林檎


 一瞬の間が、変だって感じた。
 
「ただいま~」 

 連休中、法事が重なっているから手伝ってほしいと実家に呼び出され、本当はもう一日実家で過ごすはずだったけれど、すぐに寮に戻った。

「おかえり」
 出迎えた忍は、いつも通りの澄ました表情を光流に向ける。
 光流はやや拍子抜けした想いで、持っていた荷物を床に下ろした。
 取り越し苦労だったかと少し安心したその時、忍が小さく咳をした。光流は咄嗟に目を見張って忍に歩み寄ると、忍の額に右手を当てた。
「……何で言わないんだよ」 
 少し怒った低い声。

 昨夜、忍に電話をした。今日帰る予定だと言ってたけれど、明日も手伝わなきゃならないから帰るのが一日遅れるって。  そうしたら、忍はほんの一瞬間を置いて、「分かった」と応えた。

 何のために、俺が一緒にいるんだよ。俺はおまえの何なんだよ。
 そう思わずにはいられなくて、無言のままりんごの皮を剥いていたら、忍はいつの間にか眠りに落ちていた。
 かなりの高熱なのに寝顔ですら少しもそれを感じさせなくて、我慢することに慣れすぎているのか元々の体質なのか分からないけれど、ただ痛々しいとだけ感じる。
 幼い頃からきっと、こうして誰にも頼らず一人で生きてきたのだろう。
 捨てられて一人きりの猫が、怪我をしたら治るまで身を丸くしてひたすら痛みに耐えるように。
(いつになったら)
 痛いって、声をあげてくれるのだろう。
 辛くて悲しくて寂しいって、温もりを求めてくれるのだろう。
 俺はここにいるのに。いつだって、助けを求めてくれさえすれば、何を捨てても駆けつけるのに。
 声を出さなければ伝わらないことに、いつになったら気づいてくれるのだろう。
(自分だけが苦しんでるなんて)
 思ったら大間違いだ。
 おまえが痛いと、俺も痛い。おまえが苦しいと、俺も苦しい。おまえが泣いてたら、俺も泣きたくなる。
 だから頼むから。
 たった一言でいい。
 声をあげられないなら、せめて涙の一つも見せてくれたら。

「今、何時だ?」
「一時半」
「寝ろよ、いいかげん」
「おまえがりんご、食べたら」
「……うさぎはやめろ」
「可愛いだろ?」
「食べにくい」
「いいから食えって」

 少し無骨な顔をして、忍がうさぎの形のりんごを口に含む。小さく音がして、その音が心地よいと感じた。

 食べにくいかもしれないけど、嬉しかったんだ。
 昔、母親が忙しい合間にほんの少し手間をかけて、うさぎの形に切ってくれたりんごが。 食べるのが可哀想になるくらいに。

「おやすみ」

「……」

 一瞬だけ、泣きそうな眼をした。  

 同じように、泣きそうになった。

 少し汗がにじんだ忍の額を、そっとタオルで拭ってやる。
 閉じられた瞳。
 汗を拭う光流の手がピタリと止まって、その眼が静かに忍の寝顔を見つめた。
 少しの間の後、光流の前髪が忍の額にわずかに触れる。 
 不意に小さく忍の口元が動いて、光流は切なげに眉を寄せ、忍から身を離した。


 校庭から聞こえるボールを打つ音を耳にしながら書類にペンを滑らせていたら、どこか急いた様子で駆け込んできた光流が、無愛想に口を開いた。
「風邪薬、ある?」
「頭でも痛いのか?」
「昨日からあいつが熱出してんだ。よく効くやつ、くれよ」 
 一刻でも早く帰りたいのか、瞳が落ち着かない。一弘は立ち上がると、薬が置いてある棚の扉を開いて風邪薬を取り出した。
「ほら」
 光流が受け取ろうとしたと同時に、一弘は薬を持った手を高くあげる。光流が眉をしかめた。
「欲しかったら、キスしてみろ」
 からかうような口調。実際、からかっているだけだった。
 光流は悔しげに舌打ちし、それから鋭い視線で一弘を睨みつける。
 それでもあげた手を下ろさないでいると、ガシッと乱暴に白衣を掴まれ、伏せた瞳がゆっくりと近づいてきた。
 ふわりとした髪が鼻先をくすぐったと同時に、一弘はあげていた手を下ろして、光流の目の前に薬をかざした。
「冗談だよ、バカ」
 微笑を浮かべ、一弘は言った。
 光流はまた一弘を一睨みし、目の前の薬を半ば奪い取る形で受け取り、一弘に背を向けて早足で保健室を去っていった。
 小さなため息が一弘の口から漏れた。