坂道



「え! おまえ自転車乗ったことねーの!?」

 放課後、教室で友人達と喋ってる最中、喉が乾いたからと近くのコンビニまで買出しに行くことになり、自転車通学をしている友人に自転車を借りて買出しに走ろうとした光流は、生まれてこのかた一度も自転車に乗ったことのないという忍に目を丸くした。
 それから可笑しくてたまらないというように笑う光流を、忍は面白くなさそうに睨みつける。
「しゃーねーな、じゃあ後ろ乗れよ」
 光流は笑うだけ笑った後、先に自転車のサドルを跨いで、忍に後ろに乗るよう促した。
 忍はムッとしたまま自転車の後輪に取り付けられたハブステップに足をかけ、光流の肩に手を置く。
「アムロ行きまーす!!」
 ふざけた声と共に、光流が自転車を走らせる。

 徐々にスピードが増していき、向かい風が二人の髪をなびかせた。

 初めて自転車に乗れた日。
 何度も何度も転んで、もうやめるって大泣きしていたら、父親に「頑張れ」と言われて。
 乗れるようになるまでずっと自転車を押し続けてくれた父親が、いつの間にか離れた場所にいて。
 そんな風に、やっと一人で乗れるようになった自転車。
 「頑張ったな」って頭を撫でてくれた、父の大きな手の温もり。
 転んで擦り剥いた膝は痛かったけれど、それよりもずっとずっと、嬉しくて誇らしくて仕方なかった。

 頑張って良かった。

 心から、そう思えた日。


 長くて急な坂道に差し掛かった時、ふと光流は自転車をピタリと止めた。
「忍、ノーブレーキで行くから、しっかり捕まってろよ?」
「何でノーブレーキ……、っ……!」
 忍が制止するより先に、光流は自転車をこいで坂を下り始めた。

 あっという間に加速していき、かなりの猛スピードにも関らず、光流はブレーキをかけないまま自転車を走らせる。
 忍が大きく目を見開いたその時、自転車がグラリと揺れ、光流が「わ!!」と声をあげたと同時に、二人は坂道の終わりで派手に転倒した。

「ってぇ……」
 したたかに地面に身体を打ち付けた光流が顔をしかめて起き上がり、それから咄嗟に忍に目を向けた。
「忍っ、大丈夫か!?」
 同じように頭を押さえながら起き上がった忍が、完全に怒りを含んだ目で光流を睨みつける。
 光流は慌てて忍の顔を両手で挟み、擦りむいて血の滲んだ忍の額を見て泣きそうな顔をした。
「ごめんっ! ほんとごめん!!」
 必死で謝る光流に、忍は仕方ないようにため息をつく。
「たいした事ない」
 それからうるさそうに光流の手を払いのけ、倒れた自転車に手をかけ起こすと、サドルに跨った。
「今度は俺がこぐから、おまえ後ろに乗れ」
「え……でも乗ったことねーんだろ?」
「この俺に出来ないことがあるか」
 あんまり自信たっぷりに言うから、そう言われればそうだと思って、促されるままに後ろに乗ってしまったのが間違いだった。

「わ……わ、わ……!!」
 忍が自転車を漕ぎ出したと共に、グラグラと左右に揺れ、それからまた二人同時に、ガシャン!!と派手な音をたてて地面の上に投げ出された。

「おまえな……」
「……意外に難しいものだな」
「あたりめーだっ、練習もしないでいきなり乗れっか!!」
 倒れた自転車を横に、二人同時に見つめあう。

 どちらともなくプッと吹き出して、それから二人、声をあげて笑った。


「何やってきたんだ? おまえら」
 そろって擦り傷だらけになってやってきた二人に、一弘は呆れたように消毒液と絆創膏を差し出す。
「自転車で坂道ノーブレーキとかって、昔よくやんなかった?」
「それは小学生のすることだ、馬鹿。俺はこれから職員会議だから、使い終わったらしまっておけよ?」
「了解~」
 返事をしながら、光流は消毒液を浸した綿を忍の額の傷にそっと押し当てた。一瞬、忍が痛そうに顔を歪める。光流が「ごめん」と声をあげた。
 そんな二人を見つめ、一弘はふっと小さく微笑んで、保健室の扉をそっと閉めた。