Love and poison



「……あ……っ……、あ……」
「由樹……」
「ん……っ、や……っ、あ……!!」
 
 目の前が真っ暗になる。
 何も考えられないままに、僕は抱きしめられ、ただ恋人に身を委ねる。
 僕を見つめる瞳は、いつでも優しくて、綺麗で、愛情に満ち溢れていて。
 抱きしめられる腕は、力強くて酷く心地良い。
 
「好きだよ……」
 
 僕がそう言うと、彼は少し頬を赤くして、それから嬉しそうに微笑む。
 
 好きだよ。
 
 君が、好きだよ。
 
 僕は何度も、そう、「自分に」言い聞かせた。
 
 
 
 今日もまた、雨が降っている。
 コンビニへ行こうと、部屋を出て廊下を歩く僕の前に、よく見知った顔の一年生二人組が目に入る。一瞬二人と目が合って、思わず僕は咄嗟に視線を逸らしてしまった。すぐにしまったと思って再び目を向けると、二人はにやりと微笑み合って、そのまま僕の横を通り過ぎる。
「先輩、キスマークついてますよ~」
「いいっすね、不自由しなくてー」
 すれ違いざま、彼らはからかう口調で僕にそんな言葉を投げかけて、そのまま去って行った。
 どくんと鼓動が高鳴り、肩が、握った拳が震える。
 こみあげてくる、どうしようもない悔しさと怒りと悲しみ。
 だけど、絶対に泣いたりするものか。
 僕は歯を食いしばり、その場から走り出した。
 
 新入生が入学してきて、早三ヶ月が訪れようとしている。
 最初は緊張に満ちておどおどしていた一年生もすっかり寮生活に慣れ、それぞれに親しい友人も出来て自然と馴れ合い、彼らは個々に様々な情報を得ていく。既に寮内では「カップル」として公認である、僕と藤掛の関係が彼らに知れ渡るのに、まるで時間はかからなかった。
 大半の寮生は今までと変わりなく、僕たちをあからさまに誹謗中傷するような事はなかったけれど、先ほどすれ違った二人、宮木と日高は明らかに面白がっている様子で、顔を合わせれば先ほどのように僕をからかってくる。もちろん僕が一人の時に限りだ。だから藤掛は、何も知らない。知れば間違いなく、彼ら二人に怒りの拳を向けるに違いないから、僕は彼にこの事実を言うことは出来なかった。
 僕が黙って、耐えていればいい。余計な争いはしたくないし、無意味な暴力も嫌いだ。
 大丈夫。あの程度のからかいなんて、中学の時に比べたら、全然ましな方だ。
 
『おまえさ、ほんとにアレついてんの?』
『ちょっと見せてみろよ?』
『マジで性別間違えて生まれてきたんじゃねぇ?』
 
 思い出したくもない過去がフラッシュバックして、僕は水溜りに映った自分の姿を、濡れるのも厭わず思い切り踏みつけた。バシャッと勢いよく水が跳ねて、ジーンズを派手に濡らした。
 
 
「おかえり」
「ただいま」
 部屋に戻ると、笑いかけてきた藤掛に同じように笑い返して、ジュースが二本と乾電池が入ったコンビニの袋を机の上に置く。
「おまえ、すごい濡れてるじゃないか。ちゃんと傘さしてたのか?」
 藤掛はそう言いながら、タオルで僕の頭を雑な手つきで拭いてきた。
「けっこう、降ってたから。ありがとう」
「着替えた方がいいんじゃないか? ズボンもびしょ濡れだぞ?」
「うん」
「着替えさせてやろうか?」
「もう……変なこと考えてるんでしょ」
 口をとがらせると、藤掛は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 だけど僕の髪を撫でたと同時に、酷く優しい瞳をするから、その優しさが心地良くて、僕は藤掛に笑いかけた。
 頬に藤掛の大きな手が触れて、優しい瞳がゆっくりと近づいてくる。
「……好きだよ、藤掛」
 触れるだけのキスの後、僕は藤掛の胸に寄りかかって、小さく言った。
 抱きしめられる腕は酷く暖かくて、どこまでも優しかった。
 
 
 朝になると、僕は少しだけ苛々を覚える。
「藤掛! 起きてってば!! 遅刻するよ!?」
「もう少しだけ~……」
 ごねる藤掛の布団を無理やり剥いで、僕は藤掛の腕を引っ張って起こす。
 普段はしっかりしてるのに、朝だけはどうにも弱い藤掛を起こすのは至難の技で、寮生活を始めて2年目になっても、僕らは毎朝こんな調子だ。
 どうにか起こして制服に着替えさせ、急いで食堂にむかう。

「おはよーっ、渡辺」
「あ、おはよう、如月。あれ、蓮川は?」
「まだ寝てるよ~」
「起こさなくていいの?」
「知らなーい」
 飄々と言う如月に、僕は苦笑した。
「同居人だってのに冷たいね」
「すかちゃんだって、この前僕のこと置いて行ったもん」
 言葉とは裏腹にまるで気にしていないようにそう言って、如月は突然その場を走り出した。
「せんぱーいっ、おはよー!!」
 目の前を並んで歩いていた池田先輩と手塚先輩の間に割り込み、池田先輩と腕を組んで、如月は明るい笑顔を二人に向ける。先輩二人も、親しげな笑みを如月に向けた。
 いつ見ても、仲良い人達だなぁと思う。ちょっと、羨ましいくらい。
「藤掛、ネクタイ曲がってるよ」
 まだボーッとした顔で朝食をとる藤掛のネクタイが曲がっていることに気づいて、僕は藤掛のネクタイに手を伸ばした。
「朝から熱いっすね~、先輩方」
 ふと口笛と共に背後から聞き慣れた声が届き、一瞬、心臓がドクンと脈打った。
 また、例の一年生二人組。
 思わず睨みつけそうになったその時。
「瞬~っ!! おまえ起こせよなーっ!!!」
 バタバタと派手な足音と共に食堂に駆け込んできた蓮川が、一年生二人を押しのけ、如月にむかって罵声をあげた。
「早く食べないと遅刻だよ~」
「つかもう食ってる暇ねぇだろ」
「食べます! 狙っても無駄ですからね!?」
 急いでお盆に朝食を並べながら、蓮川は明らかに朝食を狙っているとみえる三人を威嚇した。
 いつもの光景。普段と何も変わらない日常。
 この日常が、僕は大好きだったのに。
 今は何故か、酷く心が重い。
 
 
 その日の昼休み時間、僕はやけに一人になりたくて、屋上前の階段に座ってパンを一つだけ食べた後、教室に戻ろうと階段を降りる。
「あ、渡辺先輩、ちーす!」
 逆方向から階段を上がってきた人物に声をかけられ、僕は目を見開いた。
 例の一年生二人組の一人、日高だった。
「今日は藤掛先輩と一緒じゃないんスか?」
「別に、いつも一緒にいるわけじゃないよ……」
 やたらと親しげに声をかけてくる日高に、僕は視線を背けたまま応えた。
「そうなんですか? 旦那さん、寂しがってるんじゃないんですか?」
 またしてもからかう口調。
 苛立ちを抑えきれず、僕は日高を睨みつけた。
「……いいかげん、からかうのはやめてくれないかな」
 強い口調で言いたいのに、声が震えてしまう。
「別にからかってないですよ。普通に、羨ましいなぁって」
 日高は飄々とした口調で言うが、納得できるはずがない。
「面白がってるだけだろ……」
 どうしようもなく悔しくなって、再び睨みつけると、日高は突然僕の肩を掴んで、背後の壁に僕の身体を押し付けた。
「……実は俺、先輩のこと、ずっと好きだったんですよ」
 突然真面目な顔をしてそんなことを言ってくる日高に、僕は驚愕を隠せなかった。
 絶句した僕に、日高はプッと小さく笑う。
「なーんて、真に受けちゃいました? 残念ですけど、俺、男には興味ないんで。いくらそのへんの女より可愛い顔してたって、やっぱ有り得ないですよ」
 からかう口調と、完全な蔑みの言葉。
 カッと胸のうちが熱くなるのを感じて、気がつけば、僕は日高の胸倉に掴みかかっていた。思いがけない僕の攻撃に、日高が目を丸くした瞬間、僕たちは二人一緒に階段から転げ落ちて、激しい衝撃と共に、僕は意識を失った。
 
 
 
『苦しい』
『苦しいよ、おかあさん』
『いやだ』
『もう、いやだ』
 
 ねえ、お母さん。
 どうして僕はこんなに弱いの? どうして僕だけが、いつも苦しい思いばかりしなきゃならないの?
 
『ごめんね、由樹。丈夫に産んであげられなくて、ごめんね』
 
 泣かないで。
 僕、もっと丈夫になるから。強くなるから。
 だから、泣かないで、お母さん。
 
『ごめんね……』
 
 もう、苦しくても絶対に泣かない。咳もしないようにするし、痛くたって一生懸命、我慢する。
 だから泣かないでよ、お母さん。
 
 泣かないで。
 
 こんな僕で、ごめんね。
 
 ごめんね、お母さん。

 
「お母さ……!!!」
 ハッと目を開いた瞬間、真っ白な天井が目の前に映る。
「目が覚めたか?」
 すぐに視界に入ってきたのは、保険医、蓮川先生だった。
 一瞬どこにいるのか、どうして保健室なんかにいるのかわからなくて混乱した僕に、蓮川先生は落ち着いた笑みを向けてくる。
「気分は悪くないか?」
「……はい。す、すみません、僕……!」
 慌てて起き上がった瞬間に、後頭部にズキンと痛みが走って、蓮川先生に立ち上がるのを制された。
「少し寝てなさい。少し頭を強く打ってるから、2時間くらい様子を見た方がいい」
「はい……。あの……日高は……」
「怪我もなかったし、もう帰ったよ。心配ない」
 おそらく僕が突き飛ばしたせいで同じように怪我を負ったであろう日高のことを尋ねると、蓮川先生はあくまで落ち着いた声でそう言って、  僕に背を向けて机の椅子に腰を下ろす。
 僕は再び枕の上に頭を乗せ、掛け布団を胸の上まで引き寄せた。
 少しの間、沈黙の時間が流れる。
 急に酷く不安に襲われて、僕はかけ布団をぎゅっと握り締めた。
 こんな暴力沙汰を起こして、やはり停学になったりするのだろうか。日高に怪我はなくても、僕が突き落としたことに変わりない。両親に連絡がいったりしたら、遠方から呼び出され、酷く迷惑をかけることになる。心配性のお母さんのことだ、僕が寮に入る時も泣くほど不安がっていたのに、もしこんなことを知ったら……。
「由樹!!」
 突然、派手な音をたてて保健室の扉が開き、青ざめた様子で飛び込んできた藤掛の声に、僕は咄嗟に上半身を起こした。
「藤掛……」
「大丈夫か!!?? 先生、すぐに病院に連れて行った方がいいんじゃないんですか!!??」
「いいから落ち着きなさい、大丈夫だから」
 派手にオロオロしながら言う藤掛に、蓮川先生は苦笑しながら宥めるように言い聞かせる。
 ようやく少し落ち着いた藤掛が、僕に真剣な目を向けてきた。
「いったい何があったんだ? おまえが先に掴みかかっていったって聞いたけど……」
 藤掛の言葉に、また鼓動が高まる。やはり校内ではとうに噂になっているらしい。目撃していた人物も何人かいたのだろう。
「もしかして日高に何かされたのか?」
「……違う」
「じゃあ、嫌なことでも言われたのか?」
「違う……。僕が……悪いんだ」
「どうして……!! おまえらしくないじゃないか、相手に掴みかかっていくなんて……! よっぽど嫌なことがあったんだろう!?」
 藤掛に肩を掴まれる。
 僕は口を閉ざした。
 ただ、頭が酷く痛い。
「藤掛、もう授業が始まってる。教室に戻れ」
 不意に蓮川先生が口を開いた。
「授業なんていいです、俺がそばについててやらないと……!」
「駄目だ。すぐに戻れ」
 思いがけない厳しい口調。初めて聞くような蓮川先生の声に、藤掛は何か言い返そうとしたものの、諦めたように肩の力を抜いた。
「由樹のこと、よろしくお願いします」
 藤掛は小さくそう言うと、まだ名残惜しそうな目を僕に向け、保健室から出て行った。
 僕は申し訳ないと思いながらも心のどこかで安堵し、安堵している自分に、酷く違和感を覚えた。
「まったく過保護な奴だな。疲れるだろう、おまえも」
 藤掛が出て行くなり、蓮川先生は先ほどとはまるで違う気の抜けた声を発し、ベッド脇の小椅子に腰を下ろす。
「疲れるなんて……そんなこと……。藤掛は、優しいから……本気で僕のこと心配してくれてるのに……」
「そうか……。そうだな……とにかく、今はゆっくり眠りなさい」
「はい……」
 返事をすると、蓮川先生が立ち上がる。僕は咄嗟に、その腕を掴んだ。無意識だった。
「どうした?」
「あの……このこと、やっぱり、両親に……!」
 連絡がいくのかと尋ねようとしたのに、躊躇した。
 蓮川先生は僕の頭をポンと叩いて、
「事件沙汰にはしないから、心配しなくていい」
 優しくそう言った。
 僕は安心すると同時に、酷く胸の内がもやもやして。
「……すみません」
 いったい誰に謝っているのかもわからないまま、小さくそう言った。
 
 
 その日、寮に戻ると、藤掛は僕をぎゅっと抱きしめてくれて。
 僕は抱きしめられるままに、彼に身を委ねる。
 優しい口付け。
 心地良い手の平の感覚。
 力強い腕。
 僕は彼を全身で感じる。
 包み込まれ、呑み込まれ、意識も身体も心も、なにもかも全てを支配される。
 そして、何も考えられなくなる。
 感じなくなる。
 それはまるで、人形のように。
 
「由樹……」
 
 僕を呼ぶ、この声は誰?
 今、僕を抱きしめているのは誰?
 僕の中にいるのは、誰……?
 
「好きだよ……」
 
 誰でもいい。
 僕をこの苦しみから救ってくれるなら。
 癒してくれるなら。
 抱きしめてくれるなら。
 
 僕が僕でいるために。
 僕は何度でも、君に言うよ。
 
「好き……」
 
 壊れた機械仕掛けの人形のように、何度でも、同じ言葉を君に。
 
 

 あれから一週間。蓮川先生の言うとおり、あのことが大きな事件になることも話題になることもなく、またいつもの日常が戻ってくる。
 日高は以前のように僕に絡んでくることは無くなったけれど、宮木の方は相変わらずだった。それでももう、二度とあんな想いはしたくないから、どんなからかいの目をむけられても、僕は心を無にして、彼らとは関わるまいと無視を決め込んだ。
 
 少しずつ、雨の日が少なくなっていった。
 その日、学校から寮へ帰ろうとする僕の目の前に、憧れの先輩二人の姿が映る。
 きっと僕だけではない、学園の生徒なら誰でも憧れずにはいられないだろう、寮長と生徒会長の二人が並んで歩く姿は、いつも不思議と高揚感をもたらしてくれる。ずっと、目に焼き付けていたいくらいに。
「よう渡辺、今帰りか?」
 ふと、池田先輩が振り返るなり僕に気づいたように、声をかけてきてくれた。思わず胸が高鳴る。
「はい……」
 歩み寄ると、二人は間に僕を入れてくれて、僕はといえば緊張のあまり会話もうまく出来ない。
「今日の飯、何だろうな~」
「おまえさっき牛丼食べたばかりだろう」
「この顔維持するためのエネルギー消費がバカにならないんだっつの」
「そのうち脳まで筋肉になるぞ」
 ふざけた会話に、思わずクスリと笑みがこぼれた。
 少しも気を使わせない緩やかな空気に、自然と肩の力が抜けていく。
 酷く居心地の良い空間。このままずっと歩いていたいと思ったけれど、あっという間に寮に辿り着いてしまった。
「じゃあな、渡辺」
「はい」
 自室へ去っていく先輩達を見送って、僕もまた自室に足を向けた。
 いつ見ても、本当に素敵な先輩たちだと思う。
 僕が寮に入った時から、二人は変わることなくいつでも一緒で、心を許し合って、信頼し合っていて。
 「本当の友達」ってきっと、ああいう人達のことを言うんだ。
 憧れと崇拝ばかりが胸の内に広がっていく。
 けれど僕には、ただ遠い存在でしかないことも分かっていたから。
「ただいま」
「おかえり」
 自室の扉を開いて、いつものように笑顔を向けてくる藤掛に同じように笑顔を返し、返した後、一瞬だけチクリと胸が痛んだ。
 
 
 その日の夜、210号室にお邪魔して談笑しながら酒を飲んでいる途中、僕はトイレにむかうため部屋を後にした。
 用を足して、また210号室に戻ろうとしたその時。
「ちーす、先輩」
 嫌な人物と鉢合わせた。
 宮木と日高だった。日高は僕と目を合わせず、宮木だけがまたからかうような視線を向けてくる。
「今夜もこれからお楽しみですか? 先輩」
「よせよ、宮木」
「んだよ、ムカついてんだよ、俺は」
 からかう宮木に、日高が眉をしかめるが、宮木は怒りを隠せない顔をして僕を見てきた。
「可愛い顔して侮れませんね、先輩。俺もいつ階段から突き落とされるんじゃないかって、ビクビクしてますよ」
 容赦ない言葉を投げつけてくる宮木を無視して、僕は足を踏み出す。
 チッと舌打ちの音が聞こえたと同時に、
「無視かよ、さすがオカマ野郎」
 罵声が耳に届いた途端、またカッと喉の奥から怒りがこみ上げてくる。思わず振り上げようとした拳を必死で抑えて、僕は宮木に向き直った
「……この前のことなら、謝るよ。本当に……ごめん」
 僕はそう言って、宮木にむかって頭を下げた。
 顔を上げて、二人に背を向けて歩き出そうとしたその時。
「おまえら、何やってんだ?」
 血相を変えて駆け寄ってきたのは藤掛だった。
 藤掛は駆け寄ってくるなり僕の肩を掴んで引き寄せ、宮木と日高に怒りの視線を向ける。
「おまえら、また由樹に何かしたのか!?」
 藤掛の怒声に、宮木と日高はやや怯んだように後ずさった。
 僕相手ではあんなに尊大だった宮木も、藤掛には明らかに怯えている。それは、彼が僕よりずっと体格が良いからだろうか。それとも、僕よりもずっと、二年生からも三年生からも人望があり友人も多いせいだろうか。
「やめて、藤掛。何もされてないよ。ただすれ違っただけ」
 僕は藤掛の身体を押しのけ、小さくそう言って、彼らに背を向けて歩き出した。
 バタバタと駆け出していく足音。
 黙って歩く僕に、藤掛はまだ心配そうな顔のまま着いてきた。
 
 
「なあ由樹、本当にあいつらに何もされてないのか?」
 自室に戻ると、藤掛はまだしつこく尋ねてくる。
「本当に何もないよ……」
「だったらどうして、あんなことに……」
 階段での事件以来、藤掛は何度も僕に事の経緯を尋ねてくる。けれど僕は決して本当の事は口にしなかった。いや、したくなかった。
 あくまで口を閉ざす僕に、藤掛が少しずつ苛立ってくるのを感じても。
「なあ、頼むからちゃんと話してくれよ。おまえ、何も無いのに、人にあんなことする奴じゃないだろ?」
「……ごめん。今日はなんだか頭が痛くて。その話は、また明日にしてくれないかな?」
 僕は藤掛に向き直ると、笑みを浮かべて言った。
 藤掛はまだ諦め切れない様子ながらも、ようやく口を閉ざしてくれた。
 そして言葉の代わりと言わんばかりに、そっと僕を抱き寄せる。
「何かあったら、いつでも俺に言えよ? 俺……どんなことをしても、絶対におまえを守るから」
「うん……ありがとう」
 優しさが心地良くて、僕はそっと目を閉じた。
 もう、何も考えたくない。
 だから心を閉じて、抱きしめられる。
 ここにいれば、傷つくことは、何も無い。
 だから、心を閉じて。
 何も考えちゃ、駄目だ……。
 
 僕たちが永遠に、このままでいるために。
 
 
『由樹、寮生活は不自由はない? 辛くなったらいつでも帰ってきていいのよ。お母さん、ずっと由樹のこと、待ってるからね。いつでも由樹のことだけを考えてるからね。そうそう、由樹のためにくまのキーホルダーを作ったから送るわね。覚えてる? 昔、お母さんが作ったくまのぬいぐるみを抱くと、咳が治まってよく眠れたわよね。寮ではよく眠れないんじゃないかと思って、小さなくまちゃんを作ったの。名前をつけてあげてくれる?』
 
 埃の出ないビニール素材で作られたくまのキーホルダーと共に送られてきた手紙を綺麗に折りたたんで、僕は机の引き出しの中に手紙と一緒にキーホルダーを置いた。
 そして小さくため息をつく。
 まったく……僕、もう小さな子供じゃないんだよ? こんなキーホルダー持って歩いてたら、それこそ「オカマ」呼ばわりされて当たり前だよ。
(でも……)
 せっかく心を込めて作ってくれたんだし、名前くらいは、つけてあげるべきかな。
 首に赤いリボンがかけられた可愛いらしいくまを見つめ、自然と笑みがこぼれて、僕はそっと引き出しを閉じた。
 

(名前……)
 
 僕はその日一日、ずっと、くまの名前を考えていた。
 だけど、どうしてか、一つも良い名前が浮かんでこない。
 どうしよう。
 相変わらず悩み続けてたら、いつの間にか結構な時間になっていて。
 そろそろ寮へ帰ろうと教室を出て、廊下を歩いていると、ふと、ガタン!と大きな音が耳に届いた。
 音がしたのは、前を通り過ぎようとしていた生徒会室だった。
 いったい何事だろうと、生徒会室に歩み寄り、少し開いたドアの隙間からそっと中を覗いてみる。
 刹那。
 僕は大きく目を見開いた。
 
「い……やだ……、光流……っ」
「痛い? でも、いいんだろ?」
「……や……っ、ほど……いて……」
「……言えたら……な?」
「……っ……と……」
「もっと……?」」
「も……っと……欲し……っ」
 
 激しく鼓動が高鳴り、動揺のあまり大きな音をたてて後ずさったと同時に、二人の視線と僕の視線が絡み合う。
 涙に濡れた手塚先輩の瞳と、いつもとまるで別人のような池田先輩の鋭い瞳。
 
(嘘だ……!!!)                 
 
 心の中で絶叫して、僕はその場から走り出した。
 
 ただがむしゃらに走って、走って、校舎の外に出て、人気のない裏庭の木に手をついて、大きく息を切らせる。
 
(嘘だ……)
 
 何かの見間違いだ。
 だって、あの二人が。
 違う。そんなはずない。あっていいはずがない。
 
「う……っ!」
 
 急激に吐き気がこみ上げてきて、ずるずると地面に膝を着いて座り込む。
 
(嘘だ……!!!)
 
 頼むから、お願いだから、誰か嘘だって言って。
 
 ずっと、憧れていた先輩達。
 今まで見た誰よりも、強い絆と心で結ばれている二人だって。
 ずっと、ずっと、そう信じて、憧れて……。
 
 何よりも、誰よりも、綺麗なものだったのに……!!!
 
(汚い……)
 
 涙が止まらない。
 
(汚い……!!!)
 
 違う。
 違う!!!
 
 汚いのは、僕の方だ。
 
 勝手に僕の理想を押し付けて、勝手に彼らが友人同士だと決め付けて、勝手に憧れて崇拝して「綺麗なもの」だって決め付けて。
 その理想が崩れたからって彼らを罵る僕の方が、ずっと、ずっと、汚いじゃないか……!!!
 
(ずっと、無かったんだ……)
 
 確かなものなんて。
 永遠の絆なんて。
 解けない糸で結ばれているものなんて。
 
(どこにも、無かった……)
 
 ただ、僕が、信じたかっただけで。
 この世界のどこかに必ず、「綺麗なもの」があるんだって。
 そう、信じたかっただけで。
 そんなもの、初めから、どこにも無かったんだ……。
 
「……っ……う……」
 
 後から後から流れる涙を拭いもせず流し続けながら、僕は震える拳を強く握り締めた。
 

 
 ごめんね、お母さん。
 やっぱり名前は、つけられない。
 今の僕には、綺麗な名前、とてもつけてあげられそうにないから。
 
「へえ、よく出来てるな~。さすがおまえの母親」
 僕の手に握られているくまを見て、藤掛が無邪気に言って微笑む。
「うん、可愛いでしょ?」
 僕は振り返って、同じように微笑んだ。
「本当に……可愛いよね」
 もう一度、小さく言ってから、僕はくまを握り締めたまま藤掛の首に腕を回して、彼の唇に自分の唇を重ねた。
 そのまま身体の力を抜くと、僕の重みで藤掛が床の上に倒れ込む。押し倒される格好になった藤掛を、僕は上から見下ろした。
「よ……」
 驚いて何かを言おうとする藤掛の頬を包み込んで、僕は再び唇を重ねた。
 強引に舌を割り込ませ、絡ませる。
「……好きだよ」
 少し顔を赤くした藤掛にそのまま抱き寄せられ、首筋に唇の熱を感じる。
 僕は藤掛の上に乗った体制のまま制服のタイをはずし、そのタイですばやく藤掛の手首を縛りつけた。
「な……!」
「好きだよ」
 驚きを隠せない藤掛に、もう一度、強引なキスをする。
 痛い?
 でも、いいんだろ?
 誰が言った言葉だったか。
 ぼんやりと、あの光景を思い出す。
 綺麗だったなと、今は、思う。

「あ……も……っと……、もっと……して……っ!」
 突き上げられるままに、僕もまた深く腰を落とし、快楽に酔いしれる。
 どう思われてもいい。
 今はただ闇雲に、穢れたいと思う。
 僕が君を穢したいと思う。
「あ……ぁ……っ、あ……!!」
 深い闇の底から引き上げられるように、絶頂が僕を導く。
 白光と共にそれを放った瞬間、手に握り締めたままのくまのキーホルダーが、僕の精液で汚された。
 
「は……っ……」
 
 これまでに感じたことのない激しい高揚感。
 どうしようもない歓喜と共に、僕は、手の中のくまを強く握り潰す。
 一瞬、優しくて、大好きな、お母さんの顔が浮かんだ。
 僕はいつものように彼女に笑いかけ、いつものように心で叫ぶ。
 
(死ネ)
 
 神様、こんな僕でも、あなたは許しますか?
 
 
 
「池田先輩」
「……よう」
 翌日、僕は池田先輩に自ら声をかけた。
 
 放課後の誰もいない教室で二人きり、しばらくの沈黙の後、僕は静かに口を開いた。
「誰にも言いませんから」
「……そうしてくれると助かる」
 池田先輩は机の上に腰を下ろし、暗い表情のままに、少し長い前髪をかきあげる。
「愛し合っているんですか?」
 池田先輩の前に立ったまま、僕は尋ねた。
「少なくとも、俺はな」
 真剣な声。
 いつもと別人のような怜悧な表情。
 こんな顔をする池田先輩を、僕は初めて目の前にする。
「……わかります」
 僕は応えて、また足を踏み出した。
「必要なんですよね。汚い人間には、綺麗な人間が」
 静かに微笑んで、僕は言った。
 一瞬、池田先輩の目が見開かれる。
「僕はずっと……自分を綺麗な人間だと思っていました。そうでありたいと、願っていました。でも……違っていた」
 なぜ、彼にこんなことを話すのか、わからない。
 池田先輩は黙って僕の言葉に耳を傾ける。
「全部、違ってたんです。気づかせてくれて……ありがとうございました」
 低い声で言うと、池田先輩はどこか苦しげな目で僕を見上げた。
 色素の薄い髪が、窓の外から差し込む光に透けて金色に輝く。長い睫が小さく揺れる。冷たく、けれど優しく、僕を気遣う苦しげな瞳が酷く美しくて、僕はただ切なさばかりを覚えた。

 ずっと……ずっと、ずっと、僕には遠い人だと思っていた。
 いつでも太陽のように眩しくて、多くのものに恵まれて、まるで神様に愛されるために生まれてきたような人だと。
 どうしようもなく焦がれて愛してやまなかった人。
 けれど僕には永遠に手の届かない人。
 ずっと、そう思って。諦めて。逃げて。決め付けて。
 そうやって、自ら遠ざかっていただけだった。
 それなのに、今、僕は彼を、誰よりも「近い」と感じている。

「先輩……」
 迷うことはなかった。
 僕は彼の頬を両手でそっと包み込み、唇を唇に寄せる。
 ほんのわずか。唇同士が触れた瞬間、僕は彼に肩を掴まれ引き離された。
「僕を……軽蔑しますか?」
 波立たない心のままに、僕は尋ねた。
 池田先輩はまた一瞬目を見開き、それから戸惑いを隠せない様子で僕から顔を背ける。
 ああ……やっぱり彼は、僕よりもずっと、心の綺麗な人だ。
 そう感じた瞬間、僕は静かに笑みを浮かべた。
「これで、僕たちの間にも秘密ができちゃいましたね。だからお互い、全部、秘密にしましょう?」
 出来うる限り明るい声でそう言って、僕は池田先輩に背を向けて、その場から足を踏み出した。
 教室から出て扉を閉じて、そのまま人気のない廊下を歩く。
 
 涙が一筋、僕の頬を伝った。
 
 
 寮に戻り自室の扉を開くと、少し不安げな顔をした藤掛が僕を出迎える。
「ただいま」
 僕はいつものように明るく笑った。
 少しだけ、藤掛が安心したような顔をする。
 机の上にカバンを置き、制服のタイに手をかけたその時、背後からそっと抱きしめられた。
「由樹……」
「どうしたの?」
 まるで小さな子供のように不安げな声。優しく尋ねると、藤掛は僕を抱きしめたまま小さく応えた。
「俺……守るから。おまえのこと、何があっても守る。だから……何でも、言ってくれよな……?」
 ぎゅっと僕を抱きしめる手に、僕はそっと自分の手を重ねる。
「うん……ありがとう」
 振り返り、僕は優しく微笑みかける。
 そしてそっと、藤掛の頬に手を添えた。
 
 綺麗な瞳。
 まるで、小さな子供のように。
 
 やっと、わかったような気がする。
 
 ずっと震えていたのは、怯えていたのは、抱きしめてもらいたがっていたのは。
 
 僕じゃなく、君だったんだね。
 
 ずっと僕をがんじがらめにしていたのは、必死で手を離すまいとしていたのは、君ではなく、君の中の小さな子供だったんだね。
 
 君がずっと守りたかったのは、僕ではなく、君自身で。
 
 僕はそんな君に守られながら、ずっと、君を利用して、楽ばかりをしていた。
 
 
「……好きだよ、藤掛」
 
 
 今、初めて僕は、僕の手で、君を抱きしめられる気がする。
 
 もう小さな子供のままではなく。
 
 震えて怯えて泣き叫んでいる幼い僕ではなく。
 
 君と同じ場所で、同じ高さで、同じ目線で、君を抱きしめられる。
 
 
 けれど君は、それでも、今までと変わらずにいられるのかな?
 
 君が本当の僕に気づいた時。
 
 それでも君は、これまでの僕と同じように、僕を抱きしめられるのかな?
 
 
 答えは、きっともうすぐ、わかる時が来る。
 
 僕はその日を、ただ待つことにしよう。
 
 
 君の理想が打ち砕かれる時。
 
 
 従順な飼い犬に突然噛みつかれた飼い主は、どんな顔をするのだろう。
 
 我が子に反旗を翻された神は、どんな制裁を我が子に与えるのだろう。

  

 答えはきっと、もうすぐ傍に。