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月明かりが美しい夜だった。一面ガラス張りの天井越しに、無数の星が闇に散りばめられた宝石のように輝きを放つ。その下では、いつかどこかで聞いた優しい音楽。ゆっくりと、安らかに眠りに落ちていけるようなその旋律を耳にしながら、Mは目の前に置かれたカプセル型のベッドにそっと手を置いた。
「これは……?」
 尋ねると、養父はMの肩に手を置いた。そしてカプセルの端に設置された赤いボタンを指で押す。静かな機械音と共に、カプセルの上部を覆っていた蓋が開いた。
 一瞬にして部屋中にたちこめられたむせかえるような花の香りに、Mは一瞬目を細めた。カプセルの中には、色とりどりの花に囲まれて眠り続けている、細くしなやかな体つきをした一人の少年の姿。傷一つ無い透き通るような白い肌。触れたら壊れるのではないかと怖くなる高価な陶器のようなその姿を、Mはただ呆然と眺めることしか出来ずにいた。
「これは最新型のロボットだ。おまえに、あることを頼みたい」
 科学者である養父が少年Mに課したのは、このロボットに心を与えることだった。遥か昔から、誰もが夢に見ていた心のある機械。完璧な人間を創りあげる。その目標は既に目前に迫っていた。
 
 ゆっくりと、ロボットが閉じた瞳を開く。小動物のそれと変わらない純粋無垢な輝きを放つ、未だ心の無い瞳がMに向けられる。Mは大きな茶色い瞳でまっすぐにロボットを見つめ、柔らかに微笑んだ。表情無くMを見つめるロボットが、ぎこちない動作で腕をあげる。Mがその手に自分の手を重ねる。言葉も無く見つめ合う二人の少年を、養父はやや離れた位置から見守った。
 
 いつかこのロボットが心を持った時、彼はこの優しいメロディーを思い出すことがあるのだろうか。花の香りを思い出すだろうか。色とりどりに咲き誇る花を美しいと感じるだろうか。
 
『実験開始』

 養父はその晩、研究レポートの頭にそう書き綴った。
 
 Mはロボットにまず名前をつけた。ロボットはしばらくの間、自分の名前を認識せず、名前を読んでもいっこうに振り返らなかった。初めて振り返ったのは、何気なくMがロボットの名前を呼んだ時だった。それからは、名前を呼ぶと当たり前のように振り返った。ロボットは名前によって自分が自分であることを理解した。
 振り返るのが当たり前になってずいぶん経つ頃、突然ロボットはそんな名前は嫌いだと言うようになった。Mは戸惑った。
「何事も、理由の無い結果はない。どうしてそんなに自分の名前が嫌なのか、おまえが彼の行動をしっかり見て考えてごらん」
 困り果てて助けを求めた養父の言葉にMは頷いた。
 その日から、Mはロボットの様子を注意深く観察した。普通に名前を呼んでみる。いつものように振り替える。優しく名前を呼んでみる。すぐに振り返る。怒る時に名前を呼んでみる。絶対に振り返らない。Mは理由を把握した。そういえば最近、いつも怒ってばかりいたように思う。もう怒る時に名前を呼ぶのはやめよう。いつしかロボットは自分の名前を嫌がることは無くなった。
 
 初めてロボットが緩やかな笑顔を見せた。胸が躍るような嬉しさだった。もっと笑わせたくて、ロボットが喜ぶことなら何でもした。好きな食べ物が食べたいと言えばすぐに食べさせ、好きな遊びがしたいと言えば何でもさせてやり、欲しいと言うものは何でも与えた。そのたび見せてくれるロボットの咲き誇る花のような笑顔が至上の喜びだった。けれどそのうち、ロボットは食べたいものを食べても好きな遊びをしてもたくさんのプレゼントをしても、あまり笑顔を見せなくなった。それどころか怒ってばかりいた。あれも食べたい、これもしたい、これも欲しい。それなのに、それらの何一つにも以前の花のような笑顔は見せない。すぐに飽きては捨てて、飽きては捨てて、ただそれらの行為を繰り返す。またもMは困惑した。
「本当にそれが欲しかったのかな? よく思い出してごらん」
 養父の言葉にMは頷いた。
 思い出してみる。初めて「美味しい」と言った時。初めて楽しそうな表情を見せた時。初めて欲しいものをあげた時。全部にロボットは笑っていた。自分も同じように笑っていた。本当に欲しかったものは何だったのだろう。考えてもすぐに答えは出てこなかった。
 
 丸一日、何も要求を聞かないことにした。するとロボットは突然、思いもかけない行動に出た。まず周囲にあるあらゆるものを破壊した。高性能のロボットは様々な能力を持っている。多くの物を創造できる素晴らしい能力を持つと同時に、この世界の全てを破壊できる能力をも持っていた。Mが破壊行為を駄目だと制御すると、ロボットは止める代わりにMの腕に噛み付いた。それも駄目だと制御すると、今度は自分の腕に噛み付いた。精巧なロボットだから痛みは人間と同じようにある。肉が切り裂かれて血が流れても、ロボットは己を破壊する行為をやめない。このままではロボットが壊れてしまう。Mは混乱した挙句、ロボットの行動を制御するために床に叩きつけて機能を停止させた。動かなくなったロボットを前に、Mは涙を流し続けた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。何が間違っていたのだろう。ただ笑って欲しかっただけなのに。床に倒れたロボットは完全に全機能を停止させた。一度全機能を停止させたロボットは、それまでのメモリーも完全に破壊される。ロボットはもう二度とMに笑顔を見せてくれることはない。
 
「もう一度、最初からやり直してごらん。大丈夫だ、おまえなら出来る」
 Mは頷いた。
 もう一度、あの笑顔が見たいと心から思った。それだけがMの目標になった。
 
 今再びガラス玉のような黒く美しい瞳を向けるロボットに、Mは静かに笑いかける。ロボットは心無い瞳をMに向ける。それでもMは微笑み続けた。強く手を握り締める。言葉も無く見つめ合う少年達を、養父は優しい眼差しで眺めた。
 
『完成まであと少し』
 
 養父はその晩、研究レポートに書き綴った。
 
 Mはまず、食事の時間をしっかり決めた。必要以上に物を与えることもしなかった。遊ぶ時は一緒に遊ぼうと決めた。ルールを決めているうちに、Mは気付いた。一人で食事をする時よりも、一緒に食事をしている時の方が笑顔がたくさん見られる。物を欲しがった時はその時に買ってやるよりも、記念日などに突然プレゼントした時の方がずっと喜ぶ。遊ぶ時は隣にいればそれだけでロボットはよく笑った。特に悪いことほど一緒にすると喜んだ。するとロボットは当然、変な悪戯ばかり覚えていく。でも本当は悪戯したいんじゃない。Mのびっくりした顔や怒った時の反応が楽しくて仕方ないらしい。
「本当にそれが欲しかったのかな?」
 Mの脳裏にいつかの言葉が甦った。Mは後悔した。好きなものを食べさせる時、食事はいつも1人でさせていた。好きな遊びをさせる時、いつも部屋で1人で遊ばせていた。欲しがったものにリボンをかけたことなど一度も無かった。Mはロボットを抱きしめた。その時、ロボットの瞳から一粒の涙が零れた。Mの瞳にも涙が溢れた。欲しかったものの正体を、Mは理解した。
 
 
 夢のような日々が続いた。朝は日の光の下を散歩する。午後は花の浮かぶプールで自由な魚のように泳ぐ。Mの手がロボットの肩にかけられる。ロボットが振り返ると、Mはその唇にそっと唇を寄せる。心の赴くままに抱き合い湿った肌を重ね、導かれ嬌声を放つ。愛し合うことを少しも躊躇わない少年達の姿は、一瞬で消えてしまう火花のように美しく儚い。触れ合う肌と肌。重なる心と心。時に激しく、時に優しく、時に切ない時間の後、美しい旋律の流れるガラス張りの天井の下、少年達は寄り添いながら眠りに落ちる。
 一輪の花がロボットの頬をくすぐった。ロボットは目を開き、花の茎を人差し指で摘む。そっと唇を寄せ花の香りを楽しみ、柔らかな笑みを浮かべた。

 養父はその姿を見守り、部屋の全ての人口照明を消した。暗闇に月明かりだけがか細く光を放つ。一枚の花びらがかすかな音をたてて床に舞い落ちた。
 
『完成した』
 
 全ての実験は終了した。明日は人類史上最高のロボットを引き連れ、この研究成果を発表しよう。養父は研究レポートにそう書き綴った直後、目の前の機械に設置されたある一つのスイッチを指で押した。スイッチの目的は「機能停止」。
 Mの全機能が停止した。