忍はカッと頬を蒸気させ、黒豹に背を向けその場を去った。 「忍……!?」 光流の声がわずかに耳に届いたが、忍には振り向いている余裕はなかった。 男子トイレの個室に駆け込むなり、忍はズボンのベルトを外し、チャックを下ろした。迷わず股間に手を伸ばした。既に先端から先走りが溢れている性器を、忍は無我夢中で擦った。イきたい。どうしようもなくイきたい。それ以外は何も考えられなかった。 「……う……っ……!」 欲望のままに、手の中に精液が溢れ出る。額から汗を流しビクビクと身体を震わせながら、忍の瞳に涙が滲んだ。 熱情を吐き出した後には、ただ惨めさと情けなさばかりに襲われた。忍はドアに背を預け座り込み、ぶるぶると身体を奮わせた。一体何が起きたのか、まだ理解できないでいる。けれど本当は、もうとうに理解している。ただ認めたくないだけだ。まさか自分が。 (Ω……だったなんて……!) そして、運命の相手が人間ではないだなんて。 嘘だ。嘘だ。嘘だ。 混乱と恐怖と不安の渦に巻かれ、後から後から溢れ出る涙を止めることは出来ず、忍はその場に蹲った。 今思えば、そこには歓喜の涙も含まれていたのかもしれない。 やっと会えた。ずっと会いたかった。それがどうしてかなんて、理由なんかなくていい。 おまえに会えた。 そう感じることが出来たから、俺は今、この温もりを感じていられる。 ずっと否定してきたことを、認めるのはそう容易いことではない。 Ωなんて下等な人間だと蔑んできた。まさか自分が、その下等な人間であったなんて、一体誰に話すことが出来よう。 (違う……!) 大丈夫。もう会わなければいい。このまま一生会わずに隠し通せば、誰にも知られることはない。 けれど。 (畜生……っ!) 一人きりの部屋で、忍は右手に持った瓶を床に叩きつけた。蓋が外れ、中身が床の上に散らばった。忍は肩を上下させ、どうにか落ち着こうと深く息を吐いた。やや冷静になってから床に膝をつき、散らばった白い錠剤を拾い集めると、また激しい惨めさに襲われた。 どんなに辛くとも、これからこの抑制剤と一生付き合っていかなければならないのだ。これがなければ、自分はまともに社会生活を送ることすら出来ないのだから。 最後に拾った錠剤を瓶の中に戻すと、忍の瞳から涙が溢れた。 薬が無ければ生きていけないなんて。これでは病人と何も変わらない。それどころか、病人以下だ。抑制できないのはガンでも難病でも感情でもなんでもない、ただの獣じみた性欲だけなのだから。 (こんなの……) 人間なんかじゃ、ない。 そう悟った瞬間、忍の目の前には絶望しかなかった。 幼い頃から、感情を抑えることほど容易いことはなかった。だからこそ余計に、自分で抑えられないものがあるだなんて認めたくはない。それなのに、あの金色の瞳を思い出すと、溢れてくる。苦しくて苦しくて、今すぐ飛んで会いに行きたくなるほどに。 会いたい。会いたくない。会えない。 (会いたい……!!!) 葛藤ばかりを胸に、忍は暗い部屋の中、一人涙を流し続けた。 徹夜のバイト明けで眠いのは当然だが。 昨夜一人で泣き続けたことを思い出せば思い出すほど忍の腸は煮えくり返り、目の前でガアガアといびきをたてる光流の腹を思い切り踏みつける。グブッと妙な声をあげ、光流が目を開いた。 「な、なんだよ急に……!!」 「掃除の邪魔だ、寝るなら自分の部屋で寝ろ」 不機嫌さをあからさまに出しながら、忍は無造作に掃除機をかけ続ける。光流は寝ぼけた瞳で「わーったよ」と言いながらも、再度寝ることはしなかった。 「忍……おまえ、俺に隠してることあんだろ?」 光流の台詞に、忍はわずかに肩をビクつかせた。けれど無視して掃除機を動かし続けるが、突然掃除機がピタッと音を止めた。振り返ると、光流が抜いたコンセントを見せつけニヤリと笑った。忍は思い切り眉をしかめた。 「何もない」 「うーそーだ」 じっと目を見つめられ、思わず逸らしてしまってから、忍は何も言い返せなくなった。高校時代からの親友であり、大学生になった今は家族同然でもあるこの同居人相手に、隠し事は無謀だと解ってはいた。けれど。 「……病気、なんだ……」 本当のことなんて話せるはずもなく、忍は言葉を濁す。光流の目がぱちりと驚愕に見開かれた。 「病気!? なんの!?」 「……そんな、大したものじゃ……。軽い鬱病、みたいなものだから……薬を飲んでれば大丈夫なんだ」 「鬱!? おまえが鬱ってそれもう末期じゃねーか!!!!」 「どういう意味だ」 あまりの光流の言いように、忍は目を据わらせた。 「だっておまえほど自信過剰でマイペースで慈悲の欠片もない冷徹人間が鬱って、どう考えてもありえねーだろ!?」 「俺だって悩むことくらいある」 「そりゃあるだろうけど、おまえの悩みったって俺とずっと一緒にいられないとか、俺といつかは離れなきゃとか、俺がいなくなったらどうしようとか、俺以外なんもねーじゃん!?」 「自惚れるのも大概にしろ!」 光流の頭を踏みつけ、忍は額に青筋をたてながら怒りの声をあげた。 「今回はそんな子供じみた感情とはわけが違うんだ!」 「今回は……?」 思わず要らぬことを言ってしまったことに気づき、忍はハッと目を開いた。光流がまじまじと顔を覗き込んでくる。今度こそ言い逃れは出来そうにないと悟った忍であった。 忍は正座、光流は胡坐で向き合いながら、しばい重い沈黙が流れた。 光流が額に汗を流し、うーんと唸り声をあげる。 「おまえがΩ……ねぇ……」 光流は再度確認し、どうしたものかと真剣に悩むものの、打開策は見つからないようだ。 「いやでもアレだ、別にΩだからって死ぬわけじゃねーし、性欲さえ抑えられれば普通と何も変わらないわけだろ? んな悲観的になる必要はないんじゃね?」 「その性欲が問題なんだ……っ」 忍の瞳にじわっと涙が浮かぶ。光流がうっと言葉を詰まらせた。 「万年発情期のおまえなら解るだろう!? 溢れ出る性欲を抑えるのがどれだけ大変かっていうことくらい!!」(※光忍ワールドではありません) 「おまえそれ絶対喧嘩売ってるだろ!?」 いや解るけど、解るけども!!と光流は額に青筋を浮かべる。 「まあ確かに、このところトイレ閉じこもってる時間多いなとか、風呂やけに長いなとか、変だとは思ってたんだけど、まさかおまえがオ○ニーに耽ってるなんて高校時代には考えられな……」 ガンッと拳を頬に叩きつけられ、床に突っ伏した光流であった。 発情期。それはΩにとって最も過酷(らしい)な時期。 「し、忍くん、とりあえず薬飲もうか?」 「や……っ、も……我慢……できな……っ!」 「だからって俺にどうしろと!?」 目の前で涙目を向け発情を露に訴えてくる忍を前に、光流もまた涙目で訴えた。(※光忍という設定は忘れてください) まさかオナニー手伝えって!? いや手伝えなくはないけど、やっぱり何か抵抗あるし。いやここは慣れ、慣れなのか!? 一人自問自答しながら焦る光流を前に、忍は耳まで真っ赤にして発情に耐えている。 「みつ……る……っ、頼む……から……」 涙目で訴えてくる忍に、光流が覚悟を決めたとばかりに拳を握り締めた。 しかし。 「今すぐ出て行ってくれ……!」 忍の言葉に、そうだそれが正しい対処だったと、即座に冷静さを取り戻した光流であった。(※でもちょっと残念がっているようです) 運命の糸というのは、時に酷く残酷なもので。 もう二度とこの場所には、いや、この場所から半径1キロ以内にすら近寄らないようにと、硬く心に決めていたのに。 「どうしても、この動物園でなければ駄目なんですか……?」 「悪い、手塚! 彼女がどーっしても今すぐ子パンダの写真撮ってこいって、でなきゃ別れるって聞かなくてよ~。生まれたばかりの子パンダいるのってこの動物園しかないだろ?」 「浮気の罰に今すぐ子パンダの写真って……彼女相当変わってますね」 忍ははぁとため息をつきつつも、大学で借りのある先輩からのいきなりの頼みを断るわけにもいかず。入り口で待ってるのでパンダの写真撮ってきて下さいと告げ、先輩の罰ゲームが終わるまで待つことを決めた。 待っている間、絶対に考えるまいと心に誓っていた。それなのに心が抗って、あの姿を思い出す。思い出せばまた、心臓が脈を打つ。 (駄目だ……) やはり今すぐこの場を去ろう。人のことなど構っている余裕は無い。踵を返し、その場から立ち去ろうとした刹那だった。 風に乗って、微かな香りが鼻を突き抜けた瞬間、忍は身動きとれなくなった。 何故。どうして。こんなにも感覚が敏感なんだ。発情期のせいだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。駄目だ、この香りに惑わされては。 (こんなに近くにいるのに……?) 何を言ってるんだ、相手は獣だ。人間じゃない。 (だから……? どうして会いたいのに、会えないんだ……!!) やめろ。黙れ。黙ってくれ。会ってしまったら全てが終わる。 (全てって……なに?) 忍は己の問いに応えられなくなった。思考が停止する。そうして今あるのは、胸のずっと奥底に渦巻いている本能だけだ。 (会いたい……!!!) 理性を手放した忍は、その場から一目散に駆け出した。 わき目もふらずにまっすぐに、目的の場所に向かって走り続ける。全身に汗が滲む。呼吸が荒くなる。もはや心の中で叫ぶべき言葉も見つからない。迷いなんて要らない。ただ走るんだ。目指すものがそこに在る限り。走れ。走れ。走れ……!! 「サン、っていうんだって」 突然、幼い子供の声が耳に届き、忍はハッと我に返って足を止めた。 向かっていたのは、確かにこの場所だった。目の前には、あの姿が映った写真。名前は「サン」。 (名前……) 忍は迷わずガラスの檻に近づいた。しかし、あの姿はどこにもない。忍はガラスに両手を押し付け、必死でその姿を探す。瞳はまるで理性を失った獣だ。 どうして居ない? 俺はここにいる。ここにいるのに……!!! 「サン……!!」 まるで遠吠えのように、忍が腹の底から声を張りあげたその時。 岩陰の奥から、黒くしなやかな身体がその姿を表した。 ゆったりと振られる尾。忍の声を聞きつけたように、その獣は忍のもとに静かに歩み寄っていった。金色の瞳が忍を見据える。 「サン……!」 忍はもう一度、その名を呼んだ。けれど呼び返してはもらえない。突然に、涙が溢れた。すぐそこにいるのに、こんなに傍にいるのに、触れられない。こんなに身体がおまえを求めて疼くのに、抱いてはもらえない。 (俺の……、俺の「番」なのに……!!!) 忍は握り締めた右の拳を、ガンとガラスに叩きつけた。獣用に造られたガラスは、忍がどれだけ渾身の力を込めてもビクともしなかった。周囲がざわつくのが解っても、止めることは出来なかった。涙を流す忍を前に、黒豹はグルルと喉を鳴らし、まるで子供をあやす様にガラスに頭をこすりつけた。その姿を見つめたら、なおさら涙が溢れてきた。彼もきっと解っている。忍が運命のΩであることを。 今すぐ触れたい。抱きしめて欲しい。どうしてこんなにも。 (愛……して……る……) 後から後から溢れてくる涙を拭いもせず、忍は目の前の黒豹に心の内で叫び続けた。 警察から連絡があり、迎えに行って頭を下げること数十分。その間、一言も声を発しなかった忍を横に、光流は深くため息をついた。 「あのさ……そこまで参ってるなら、俺が何とかしてやるから……」 人気のない夜道をとぼとぼと歩きながら、光流は憔悴しきっている忍にぽつりと言った。 何とかといっても、結局は性欲処理の手伝いしか出来ないわけだが、忍相手なら絶対出来ないということはないし、むしろちょっと興味あるというかぶっちゃけちょっとしてみたい?くらい、何ていうかもう好きとか愛してるとかそういうの通り越して大事な親友だから。などと己にめちゃくちゃ言い訳しながら必死で打開策を提案する光流の声を、忍は全く聞いていないままに口を開いた。 「……なんだ」 「え……?」 「豹、なんだ……。俺の……α」 ふと忍が、まっすぐに光流の瞳を見つめて言った。今にも泣き出しそうに。 「どう……したら……、俺は、どうしたらいいんだ……!!」 もう何もかも解らない。そう言って光流にしがみつき泣き出した忍を、光流は驚愕に目を見開きながらも神妙に瞳を伏せ、そっと忍の身体を抱きしめた。 『α、それはΩの運命の番。本能的な繋がりで深く結ばれる二人は、どちらかが死ぬまでその繋がりがとぎ切れることはない』 専門書を読みながら、光流はもう何度目になるか解らないため息をついた。 なんていう厄介な病気……では、ないのか。光流は偏見の心を捨て思いなおした。そう、たぶん細菌やガンに侵された故の病気とは違う。性欲なんて人間なら本来誰もが当たり前に持っているものなのだ。それを上手にコントロール出来るか出来ないかは、生まれつきの性質によるものでもあり、出来ないからといって本人達のせいでは決してないのだろう。そして理由が解らない本人達こそが、どうにも出来ずに一番苦しんでいる現実だからこそ、ごく凡人な、けれど彼らと違って普通に社会生活が営める程度にはコントロール出来るβである自分が、理解して支えてやらなければならないのだ。 (でも、どうやって……?) 豹と人間の恋愛だなんて、誰がどう考えたって異常でしかないだろ。光流はいくら考えても常識の範囲外でしかない事実に頭を悩ませる。 (いや、そもそもこいつが……) 普通と少し違うのは、出会った時から解っていたことで、だからこそ今までもさりげなく支えてきたわけで。ああなんでこんな厄介な奴を引き受けちまったんだろう。光流は幾度目になるか解らない後悔の念に駆られるが、見捨てることだけは出来なかった。いや、したくなかった。 もはや抑制剤はほとんど効かなくなってきている。ただでさえ感情的になると何をしでかすか解らない忍が、自分ではコントロール出来ない感情を背負ったまま、一生平穏な人生を送れるとは思えない。 だったら、いっそ。 寝ている時だけは無防備な忍の寝顔を見つめながら、光流は何かを決意した光を瞳に宿した。 その一ヵ月後。 時は真夜中の2時過ぎ。 突然に叩き起こされた忍は、一体何事かと光流に問うが、光流は応えない。タクシーに乗り込み、辿り着いた場所を目前に、忍は愕然と光流を見つめた。 「光流、いったいどういう……!」 「いいから来いって。ここの飼育員さんと仲良くなって理由を話したら、こっそりあの黒豹に会わせてもらえることになったから」 あまりに思いがけない光流の行動に、忍はただひたすら目を丸くした。 しかし当然拒んでいると、光流が親しくなったという飼育員が、君だけにとこっそり打ち明け話を始めた。 「僕はαでね。ずっと昔、君と同じようにこの場所で、Ωと知り合ったんだ」 飼育員の打ち明け話に、忍は当然ながら驚愕を覚えた。 「僕がまだ飼育員になったばかりの頃、相手は……ライオンの雌だった。レイラという名前で、とても美しいライオンだったよ。……恋せずにはいられないほどにね」 飼育員の作業服。白髪の生えた髪。抑揚のない話し方。一見すると地味な男ではあるが、肉食動物の飼育員であるからには相当に肝が座った男なのだろう。その瞳には迷いが無い。そして忍と同じ境遇に恥もなければ、誇りすら持っているようにも見えた。 「その……ライオンと、肉体関係は……」 尋ねてはいけない気もしたけれど、尋ねずにはいられなかった。一番に苦悩していた事実であるからだ。遠慮がちに尋ねた忍に、飼育員は静かに微笑んだ。 「もちろん愛し合ったよ。彼女の愛に、僕は答えなければと思ったからね」 飼育員は迷わず答えた。 「……罪悪感とかは、なかったんですか……?」 「彼女への愛が罪だというなら、僕は喜んで罰を受ける。君もきっと、愛し合えば解るはずだ。愛に勝るものはこの世に一つもないのだと、僕は今でも思っているよ」 忍よりもずいぶんと年上のその男は、確かな自信を持ってそう言っているように思えた。忍は感銘を受け目を細めた。 「さあ、行ってごらん。彼の名前はサン。僕が今まで見たどんな豹よりも気高く賢く強い豹だ。彼は君の事をずっと待っていた」 飼育員が檻の扉を開く。刹那、忍の心臓がドクンと脈打った。 会える……? 本当に……? 「やっぱり……」 忍は咄嗟に躊躇した。 怖かった。会えると思えば思うほどに、どうなってしまうのか解らなくて恐ろしくて。必死で守ってきたものが壊れてしまうことが怖くて。 「いいから行け! どうせおまえとっくに壊れてんだろ!? だったらもう何も怖がるな!!」 躊躇う忍の背を、光流が押した。 「ちゃんと……待っててやるから」 誰よりも信頼できる力強い瞳。忍はようやく覚悟を決めたように、目の前を見つめた。 「あの子、いい友達を持って羨ましいよ」 「へ? 俺がですか?」 飼育員室で煎れてくれた茶を飲みながら、光流は目を丸くした。 「そりゃ、こんな変態性を理解してくれる友達なんて、そうそういやしないからね」 「自分で言っちゃいますか」 自虐ともとれる飼育員の言葉を聞きながら、光流は苦笑した。 「僕はずっと誰にも言えず隠し続けてきた。それは孤独な日々だったよ。けれどたった一人だけ、理解を示し、僕とレイラの関係を否定しない人がいた。それがこの動物園の前代の園長だったんだ。誰よりも動物達を大切にする、素晴らしい人だった。池田君、愛に勝るものはないが、友情に勝るものもない。もう亡くなってしまったけれど、理解を示してくれた前代の園長には本当に感謝しているんだ。だから僕は死ぬまで、彼が自分の命よりも大切にしていた動物たちを守り続けようと思ってるよ」 もうとうに乗り越えた過去であるように、飼育員は穏やかな口調で語った。光流は黙って耳を傾けていたが、未来の忍のことを想うと、一つだけどうしても聞いておきたいことがあり、ためらいがちに口を開いた。 「その……恋人の、レイラさんは……」 「人間とライオンとでは寿命が違うからね。もちろん先に逝ってしまったよ」 やや悲しげな瞳で飼育員は言った。 「じゃあ、あいつもいつかは……」 「……その時は、支えになってやって欲しい。僕も、君の支えになると誓うから」 静かに微笑んだ飼育員に、光流はやや顔を赤らめ、姿勢を正してから頭を下げた。 「……あざっす」 愛が何だか、まだ知らない。 形がないものを信じることは出来ずにいた。 答えがないものが、怖くて不安で仕方なかった。 だから数学は得意だった。必ずそこに、「正解」があったから。 でもこの感情だけは、いくら考えたって答えなど出やしない。正解なんてどこにもない。それはきっと、間違いもないということだ。 だから、頑張って、勇気を持って、前に進むんだ。 「……サン」 忍は静かに、その名を呼んだ。 あの時も、初めて呼んだ気がしなかった。こんなにも懐かしく感じる名を、きっといつかどこかで呼んでいたのだろうと、そんなおとぎ話を信じたくなってしまうほどに。 暗闇の中に、うっすらと金色の瞳が光った。一瞬、身体が恐怖に強張った。相手は肉食獣。本当に食われやしないのだろうか。そんな想いは、その美しい姿を目前にした瞬間に消え去った。 同時に、体中がゾワッと総毛立つ。血液が沸騰する。ジンと身体の奥が痺れ、腹の中が熱くなり、圧倒的な欲望に支配される。 「……は……っ」 欲情をこらえきれず声を発した刹那、猛獣が忍を襲った。 グルルと喉を鳴らし、忍の首筋に口を寄せる。獲物にむしゃぶりつくように息を荒くし、口の中から覗かせた赤い舌が忍の首筋を伝った。忍の頬が赤く染まる。忍もまた待っていたかのように、恍惚とした瞳をサンに向け、その首に腕を回した。 「……やく……、おまえが……欲し……っ」 なりふりなど構っていられない。忍は自ら服を脱ぎ、白い素肌を獣の前に晒した。獣の舌が身体中を這う。このまま食われてもいいとすら忍は思った。 忍は足を開き、獣を誘う。もう粘液が溢れているそこを自らの手で拡げると、獣は躊躇することなく忍の中に侵入していった。 「あ……っ、あ……! ひぁ……っ! ……く……、イく……っ!」 獣の動きに合わせ、忍は無我夢中で腰を振った。 目の前が真っ白になる。自分が人間なのか獣なのか、もう解らない。ただ欲しい。もっと。もっと。もっと強く激しく。貪欲さは止まることを知らなかった。 ガラスに囲まれたジャングルの中で、忍は最高の快楽に溺れ我を忘れた。 長い尾でそっと頬を撫でられ、忍はくすぐったそうに目を閉じた。それから至福に満ちた表情で、サンの身体に無防備に身を預ける。 「おまえはずっと……この狭い檻の中で暮らしてきたのか?」 尋ねるが、当然応えは返ってこない。けれど通じているように思えてならなかったから、忍は言葉を続けた。 「……俺と、一緒だな」 お互いずっと寂しかったことに、今ようやく気づいたかのように、忍とサンは深く寄り添った。 『愛し合えば、解るはずだ』 不意に忍の脳裏に飼育員の言葉が蘇る。 柔らかい毛に顔を埋めると、彼の言った言葉の意味がようやく解ったような気がした。 言葉がなくても、温もりだけで確かに感じる心。 それは自分の勝手な思い込みなのかもしれない。都合の良い妄想でしかないのかもしれない。でもそれなら彼は、どうしてこんなにも優しく撫でてくれるのだろう。愛しくてたまらないとでもいうように、舌であやしてくれるのだろう。確かな愛情を感じるのだろう。 「……サン」 もしおまえが人間だったら、名前を呼び返してくれただろうか。そうして今、何て言ってくれる? 忍は心の内で問いかけた。 グルルと小さく、サンが鳴いた。 『愛している』 まるで子守唄のように、静かな声で、そう聴こえた。 「おまえの恋人エンゲル係数高すぎじゃね?」 「人のことが言えるのかおまえは」 昨日も牛丼五杯食っただろうこの食欲魔人と、忍はサンへのお土産(=貢物)である生肉片手に目を据わらせた。 すっかり性欲も落ち着いてきた忍は、もうサンのことしか考えられない毎日ではあるが、以前よりもずっと生き生きしているし幸福そうでもある。順応力の高さはさすがとしか言い様がない。しかしこのまま平和に続けられる恋ではないのも確かな現実で。 光流は未来にやや不安を覚えながらも、背中を押してしまった以上は今更後に引くことも出来ず、ただ見守ることだけを心に決めていた。 一方忍は、当然全てが心穏やかだというわけではない。 誰にも理解されない孤独。いつかは先に居なくなってしまう恐怖。この先どうなるか解らない不安。それらと戦いながらの日々、時折疲れながらも、会えば至福の時に包まれる、その繰り返しだ。いつも心のどこかで終わりを感じながら、もう少し、あと少し、一秒でも長くと、終わらない日々を願い続ける毎日だった。 真夜中になり、飼育員が鍵を開けてくれる。好物の肉を渡すと、サンは一心不乱に肉を平らげる。俺はその見事な食いっぷりに快感すら覚えつつ、食べ終わるのをじっと待つ。肉が無くなった瞬間だけ、サンは酷くあどけない表情を見せる。「もう無いのか?」そう瞳で訴えられ、俺は苦笑した。 そっと耳の後ろを撫でると、サンは気持ち良さそうに喉を鳴らし、頬に顔をすり寄せてくる。伸びた髭が少しくすぐったくて、俺はいつも笑ってしまう。 鼻先にキスをする。ペロリと舌で顔を舐められる。それはきっと、愛してるのサインだ。 そう、愛している。 この美しい獣を。純粋な男を。傍にいるだけで確かな愛を感じられる、最高の恋人を。 「いつか……、二人で、広い世界に行こう……」 こんな狭い檻の中で、人々に鑑賞されながら生きるのではなく。この無謀とも言える関係を誰に隠すこともなければ非難されることもなく。その逞しい足でどこまでも駆け抜けて、自由に生きていくんだ。 そんな夢を、俺は時折語った。サンはただ静かに、耳を傾けていた。もしかしたら全然聞いてなんかいなくて、ただ眠いななんて思っていたのかもしれない。時折あくびをしていたから、多分そうだったんだろう。 それでも俺は、充分すぎるほど幸せだった。 毎日お腹いっぱい食べて、キスをして、セックスをして、寄り添って眠る。 そんな動物でしかない時間が、どうしようもなく幸福で。 けれど人間だって動物なんだから、当たり前の感覚なんだって気づいた。 豹だけじゃない。犬も鳥も昆虫も魚も、生きとし生けるものに当たり前にある本能なのに、どうして人間だけは、そんな当たり前のことすら簡単には許されないのだろう。 生活と仕事に多くの時間を奪われ、愛を感じる暇もなく過ぎていく日々。自分の本能を殺してまで得る、人間らしい日常。 清潔な家。便利な電化製品。楽に移動できる車。身を飾る服。 そんな「物」が人間の全てなら、俺は生まれ変わったらやっぱり、おまえと同じ豹になりたい。 休日の昼下がり、光流が昼食を口に運んでいたら、同じく目の前で昼食をとっていた忍が突然に立ち上がりトイレに駆け込んだ。 何事かと、光流は慌てて介抱に向かった。 「……きた、かも……」 「え……?」 胃の中の物を全て吐ききってから、忍は呆然とした表情で光流を見据えた。 「赤ちゃん……出来たかも……」 「へ……!?」 光流の目が点になった。 「いや……僕もさすがに子供は出来なかったら、どうしていいのかなんて……」 即効で飼育員に相談しに行った光流は、期待はずれの言葉にがっくりと肩を落した。 「つか、人間と豹の間に子供なんて出来るのかよ!? 生物学上どう考えても無理じゃね!?」 「いやでも、男が妊娠するっていう有り得ない世界だから、豹の子妊娠も有り得るんじゃないかなぁ……?」 「無理矢理すぎだろそれ!!!」 肝の座った飼育員もさすがに驚かずにはいられない事態に、光流は焦るばかりであるが、忍は以外にも平然としたものだった。 「出来たものは仕方なかろう。光流、立ち合いするかどうかはおまえが決めろ」 「俺が決めることじゃねぇっ!! 父親はあっち!!」 言われて初めて気づいたように、忍は足元で座り込んでいるサンに目を向けた。しかし肝心の父親といえばまるで事態が解っておらず、我関せずといった様子で暢気に欠伸をしている。忍は額に青筋を浮かべた。 「何でおまえは豹なんだっ、この役立たず!!」 忍の理不尽な叱責に、サンがビクッと身体を震わせた後、しゅんと頭を垂れた。早くも尻に敷かれ始めたサンは、本気ですまないと感じている様子である。 「もういい、俺一人で産む。人間に生まれたら俺が育てるが、もし豹に生まれたらおまえが育てろ」 豹相手でも人間とまるで変わらない物言いをする忍は、もうすっかり強い母親の顔をしていて、三人(内一匹)の男(雄)たちは、つくづく女(雌)って強い……と頭を垂れたのであった。 すっかり子供を産むことを心に決めている忍であるが、光流にとってはそう簡単に「はいどうぞ」と言える現実ではなかった。 「なあ……もう一度、よく考えたらどうだ? 子供産むってその……そんな簡単なことじゃねーし。増して豹と人間の子なんて、どんな子が生まれるか解ったもんじゃねーし……」 あまり言いたくない事柄ではあったが、言わずにはいられなかった。そのあまりのリスクの高さを思えば思うほど、一生苦しまなければならないのは忍自身なのだから。 「おまえに言われなくても、もう充分考えている。例えどんな子が産まれても、育てていく覚悟は出来ている」 忍はあくまで冷静に言い放った。 「いやだから、豹か人間かせめてどっちかに産まれてくれたらまだいいけど、万が一その……目も当てられないというか……そういう状態の子だったらっていうことをだな……」 「それも考えてるから大丈夫だ。例えベルセルク(※光流の愛読書)に出てくるガッツとキャスカの赤ん坊みたいに薄気味悪い化け物としか思えない姿であったとしても、俺は絶対にこいつを殺したりはしない!」 忍が突然、酷く感情的に言い放った。 「おまえいつの間に俺の漫画読んで……じゃなくて!」 光流はひとまず突っ込んでから、諦めたようにはぁと深く息をついた。 「……わーったよ、そこまで覚悟決めてるなら、俺ももう反対はしねぇ」 目の前で腹を庇いながら涙目を向けてくる忍は、もうすっかり母性本能を養っている様子だ。そんな忍に、何もなかったことにしろなんて、とてもじゃないけれど強要することは出来ない。光流は心労を押し殺し、諦めのため息をついた。 「……名前」 「え……?」 「名前、考えなきゃな」 光流が静かに微笑しながら言うと、忍はまだ涙目のまま、コクリと小さく頷いた。 「おまえが「サン」だから、もし女の子だったら「ルナ」とかどうだ?」 月が綺麗な夜。いつものように檻の中、忍はサンの懐に顔を埋め、囁くように尋ねた。 むろん返事はない。当然のことであるが、初めて「寂しい」と感じた。 「俺とおまえと、どっちに似てほしい……?」 言葉が欲しい。今は、今だけは。自分達の大切な子供の名前を決める、今だけでいいから。 そう狂おしいほど願うのに、サンはただ金色の瞳で忍を見つめるばかりだ。そうしていつものように、あやすように忍の頬を舌で愛撫する。忍に元気がない時、サンは必ず今と同じ仕草を見せた。 「俺は……おまえによく似た、男の子がいいな……」 美しい毛並み。気高い瞳。逞しい身体。余すところなくおまえに似た子を得ることが出来たなら、こんな狭い檻の中ではなく、大自然の中で自由に育てたい。そんな夢を語ると、サンはまるでそれに応えるかのようにグルルと喉を鳴らした。 「だから、子供が産まれたら、一緒にここを出よう」 もう何もかも捨てる覚悟は出来ている。忍はそう囁くと、サンの目元に唇を寄せた。 途端に身体中が熱を持つ。今は駄目だと解っているのに、抱かれたくてどうしようもなくなる。 忍の欲情を察したかのように、サンの尾が忍の背を撫で、尻まで伝った。忍の身体がビクリと震え、瞳がこらえきれない欲情の色に染まる。 「ん……っ、そこ……もっ……と……」 忍が自ら性器を露にすると、そこにサンの舌が這った。達したいのに達することが出来ないもどかしい舌での愛撫に堪らなくなり、忍は自身の右手を性器に絡ませた。 「ゆ……っくり……来いよ?」 忍はサンと同じ獣のポーズをとり、右手で性器を擦りながら左手で己の秘部を拡げた。サンが忍の背に覆いかぶさる。次の瞬間、いつもとはまるで違う感覚に襲われ、忍は声を高くした。 「あ……! あ……ぁ……っ!」 ずぷずぷと音をたてながらゆっくりと出し入れされる、サンの長い尾。それはやはり酷くもどかしい。もっと激しくして欲しいのに、どうして。そう思ったと同時に、忍は気づいた。 (子供がいるのだから) そう、言われているような気がした。 絶対に嫌だと言い張ったけれど、光流に無理やり産婦人科へ連れて行かれた忍は、我が子のエコー写真を見るなり驚愕に目を見開いた。 それは確かに人間の形をしていた。頭の形。手の形。足の形。それらを目前にした刹那、わけもなく瞳に涙が滲んだ。 翌日、さっそくサンの目前にそのエコー写真を差し出した。 しかし。 「馬鹿!低脳!動物はやっぱり動物だな!おまえなんかもう父親でもなんでもない!!」 いきなりバクッと食われてビリビリに破られた写真を握り締め、涙目で激怒する忍を前に、サンはわけがわからずオロオロするばかりだ。どうしようどうしようと瞳が訴えているサンに背を向け、忍はその場を走り去った。 仕方ない。サンは写真なんか見たことはない。それ以前に視覚の在り方が人間とはまるで違うだろう。増して真っ黒な画像に薄く形が残るだけのエコー写真を見て、これが自分の子供だなんて解るはずがない。同じ人間のように喜んでくれると思っていた自分が愚かだったのだ。忍はつい感情を荒げたことに後悔の念ばかりを覚えた。 もし彼が人間だったら。 『これが頭で……これが手で、これが足……?』 そう確認しながら、共に涙を流して喜んで。一緒に名前を考えて。産まれてくる子供のために必要なものを、一緒にさんざ悩みながら買い揃えて。そんな、人間なら当たり前の幸福を欲しいと願ってしまうことが、こんなにも辛いことだなんて。 『ありがとう……忍』 産まれて初めての経験。本当はどうしようもなく不安で怖くて寂しくて、そんな夜に。 そう言って、名前を呼んでくれたなら。 大丈夫。絶対に頑張るって、思えるのに。 (最低だ……) 覚悟は決めていたはずだった。それなのに、理想が叶わないと知った瞬間、こんなにも身勝手になる自分は、やはりどうしようもなく「人間」なのだ。 写真を理解出来ないのも、言葉を発することが出来ないのも、決してサンのせいではないのに。 明日、ちゃんと謝ろう。そう心に決め、忍は瞳から溢れた涙を指で拭った。 その日のことは、実はあまり記憶にない。 きっとあまりにも辛すぎる記憶だから、自らの命を守るために、俺の身体が俺の記憶を消去したのだろう。 はっきりと覚えているのは、その確かな温もり。消え去ってゆく姿。何かを訴えかけてくる瞳。 サン。 おまえはあの時、何を言いたかったのだろう? 確かな答えは、もうどこにもない ただ願うだけ。 そして、信じるだけだ。 あの時確かに、サンはそう言っていたのだと。 妊娠初期とはいえ、あまり重いものを持つのは良くないと聞いているが、今日だけは。 肉屋で買った最上級の生肉を手に、忍は家路を辿った。アパートの部屋に着くと、相当な重さの生肉をドサッと床の上に落とす。それから一息つくために茶を入れテレビをつけると、昼のニュースが流れた。ニュースを流し見しながら、忍はサンの顔を思い浮かべる。今夜会えたら、サンはきっといつものように、もしかして俺じゃなくて生肉目当てなんじゃと疑いたくなるほど嬉しそうな瞳を向けてくれるに違いない。本当にしょうがない男だなどと思いながらも、心は酷く弾んでいた。 ほんのわずかに膨らんだ腹に、そっと両手をあてる。まだ胎動一つないので実感は沸かずにいるけれど、確かにここに命があるのだと思うと、今まで感じたことのない幸福感に包まれる。 セックスは、無理のない範囲なら臨月でも大丈夫だとたまごクラブにも書いてあったし、今夜は好きなようにさせてやろうか。 またもサンの顔を思い浮かべ、静かに笑みを漏らした忍は、ふとテレビから流れてきたニュースキャスターの声に、一瞬にして表情を強張らせた。 『ただいま○○動物園から黒豹が脱走中! 今もなお脱走中です! 近隣の住人は避難を……』 酷く慌てた声。揺れ動くカメラ。見覚えのある風景。 忍は即座に立ち上がった。 脱走!? どうしてそんな……まさか……!! まさか……俺に会うために……!? 昨日、おろおろするばかりだったサンの姿を思い出せば思い出すほど、そうとしか思えなかった。 震える心を抱えながら走る忍の腕に、突然痛みが走った。 「忍……!」 「光流……っ」 見慣れた顔を目前にした途端、酷く気が緩んだ忍は、瞳にうるっと涙を浮かべた。 「おまえもニュース見たのか!?」 おそらく同じニュースを見て走ってきたであろう光流に尋ねられ、忍はふるふると首を横に振った。 「ちが……っ、脱走だなんて……そんなこと……!」 「落ち着け! 子供がどうなってもいいのか!?」 光流のその言葉に、忍がハッと我を取り戻した。そうだ、取り乱している場合ではない。何よりも守らなければならないものがあるのに。忍は心を落ち着かせ、やや乱れていた呼吸を整えた。 「大丈夫だ、まだ生きてるし、誰も殺してはいない。もし暴れててもおまえが行けば大人しくなるはずだ」 光流に真剣な瞳で訴えられ、忍は力強く頷いた。 大丈夫。大丈夫。大丈夫。 サンの姿を見つけるまで、何度も心の内でそう繰り返した。 頼むから、待っててくれ。誰も何もしないで、待っててくれ。すぐに行くから。 人々が逃げ惑う街中、交差点の一角に、多くの警察官や自衛隊員の群れを発見した。忍は光流と共に、即座に走り寄った。警察官に「これ以上近寄らないで下さい」と制止されるのを振り切り歩を進めると、そこには探していた姿が無残な形で血を流していた。 目の前が真っ暗になる。今ここはどこで、自分は誰で、あそこに倒れているのは……。 混乱する意識を抱えたまま、忍はサンに駆け寄った。しかし当然ながら、警察官に制止される。光流が警察官の制止を振り払い「行け!」と声を張りあげた。忍は駆け出し、横たわるサンの前に膝をついた。 「……サン……?」 そっと触れると、まだ確かな温もりを感じた。閉じられた瞳が、うっすらと開いた。何故だか酷く懐かしいと感じた。まだ生きている。そのことに酷く安心しているのに、手の震えが止まらない。涙が勝手に溢れてくる。強く抱きしめようと腕を伸ばした刹那、忍は警察官に捕らえられた。サンの身体もまた捕らえられ、数人の男たちによって無慈悲に遠ざかっていく。 「サン……っ、いやだ……っ、連れて行かないで……!!!」 忍は力の限り叫んだ。 まだ生きている。 誰も殺してなんかいない。 ただ会いに……会いに行こうとしていただけじゃないか……!!!! 「サン……!!!!!」 忍はもがき暴れるが、サンの姿は遠のいていくばかりだった。 力なく連れ去られるサンのわずかに開いた瞳。姿が見えなくなるまで、その瞳は確かに忍を見つめていた。 しばらくは、身動きをするのも苦痛だったように思う。 けれど食事だけは食べなければと思った。 何を食べたのかも、どうやってその日々を乗り越えてきたのかも、何一つ覚えてはいない。 ただ頭の中で響いていた声だけが、俺と俺の子供をかろうじてこの世界に繋いでいた。 『子供を頼む』 サン。 おまえはあの時確かに、俺にそう言ったんだと、俺は今でも信じているよ。 「あ……、あ……!」 「今、パパって言ったか!?」 「100%言ってないし勝手に父親面して勝手なこと教えようとするな!」 忍に足下にされた光流の前で、幼い子供がきょとんと首をかしげる。その頭から、ぴょこんと黒い獣の耳が飛び出した。 「いいか、おまえの父親はこっちだ。……カッコいいだろう?」 忍が凛と佇む黒豹の写真を我が子に見せると、忍によく似た顔立ちである三歳の男の子は、無邪気に笑った。そして「あーあー」と声をあげながら、嬉しそうに写真を眺める。 「……どうせいつか知ることなら、最初から知っていた方がいいだろう?」 「へぇへぇ、すんませんでした」 光流が面白くなさげに、しかし納得せざるをえないというように不貞腐れた。 「にしてもこいつ、なっかなか喋らねぇな。やっぱ普通の人間とは違……」 光流が言ってから、どこかしまったという顔をする。忍は失笑した。 「違うのかもしれないな。まあ、耳と尻尾がある時点で既にだいぶ違うんだが」 一体生物学上どういう構造になっているのだろうと忍は首をかしげるが、目の前でサンと同じ形の耳をピコピコ動かされ、尻尾をぶんぶん振られたら、あまりの可愛さに鼻血噴きそうになり構造なんてどうでも良くなった。 「でもまあ、毎月医者には診てもらってるし、カウンセリングや療育にも通っているし、ママ友連中も「可愛い~っ!!」ってめちゃくちゃ可愛がってくれるし、今のところ特に問題はない」 「おめーのその誰でも味方につける(ってか取り込む)能力には頭が下がるわマジで」 「こいつの為なら、プライドくらいいくらでも捨てるさ」 忍はやや自虐的に言い放った。 味方は多かれど、敵だって決して少なくはない。明らかに異端の子である息子を、あからさまに不気味がられたり、必要以上に同情されたり。「普通」とは違う事実に惨めな想いを抱いたことだって数知れない。忍は思い出し、やや表情を重くしたが、すぐに気持ちを立て直した。 「それに、これはインターネットで発信した結果だが。実は結構多いんだ、異種の生物が運命の相手であるという事実は」 「え……マジ!?」 「ああ、実は俺も私もっていう人が、世界中にたくさんいてな。みんな当然ひた隠しにして来たらしいが、同胞がいると知って、勇気や自信をもらったという人達もたくさんいる。相手は俺や飼育員さんと同じライオンや豹だったり、犬だったり猫だったり……中には蛇なんていうツワモノもいたな。先日そんな仲間達との集まりがあって、セックスはどうするんだという話になったら、みんな笑ってた。……楽しかったよ」 「尻尾から挿れてもらう」という突拍子もない話を耳にした。しかしみんな面白可笑しくネタにしていたのを思い出し、忍は酷く楽しそうに笑った。 その顔を見て、光流もまた安心したように目を細めた。 「ただ、子供まで設けたのはどうやら俺が初めてらしい。けれどそのうち、もっともっと増えるかもしれないな」 「そっか……それも、楽しいかもな。あ、もしかしたらおまえが初めてなわけじゃなくて、昔妖怪辞典で見た蛇女とか、そういうことだったんじゃね!?」 「なるほど、それは一理あるな」 ずいぶんと面白い解釈だと、忍は感心した。 それからも、猫娘や顔面犬がどうのこうのと話が広がること一時間、眠気の限界がきて膝の上で眠ってしまった息子の寝顔を見つめながら、忍はそっと目を伏せた。 「こいつもまだ未知の生物で、もしかしたら一生言葉は話せないかもしれないが……たぶん、解ってはいると思うんだ」 「俺達の話してる言葉が?」 「そうだ。だから、嘘は絶対に教えるなよ?」 「わ、わかってる……けど、やっぱ一人じゃ子育てって大変だし、俺はおまえとなら結婚してもいいかな~とか思ってるし、そうなったら戸籍上はやっぱり俺がパパになるわけだし……」 頬を赤らめぶつぶつとプロポーズ的なことを言い始める光流の言葉をまるで無視して、忍は膝の上で眠る息子の髪をそっと撫でた。 いつかこの子が、自分のことを「ママ」と呼んでくれる日が来るのだろうか。 そんな、ささやかな夢を見ながら。 今はもう、人間社会もそう悪くはないと思えるんだ。 清潔な家も、便利な電化製品も、楽に移動できる車も、着飾るための服も。 例えば清潔な家。子供を危険な生物や細菌や自然災害から守ってくれる。二十四時間いつでもぐっすり眠れる場所があることほど安心できることはない。だからみんな、いつも「帰れる家」を求め、家族のためのマイホームを夢見る。 例えば便利な電化製品。掃除機も洗濯機も冷蔵庫も、無ければ今ほど子供と一緒にいられる時間は激減しているはずだ。ありがたいというのは、この便利すぎる電化製品を発明してくれた偉人にこそ捧げたい言葉だ。 例えば楽に移動できる車。子供という生き物は、いつでも何にでも興味を持って突然走り出す。好奇心いっぱい子供にはあまりにも危険すぎる世界だからこそ、親は守るために安全な部屋に閉じこもりがちだ。しかしそれでは、何が危険なのかも解らない大人に育ってしまう。けれど車があればどこにでも安心して連れて行ける。危険から守りながら、たくさんの広い世界を見せてやれる。 例えば着飾るための服。こんな可愛い子を裸で歩かせてたらそれだけで一大事……じゃなくて、昨日、凄く可愛い服を買った。豹の着ぐるみパジャマだ。めちゃくちゃ似合ってたしめちゃくちゃ可愛かった。俺の子世界一だと叫びたかった。つまり可愛いは正義なんだと知った。 とまあ、少し話がずれたけれど、長い年月をかけて人間が作り上げたこの世界。それは子供たちを守るために、先人が懸命に知恵を働かせ作り上げてきた世界なのだと。だからこそ、その全てを無駄にしてはいけないのだと。今ある「物」に、感謝できるようになった。 だからサン、俺はおまえと俺の子を守るために、死ぬまでこの世界で頑張って生きていこうと思う。そして俺達の子の未来のために、もっともっと素晴らしい人間社会を作っていこうと思う。 でももしも、来世というものがあるなら。 生まれ変わって、もう一度おまえと出会えるなら。 俺はやっぱり、おまえと同じ豹に産まれたい。 そうしたら、今度はどこまでも広がる大自然の中で二人きり。 朝起きて、獲物を狩って、腹いっぱい食べて、セックスをして、寄り添って眠り、また狩りをする。大自然には家も病院も機械も、便利なものは何もない。でも大丈夫。帰る場所は、いつでもおまえの腕の中だ。もし怪我をしたら、治るまでずっと寄り添って舐め続けてやればいい。もし強敵が現れても、おまえは俺を命がけで守ってくれるだろう。 子供はやっぱり、俺が一人で産む。その間おまえは、外敵と戦って、狩りをして、命がけで守ってくれるのだから、俺も命がけでおまえの子供を産んでみせる。 今度は必ず、二人で育てよう。いつか俺達みたいに運命の相手に出会えるまで、大自然の中で一人きりでも立派に生きていけるよう、強く賢く逞しく。 子供たちが巣立った後は、やがて俺達も年老いて尽きていくだろう。 その時は、どうしても、俺の願いを聞いて欲しい。 一日だけ。 いや、一時間、一分だけでも構わない。 俺より先には死なないで。 もう二度と、俺を置いて行かないで。 酷くわがままで身勝手な俺の願いを。 次に会った時には、一番最初に、聞いてくれないか? 俺の運命の──α |