朝、光流にしては珍しくずいぶん早くに目が覚めて。
外の空気が吸いたくなって窓を開いたら、ヒヤリとした冷気が頬に当たったと同時に、キラリと光る蜘蛛の巣を見つけた。
(すげーよな、蜘蛛の巣って)
気持ち悪いのにどこか美しくもあって、なんとなく目が離せずにいたら、ふと一匹の蝶が吸い込まれるように蜘蛛の巣に絡んだ。
必死で逃れようと羽を動かす蝶に、大きな蜘蛛がゆっくりと歩み寄る。
逃がしてやろうか。それとも、蜘蛛に食われる姿を眺めてみようか。酷く冷静な瞳でそんなことを思った光流の耳に、シュッとカーテンの開く音がして、光流は咄嗟に窓の扉を閉めた。
「……ずいぶん早いな、珍しい」
はっきりとした口調でそう言うと、忍がベッドから降りて床に足をつける。
「おはよ」
笑みを浮かべて言った光流を見向きもせずに、忍は寝起きとは思えない淡々とした表情で、パジャマのボタンを外していく。白い胸が露になる。
「俺、顔洗ってくるわ」
光流は椅子の上に引っ掛けてあったタオルを手にとると、自室の扉を開いて廊下に出た。
(あ……)
ふと、思い出す。
あの蝶、どうなったかな。
そうとだけ思って、そのまま洗面所へ足を向けた。
「今年もずいぶん、もらったそうじゃないか」
「あ? ああ……例の義理のな」
つまらなそうにそう言って、光流は一弘の座る椅子の横にある患者用の小椅子に腰を下ろした。
「義理でも多いほど嬉しいだろう?」
「まあ……悪い気分じゃねーけどな」
「本命からのチョコが欲しいか?」
からかうような一弘の言葉に、光流がやや口をとがらせる。
「んなもんいらねーよ。貰っても返って気色悪いわ」
「ならおまえがあげてみたらどうだ? 意外な反応が返ってくるかもしれんぞ?」
「「なんの真似だ?」で終わりだよ。もしくは「なんの冗談だ?」」
「冗談じゃない。俺は本気でおまえが好きなんだ」
「無表情で「熱でもあるのか?」」
「思い切って強引にキス」
「だから何の真似だ?」
「おまえが好きなんだ」
「そうか」
「……」
「終わりだろ?」
冷めた口調の光流に、一弘は腕を組んで小さくため息をついた。
「つくづく厄介な相手を好きになったな、おまえ」
「同情すんなっ」
思わずツッコミをいれる光流に、一弘はなおもあからさまに同情の目を向ける。
「いつまで「お友達ごっこ」続けてるつもりだ?」
「あいつが追いつくまでは、続けてやるよ。いつまでも」
「そんな悠長なこと言ってたら、横から誰かにかっ攫われるぞ」
「誰がんなヘマするかよ」
「余裕だな、ずいぶん」
「……なわけ、ねぇだろ」
いちいち腹立つといった顔をして、光流は一弘を睨みつける。
少し、いや、かなり子供っぽいその表情に、一弘はクスリと笑った。光流はますます面白くなさそうな顔をする。
「大人は辛いな」
「俺だってまだ子供だ」
「可愛がってやろうか?」
「やめろ気持ち悪ぃ」
「そういうこと言う相手と、こういうことするか?普通」
「そういうこと言える相手だから、出来るんじゃん」
「……なるほど」
一弘は妙に納得した風に頷いて、膝の上に乗って首に腕を絡ませてくる光流の首筋に、噛み付くようなキスをした。光流の細長い指に一弘の髪が絡まった。
『「お友だちでいましょう」ってヤツ。……あれは結構きつかろうな』
チョコレートの入った箱のリボンを外し、添えられていたメッセージカードを読みながら、ふとバレンタイン数日前に古沢の言ったそんな言葉を思い出した。
(……そうですね)
ええ、きついですよ。
心の中で呟いた瞬間に、自室の扉が開いた。
「ただいま」
「おかえり」
いつもより少し洒落た格好をして、門限の時間をとうに過ぎて飄々と帰ってきた忍に、光流は静かな笑顔を向けた。
「忍」
「何だ?」
「おまえのチョコ、全部食べていい? 甘いもの、嫌いだろ?」
「ダメだと言ってもどうせ食べるつもりだろう?」
呆れた風に忍が言い放つ。
聞くまでもなかったな、と光流は思う。勝手に一つ残らず食べ切ったって、どうせ忍は少しも気にしない。同じことをされたって、自分もまた少しも気にしないのと同じように。
そこに想いの差はあれど、どちらがより深いかなんていうのは、今更考えるまでもなく。
(早く、大人になれよ)
せめてキスの意味が分かるくらいになるまでは。
いつまでも、待ち続けるから。
それまでは、決して離さないから。
あの蜘蛛の巣にかかる蝶のように。どれだけもがき逃れようとしても、全てはこの手の中にある。
(奪われるくらいなら、食い殺してやる)