消しゴム

   
 あなたは幸運だったね。
 本当に良かったね。
 感謝しなきゃいけないよ。
 
 大人達の、子供達の、そんな言葉に笑顔だけを向けて。
 そうですねって笑って頷く以外に、何が出来ただろう。

「進路は決まったのか?」
「まあ、だいたい。つってもまだ具体的じゃねーけど」
「家は出るつもりなんだろう?」
「当たり前じゃん」
 くるりと椅子を回転させ立ち上がった光流を、一弘は平静な瞳で見つめる。
「まあ、いずれは誰でも一人立ちしなきゃならんもんだ」
「だよな」
「辛いか?」
「いや……今はむしろ、清々しそうな気がしてる」
 やや暗い面持ちで光流は言った。
「重荷から解放されて?」
「……やっぱ最低かな、俺」
「そういうものだろう。俺も同じだ。ずっと……重荷だった」
 静かに声を発する一弘を振り返り、光流は大人びた微笑を浮かべる。

 伸びた手が白衣の襟を掴み、唇が首元に寄せられる。

 一弘の手が光流の腰を掴み抱き寄せ、力のままにベッドの上にその体を押し倒した。
 露になった胸元への口付け。顔を埋めた髪の柔らかい感触。重なる手の熱さ。同じ欲望と同じ想いを共有するこの時に、抱き合う他には何も要らない。
「……そ……こ……、も……っと……っ」
 素直に反応する肌に、言われるままに愛撫を繰り返す。
 溺れてしまえばいい。何もかも忘れられるくらいに。深く、激しく、淫らに、腕の中で喘いで。そうして今は何もかも。
「は……っ、ぁ……っ……っ!」
「何度目だ?」
「……忘れ……た……」
 欲情に溺れる潤んだ瞳が、それでもなお快楽を求める。
 強く抱きしめて、溺れさせる。
 せめて、今この時だけでも、苦しくないように。



 草一本生えていない荒野に、一人ぽつんと立たされているような気分だった。
 せめて地図が欲しいと思った。
 こんな場所に一人放り出されて、好きにしたら良いと言われても、右へ行けば良いのか左に行けば良いのかも分からない。
 だからといって立ち止まったままでは結局死んでいくだけだから、あてもなくさ迷って、時にジャングルに迷い込み、時に言葉も通じない異国に足を踏み入れ、時に疲れ果てて足を止めて。
 決められたレールの上を走っていく列車に乗りたくても乗れなくて、ただひたすらにさ迷い続ける。
 孤独という名の心と共に。


 静かな時間。

 忍は机に向かい本を読んでいる。
 光流はコタツのテーブルの上で明日の課題を。
 時折、隣の部屋から賑やかな声が聞こえる。
 声が静まると、忍が本をめくる音だけが響き渡る。
 特にこれといって会話しようという気にもならない、この何もない時間が、一番好きかもしれない。


 あの時、確かに見つけたんだ。
 どこに向かえば良いかも分からない旅の途中で、同じように、孤独に震え怯え泣き叫ぶ心を。
 けれど、もしかしたら残酷なことをしたのかもしれない。
 崩れかけた城に閉じ込められて眠っていた心を、無理やり城を壊して外に連れ出して、苦しい想いばかりをさせているのかもしれない。
 たとえ崩れかけた城でも、そこにいれば安全だったかもしれないのに。どこにも迷うことなく静かに眠り続けていられたかもしれないのに。
 でも、どうしても、教えてやりたかった。
 世界はこんなに広くて、大きくて。
 そして、美しいものなんだと。


「あ……」
 不意に止まった鉛筆を握る手。
 椅子の鳴る音。
「明日って、おまえのクラスと合同体育だっけ」
「ああ」
「本気出せよ、ぜってぇ負けねぇから」
「悪いが団体競技には疎くてな」
「負けた方が明日の昼飯奢りだかんな」
 有無を言わさない口調でそう言うと、光流はまた鉛筆を動かし始めた。

 静かな時間。 

 忍が本をめくる音だけが響き渡る。