無くしたピアス

 

 

 それはまだベルシアにたどり着く前の出来事。

 辺境の地マルクスの北部に位置する町、レイドの中心街を歩いていると、不意に声をかけられ、ハーブは振り返った。

「兄さん兄さん、ちょっと面白いもんがあるんですけど、見てってくださいよ」

 鼠色のマントを纏い目深までフードをかぶった、見るからに怪しげな男が手招きをする。

「この薬なんだが……」

 そう言って男が手に持っていた籠から取り出したのは、青い小瓶に入った液体だった。

「いや、悪ぃけど急いでるから」

ますます怪しく感じて、ハーブはすぐにその場を離れようとするが、いきなりがしっと腕を掴まれ引き止められた。

「まあまあ、ちょっと話だけ聞いて下さいよ。実はこれ、透明人間になれる薬なんでさぁ」

 ヒッヒッヒと、男は下品な笑い声をあげる。ハーブは眉をしかめた。

「透明人間? んなもん、なってどうすんだよ?」

「そりゃ、透明になれりゃモンスターとの戦いも有利になるし、使い道なんざいくらでもある」

「ああ……なるほど」

 確かに、とハーブは頷いた。

「でもどうせ高ぇんだろ?」

「今なら大まけにまけて、その耳の飾りと交換で譲りますよ」

「え……いや、だけどこれは……」

 ハーブは途端に動揺を露にし、右の耳に手を当てた。両耳につけているピアス。それはまだクールが魔王だった頃に身につけていたものだ。そう、自分が刃を向ける以前の。

「なに、両方とは言いません。片方で充分ですよ。それでこの薬が手に入るものなら安いもんですよ。時に兄さん、好きな女はいないんですか?」

「へ?」

 突然の思いがけない質問に、ハーブは目を丸くした。

「この薬があれば、好きな女のあーんなところやこーんなところも、全部見放題ですぜ?」

 またも下卑た笑みを浮かべながら、男がハーブに耳打ちする。

 その瞬間、ハーブの表情が一変した。

「よし、買った!」

 ハーブはきっぱりした口調でそう言うと、右耳からピアスをはずし、男の持っていた青い小瓶と交換した。


 宿屋に向かうまでの道中、ハーブは青い小瓶を見つめながら眉をしかめた。

 男の言葉にうっかり流され、勢いでつい購入してしまったものの、本当にこんなもので透明になれるのだろうかという疑念が浮かび上がってくる。しかし本物ならばこれほど便利な薬はあるまい。透明になれれば相手に見えないぶん、戦闘は遥かに有利になる。

(なーんて)

 そんなものは単なる建前に過ぎず、実のところ狙いはさっきの男が最後に言った言葉通り、クールのあーんなところやこーんなところを見てみたいという願望のみであった。ハーブはニヤリと笑い、小瓶の蓋を開ける。


 昨日から、クールとはまるで家庭内別居寸前の冷戦状態であるハーブだった。例によってハーブが美女に気をとられ、それを浮気とみなしたクールに電撃をくらい、それからロクに口もきいてもらえないまま。浮気じゃないと何度言い訳しても聞く耳持たないクールに、ハーブもいいかげん機嫌をとるのが嫌になり、今日は一人酒屋で飲んで気を晴らしてから、仲間たちの泊まる宿屋に戻ろうとしている途中だった。

 むろんクールは女じゃないから、わざわざ透明になって覗き見などしなくても、裸くらいは充分に拝めるわけだが、普段自分のいない状況で誰とどんな会話をしてどんな顔をしているのか、一度全てを覗いてみたいという欲求は抑えられなかった。それに昨日の喧嘩の憂さもまだ完全には晴れていない。透明になって突如姿を表し、少し驚かせてやろうという悪戯心も混じり、大切にしていたピアスと交換したわけだが。

(ま、もう一個あるし)

 以前と違って、もうクールはいつもすぐそばにいる。ピアス一個無くなったところで、どうということはないと自分に言い訳をして、ハーブは思い切って小瓶の中の液体を一口、ゴクリと飲み込んだ。

 

(すっげぇ……!)

 半信半疑で薬を飲んだハーブだったが、見事に身体全体が透明になり、恐持ての男の目の前であっかんべーをしても、ナイスバディの美女の足元からスカートの中を覗いてみても、誰も一向に自分の姿に気づかない。

 ハーブは透明の姿のまま、ウキウキとした足取りで、すぐに宿屋に向かった。



 

 自分とクールが寝るはずの部屋には誰もおらず、食堂にでもいるのかと部屋を出ると、今まさにティノとチェルシーとクールが自室に戻ろうとしているところだった。ハーブは咄嗟に壁に背を預け張り付き、少しでも気配をなくすため息を殺して三人が目の前を通り過ぎるのを待つ。

 そして三人がティノとチェルシーの部屋に入っていくのと一緒に、ハーブもささっと紛れて部屋の中に進入した。

「ハーブ、まだ帰ってないね~」

 ベッドに腰をおろし、チェルシーが言った。

「どうせまたどこかで飲んだくれてんだろ。まったくあの人の酒好きには参るよな」

 ティノが呆れ声を放つ。

「ほんとほんと、おかげでせっかく洞窟で手に入れた宝石も、あっという間に無くなっちゃってさ。いい迷惑だよ全く」

「どうせ吐くならもう飲まなきゃいいのに、何でああ無駄なことばっかするかなぁ? 酒だってタダじゃないんだぜ?」

「馬鹿は放っておけ。いくら言っても無駄だあいつには」

 幻の姿で等身大のクールもまた、完全に蔑みの意を込めて言った。

「ほんっと馬鹿だよね~」

「馬鹿だよな……」

「馬鹿は死んでも治らんからな」

 しみじみと四人が馬鹿を連呼する。それを聞いていたハーブが、わなわなと肩を震わせた。こいつら、人が聞いてないと思って言いたい放題だな。そうかよそれがおまえらの本心かよ!! そう心で叫ぶものの、当然声には出せない。

「ま、馬鹿は放っておいて、そろそろ寝よ? 明日から隣町に出発なんだし、体力蓄えておかないと」

「そうだな」

「私は部屋に戻る。おやすみ」

「おやすみなさい~」

「おやすみなさい、クールさん」

 さっさと布団に入る二人に背を向け、クールが自室に戻る。すぐさまハーブのその後を追った。




 クールが戸を開いたと同時にさっと部屋の中に入り、ハーブは相も変わらず息を詰めながら壁に背を預け、なるべくクールから距離をとった。部屋に入ったと同時に、クールが一瞬自分を振り返り、ハーブは焦りを露にするが、クールは無表情のままベッドの上に腰を下ろした。

(怖ぇ~~……っ)

 心臓がバクバクと音を鳴らす。しかしまだバレてはいないようだ。ハーブはほっと胸を撫で下ろした。気配には物凄く敏感なクールだ、少しでも息を漏らしたら気づかれそうな気がして、ハーブは懸命に口を抑えて鼻で息をし続ける。

 ふとハーブが、ベッド脇の窓際に置かれた小さな花に目を向けた。窓の外からは月明かりが差し込み、クールの銀色の髪を鮮やかに照らす。花を見つめるクールの表情がどこか寂しげに見えて、ハーブは目を見張った。

 やがてクールが一瞬だけ月を見上げ、それからベッドの上に横たわった。

 毛布を首までかけて、胎児のように丸くなる。

 なんだもう寝るのかと、ハーブは疲れたように息を吐いた。結局、大して面白くもなかったなどと思いながら、扉を開いて出て行くことも出来ないので、ハーブも隣のベッドにそっと横になった。

 頭の下で腕を組み、しばらくの間、何もない天井を見上げる。

 そろそろ姿を見せて脅かしてやろうかと思ったが、よく考えたらどうやったら透明の姿から元に戻れるのか、その方法を聞いていなかった。まさかずっとこのままじゃあるまいなと眉をしかめ、不意にチラリとクールに目を向けると、クールの丸くなった背がピクリと小さく動いた。 

「……ん……っ」

 同時にやや高い声がして、ハーブは怪訝そうに眉をしかめながら、上半身を起こした。

 何か寝言でも言っているのかと、そーっとクールの寝顔を覗き込んだその瞬間、ハーブの顔が耳まで赤く染まった。

(お……オ○ニーしてる……!!???)

 

 目を閉じたクールの頬がややピンク色に染まり、布団の中でもぞもぞと明らかに何かを動かしているその様子に、ハーブはひたすら動揺ばかりを露にする。

 いやさすがにこれは、見たら駄目だろ!! でも見たい!! すっごく見たい!!! つか、こいつでもこんなことするんだ!!! いや、でも同じ男だもんな気持ち分かる分かりすぎる!!! 一瞬にしていろんなことを想いながら、目はクールに釘付けなハーブだった。

「ぁ……は……っ」

 結局、扉を開けるわけにはいかないし、などとまたも自分に言い訳しつつ、ハーブはクールの痴態を見つめ続けた。

 必死で気配を押し殺しながら徐々に近づいていき、至近距離で顔を覗き込んでみるが、クールは自慰に集中するあまり少しも気づいていない様子だ。
一体どんな風にしているのか、どうしても見たくなった。ハーブは毛布に手をかけ、そっと捲ってみる。そしてまたも耳までボッと顔を赤くした。

(う、後ろまで……!!!???)

 

 クールの左手は硬くなった自身に、そして右手の指は後ろの秘部に埋め込まれていた。

 自分で自分の感じる部分を、前と後ろを同時に刺激しながら、クールの額に汗が滲む。はしたなく開いた足の付け根から液が流れ、後ろを自分で弄りながら、くちゅくちゅといやらしい音をたて続ける。
 己の快楽に没頭するクールの瞳に、いつもの冷静さは微塵もなく、完全に忘我したその様子に、ハーブはゴクリと唾を飲み込んだ。

「ん……っ、ぁ……っ、ん……っ」

 だめだ目が離せない!! 思いながらハーブは、目の前でよがるクールをただ見つめる。クールの自身から液が滲み、更に恥ずかしい音を響かせる。たまらない気持ちになって、ハーブは熱くなった自分の下半身に手を寄せたが、次の瞬間。

「あ……あ……っ、ハー……ブ……っ!」

 

 思いもかけず自分の名前を呼ばれ、ハーブは目を見張った。

 同時にクールがびくびくと身体を震わせ、白濁を放つ。白い液体がクールの手を濡らし、前も後ろもぐちゃぐちゃに濡れてシーツに染みを作った。

「……は……っ……」

 

 息を乱しながら、クールが横向きになる。火照った体と朱色に染まった頬と潤んだ瞳が、酷く扇情的で切なげだった。
 ハーブは胸の内がズキンと痛むのを感じながら、そんなクールを見つめる。ハーブの瞳から欲情の色はすっかり消え失せていた。


「ハぁ……ブ……」

 

 ようやく整った呼吸の合間に、クールが小さな声を漏らし、その瞳から涙が一筋、こめかみを伝った。

 とたんに酷く息苦しい感覚に襲われ、ハーブはぎゅっと強く拳を握り締めた、苦しげな表情を浮かべた。

(クール……っ)

 抱きたい。

 今すぐキスをして、抱きしめて、一つに繋がりたい。

 
 でもそれは、この幻の身体では絶対に不可能なことで。

 

(どうして……)

 

 後悔ばかりが、ハーブの胸の内に渦巻く。ハーブはピアスを無くした右耳に手を寄せた。

 どうしてあんな簡単に、ずっと大切にしていたものを手放してしまったのだろう。

 「もう片方あるから」なんて油断していたら、それだって、いつもしっかり身につけていなければ、あっという間に無くなってしまうものなのに。

 
  いつでも目先のことしか見ていなくて、次から次へと興味を移して、すぐそばにある大切なものを簡単に手放してしまうから、後悔ばかりを繰り返す。

 
 あの時だって、同じだ。

 片時も目を逸らさず、手を、心を、離さなければ良かった。いつもしっかり、抱き締めていれば良かった。そうすればクールが魔王になることも、こんな身体になることもなかったはずだった。

 

 ハーブの瞳からも涙が一粒、頬を伝った。

 
 苦しい心のままに、ハーブはクールの幻の手に、そっと自分の手を重ねる。けれどそこに温もりは欠片もない。どんなに握り締めようとしても、掴めるのは何も無い空間だけだ。

「ハーブ……?」

 不意に名前を呼ばれて、ハーブはハッと目を見開いた。

 目の前のクールが、酷く切なげな瞳で自分を見つめる。見えていないはずなのに。その瞳はまるで小さな子供のように一途で、まっすぐで、健気で、なおさらハーブの胸を痛めつけた。

 

「クー……ル……」

 

 ハーブが涙を流しながら小さくクールの名を呼んだその時、突然に薬の効果が切れた。
 ハーブの姿が鮮明になる。

 
 刹那、クールの瞳が大きく見開かれた。

 

「ハーブ……貴様……っ」

 

 ふるふると肩を震わせながら、クールが瞳を吊り上げる。
 途端に、ハーブがハッと目と口を開いた。

「い、いや違うんだっ、俺、何も見てねぇし! 全然なんも見てねぇから!!!!!」

 

 ハーブが慌てふためいて後ずさりし、言い訳になっていない言い訳を口にするものの。

「信じ……」

 

 クールが怒りに満ちた瞳で、両手をハーブの前に突き出す。

「られるかっ!!! このたわけがーーーっ!!!!!」

 

 途端に電撃がハーブの全身を直撃し、一瞬にして黒焦げと化したハーブだった。




 当然ながら翌日も、オ○ニーを目の前で見られたクールの怒りが納まるはずもなく。
「クールぅぅぅ……っ」

 ハーブを見るたび瞳が険しくなり、腰にぶらさげた壺にもいっさい入ろうとせずチェルシーの肩に乗るクールに、ハーブは懸命に謝るものの、クールは完全無視である。


「また浮気でもしたの? ハーブ」

 肩にクールを乗せたまま、チェルシーが呆れ声で尋ねた。

「頼むから戻ってこいよ、クール! もう絶対に二度としねぇから!!」

 今にも土下座せんばかりの勢いで、ハーブは侘びを入れるが、クールはフンと顔を背けるばかりだ。

「クール、こんなに反省してることだし、もう許してあげたら?」

 チェルシーが穏やかな声で尋ねるが、クールは絶対に嫌だとばかりにキツい瞳でハーブを睨みつけ、それからチェルシーの懐の中に潜り込んだ。

「だって。諦めたら? ハーブ」

「おい待てっ! クール返せよチェルシー!! クールっ、頼むから戻ってこーい!!!!!」

「ハーブさん、往生際悪いですよ」

 ひたすら泣き喚くハーブに低い声でぼそっと呟き、ティノもまたすたすたとチェルシーの後を追った。

 

 なんでこんな馬鹿なんだ俺。嘆きながら、いついつまでも謝り倒すハーブでありました。