embrace

 


 あとわずかで、この苦痛から解放される。

 それは望んでいることでもあるはずなのに、あともう少しだけ、時間が止まってくれればとさえ思う。
 我ながら未練がましい。
 自嘲しながら机の中の教科書を鞄にしまおうとしたその時、聞きなれた声が耳に届いた。

「光流」

 一瞬、ドクンと鼓動が高鳴る。

「話があるんだ。来てくれ」

 忍はいつもの怜悧な顔つきでそう言うと、教室から出て行く。光流はすぐに後を追った。
 あの時と、逆だな。 そんなことを思いながら、光流は誰もいない図書室に足を踏み入れた。

 冬休み前、半ば強引に奪った唇。
 帰ってきてから、忍の態度はそれまでと何一つ変わることなく、彼の中で無かったことになっているのか、それとも必死で冷静さを取り繕っているだけなのか。
 どちらにせよ、傷つけたことに変わりはない。


「話って……」
「……分かっているだろう?」
 視線を逸らさず、忍は言った。
「おまえの気持ち……」
 酷く憂いを帯びた瞳。
「……聞かせてほしいんだ、はっきりと言葉で」
 真剣な目を向けられ、光流もまた真剣に忍を見つめた。  少しの沈黙の後、光流がゆっくりと口を開く。
「好き……だよ。ずっと……おまえが好きだった……」
 鼓動が高まり、胸が締め付けられた。
 こんな告白をしたところで、忍が受け入れられるはずがないと分かっているから、ただ苦しくて。
「ずっと、俺を騙してたのか? 今までずっと、友達のフリをしていただけなのか?」
 突き刺すような忍の言葉に、光流は思わず忍から視線を逸らした。
「……そうだ」
 どんな責め苦も拒絶も受けるつもりでいた。殴ってくれても構わない。
 そのくらいの裏切りを、嘘を、許してもらえるとは決して思っていない。
「友達だなんて思ったこと……一度もない。俺はずっと、おまえのことを……」
 苦しげな声。
 しかし忍は到って冷静な表情のまま、足を踏み出して光流の横をすり抜け、窓の枠に手をついた。 光流が戸惑いを隠せない表情で、忍の後姿を見つめる。

「ずっと……」
 長い沈黙の後、静かに忍が口を開いた。
「ずっと……考えてた。おまえの気持ち……」
 真剣な声。
「前に、言ったよな。きっと、気づかないものなんだろう……今、自分がどれくらい幸せかとか……、どれくらい……」
 ゆっくりと、忍が振り返った。
 光流は一瞬、目を見開いた。
 忍が先ほどまでの冷徹な瞳とはまるで違う、酷く感情のこもった、優しい眼差しをしていたから。
「ずっと……気づかなくて、ごめん……」

 今にも泣き出しそうな瞳で、そんなことを言うから。
 抑えきれない感情が溢れ出して、胸が震える。

「今までのおまえが、全部、嘘だったなんて……思ってない。少なくとも、俺にとっては……本当だった」
 そう言ってから、忍は急に酷く言いにくそうに、光流から視線を逸らした。
「……だから、俺に出来ることがあるなら……、……おまえの気持ちに、応えたいと思う……」
 戸惑いと、照れ臭さと、少しの恥じらいが混じった、今まで見たこともないような忍の表情に、光流は思わず口元を押さえて、耳まで顔を赤くする。
「それって……」
 いやでも、変な期待しちゃダメだと、慌てて自分に言い聞かせる。
「だから……そういうことだ」
 相変わらず視線を逸らしたままの忍に、光流はますます顔を赤くして、戸惑いばかりを露にする。
「……あの……はっきり言ってくんねーと、俺、よく分から……」
 かなりの間を置いて、光流が口にした言葉を、突然、遮られた。
 ネクタイを思い切り乱暴に引き寄せられ、唇に熱を感じた瞬間、光流が大きく目を見開く。
「……だから、こういうことだ、馬鹿」
 唇が離れたと同時に、忍が随分と投げやりに、そんな言葉を言い放った。
 光流は驚愕に満ちた瞳で間抜け面のまま表情を固まらせる。しかし次の瞬間、突然ガシッと忍の肩を掴んだ。
「ホントに……!? ホントにホントに!!??」
 興奮を隠せない光流に、忍が途端に耳まで顔を赤くした。
「わ……可愛い……!!!」
 思わず心中を口にしてしまったのが間違いだったか、忍がすぐさま怒った目を向けて光流の手を振り払った。
「忍っ!!」
 しかし光流は構わず、忍の身体をぎゅっと強く抱き寄せる。

 鼓動が高鳴って、体中に満ち溢れる幸福感。

「すげー……嬉しい……」

 どうしようもなく嬉しくて、嬉しくて、嬉しすぎて、気が付いたら自然と、頬に涙が伝った。

 そうしたら、忍が酷く驚いた顔をして。

 そう言えば涙なんて今まで一度も見せたことがなかったし、それどころか泣くことすらいったい何年ぶりなんだろうと思ったら、どうしてかまた嬉しくなって、止まらなくなった。

「光流……」

 戸惑いを隠せない忍を、光流は更にぎゅっと抱きしめる。

「ずっと……一緒にいてくれる?」
「……ああ」
「ホントに……?」
「これからは……ずっと、俺がおまえを守る……」

 そっと背に回された手に、ぎゅっと力が篭る。
 ずっとこらえていたものが後から後から溢れ出して、けれど止めようとも思わなかった。

「好き……だよ…………」

 これからは、何度でも言える。
 いつでも、何度でも。

「好きだよ、忍」
 
 まるで触れたら一瞬で壊れてしまうシャボン玉にでも触れるように、そっと、唇を重ねる。

 ずっと、こうして守ってきて、これからも、同じように守っていく。

 ずっとずっと言いたくて言えなかった言葉を、何度も囁きながら。


「……いいかげん、離せ」
「え……イヤ」
「離せっ!」
「なんでっ!! ちゅーまでして照れることねーじゃんっ!!」

 意地でも離れようとする忍を、光流はぎゅっと抱きしめたまま離さない。

「離せ!!」
「嫌だっ!!」

 だって、三年間も、待ち続けたんだ。

 離せるわけが、ない。