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「よっしゃ完成~!!」
威勢良く声を放ち、出来立てのお粥を乗せたお盆を寝室まで運びながら、光流の足取りはやけに軽かった。
少し開いたままの寝室のドアを器用に足で開き、ベッドの上で横になっている忍の元へ近づく。
忍がゆっくりした動作で起き上がると、光流はベッドの端に座ってお粥の乗ったお盆を忍の目前に置き、お粥の入った器とレンゲに手を伸ばした。しかし即効で忍にレンゲを奪われる。
「自分で食えるから、もういい」
熱が39度近くあるにも関わらず、忍はいつもと変わらない表情で、至って冷静な声色で言った。光流が目をすわらせる。
「いいから病気の時くらい、人に頼れって!」
光流はやや苛立った声でそう言うと、忍の手からレンゲを奪い返した。が、またしても忍に奪い取られる。
「薬は飲んだ。ひえぴたも貼った。食事も作ってもらった。もう充分だありがとう」
忍はやたらと含みのある強気な口調で、これでもかとばかりにキツい視線を光流に向けた。あまりの気迫に、光流はやや怯んだ表情をするが、そう簡単に諦めるはずもなく。
「いやでも、やっぱ心細いだろ? 俺、今日は仕事休むし……」
「いいからとっとと仕事に行け!!」
堪忍袋の緒が切れたかのように、忍は寝室から光流を叩き出した。
有無を言わさず「看病お断り」を告げられた光流は、廊下で一人、わなわなと肩を震わせる。
だがしかし、忍がここまで弱っている事など滅多に無い。三年に一度あるか無いかというくらい無い。もともと弱っている人間の面倒を見る事が大好きな光流にとっては、千載一遇のチャンスであった。ここぞとばかりに、朝からマメに氷枕を取替え、ひえぴたを張り替え、薬を運び、玉子酒を作り、まるで雛鳥に餌を運んでくる親鳥のごとく懸命に看病をした結果が、先ほどのあまりにも無碍な扱いである。納得いかない光流の表情は険しい。
だが忍は忍で理由があり、頭も痛い身体も痛い意識も朦朧とする中、とにかく眠って一時でも痛みから逃れたかった。しかし何かというと光流が世話を焼いてくるおかげで、やっと眠ったと思ったら起こされるの繰り返し。いいかげん、一人でそっと寝かせておいてくれ。そう叫びたいのを必死で我慢して心の中で叫び続けた故の爆発であった。
何でこんなに一生懸命看病しているのに、うざがられなければならないのか。納得いかないまま、もう二度と面倒なんか見てやらねぇとふてくされソファーに座ってテレビを見ていた光流だが、忍に追い出されてから三十分が経過したところで、早くも気になりだしてソワソワし始める。放っておけと言うのだから放っておけば良いのに、気にならずにはいられない。そもそも放っておけるくらいなら、最初から気になりもしないわけで。
ここは怒られるのを覚悟でひえぴたを持っていくべきか、それともスポーツドリンクを持っていくべきか。怒られるのは怖い。でも看病したい。できるものならずっと隣で寝ていたい。病気だろうが何だろうがぎゅっと抱きしめてキスして色々したい実のところそれが本音。
「だーっ! もう無理だ!!!」
こうなったら、殴られようが蹴られようが、有無を言わさず抱きしめる!!!
光流は開き直って決意を固め、ソファーから立ち上がり忍のもとに向かおうとした。すると不意に、テーブルの上に置いてあったスマートフォンの着信音が鳴り響いた。
またいらない邪魔が入ったかと嫌な予感を抱えつつスマホを手にとると、電話の相手は思いがけず、滅多に連絡などしてこない弟からであった。珍しい、何事だろうと思い、光流は怪訝そうに眉を寄せ、電話に出る。
「正? どーした?」
尋ねると、電話の向こうから声が返ってくる。光流は目を見張った。
どうも、様子が変だ。
忍は先ほどまでとは明らかに違った様子の光流を前に、眉間に皺を寄せる。
「忍、そろそろ熱測ってみるか?」
光流は抑揚のない声で言って、忍に体温計を手渡した。
「光流、職場で何かあったのか?」
「え?」
忍の質問に、光流はややギクリとした表情で応えた。
「いや、別に、何もねーよ?」
「嘘をつくな」
忍はそう言って、光流の目をまっすぐに見据える。光流は非常にわかりやすく目を逸らした。
チラッと忍を見ると、まだ無言のまま見据えられ、光流は額に冷や汗を流す。もはや嘘をついても無駄だと悟り、光流はおずおずと口を開いた。
「いや、職場では何もねーのはホントだけど……、さっき、正から電話があって……。昨日、母ちゃんが倒れて病院に運ばれたらしいんだけど……」
その事実を聞いた瞬間、忍は更に神妙な目を光流に向けた。それから、呆れたように小さく息を吐く。
「何故それを早く言わないんだ? さっさと行って来い」
忍は言うが、光流はそれでも困ったような表情を変えなかった。
「いやでも正が、検査したら単なる過労みたいだったから大丈夫あだって。正も一応連絡しただけって言ってたし。今はやっぱおまえのが大事だから、熱下がるまではちゃんと看病するから……!」
何やら必死になる光流に、忍はますます厳しい視線を向けた。
「しなくていい。とっとと行け」
「でも……っ」
「いいからとっとと行け!!!」
またしても有無を言わさずその場から叩き出された光流であった。
渋々と出かける仕度をして病院に向かう道を歩きながら、光流はため息をついた。
せっかくこの優柔不断な俺が、苦渋の決断をして忍を選んだのに、どうしてあいつはああも冷たいんだ。心の中で悪態ばかりをつきながら、更に深くため息をつく。
昔だったらきっと、なりふり構わず母親の元に駆けつけていただろう。病気で苦しんでいる忍のことなど、何も考えずに放っておいて。その結果、いつだって一番そばにある大切なものを傷つけてきたから、衝動のままに動くのではなく、きちんと考えなければと思い、考えて悩んだ挙句に忍のそばにいることを決めた光流だった。
むろん母親と忍、どちらが大切かなんて、天秤にかけられるものじゃない。でも、どちらかを選ばなければならない時もある。選べなければ、結局はどちらも失うことになる。それならば、ずっと共に生きていこうと決めた相手を。
それなのに……。
(冷てぇよなぁ……)
ろくに看病もさせてくれない。せっかくそばにいると言っても、いさせてもくれない。
こんなにこんなに、好きで仕方ないのに。
つれない恋人を一途に想っては蹴られの繰り返しで、ひたすら凹みながら病院への歩を進める光流であった。
全くあの馬鹿は。
心の中で悪態ばかりをつきながら、忍はベッドの上に横になり、ゴホゴホと咳を漏らした。
そばにいて欲しくないわけではなかった。ただ、母親を無碍にしてまでそばにいて欲しくはなかっただけだ。それは光流が光流自身を追い詰めていることでもあるのだから。
その証拠に、正から電話が来るまでは実に楽しそうに看病をしていた光流が(これはこれで腹が立つわけだが)、電話が来た途端に急に元気が無くなり、常に何かを気にかけながら落ち着かない表情で看病していたのが解ったからこそ、忍は光流を無理やりにでも病院に行かせたのだ。
どうせ覚悟を決めたのなら、そんな心配などおくびにも出さず隠し通せば良いものを、すぐに表情や態度に出る単純さは昔から少しも変わっていない。
だが少しでもそばにいる人のことを考えるようになっただけ、成長したと認めよう。
思いながら、忍はどこか遠い目をした。
昔の光流だったら、きっと一目散に母親の元に駆けつけていた。頭の中を真っ白にして、なりふり構わず。
そして、昔の自分だったらきっと、母親と自分、どっちが大事なんだとか、自分のことなんてどうでもいいからなんじゃないかとか、余計なことばかり考えて自分の存在価値を見出せず、卑屈なことばかりを思っていたに違いない。
けれどそれは天秤にかけるようなことではなく、目の前に放っておけない人がいたら、反射的に身体が動いてしまう。光流にとってはただそれだけの事だったのだろう。しかしそれが時には酷く危険な事もあり、一瞬でもいいからせめて身の安全だけでも考えてくれればと、忍は何度思ったかしれない。それは今も変わらず、一瞬で危険に手を伸ばしてしまうから、一瞬で自らを壊す可能性も大きくなるのだと、今の光流は少しでも理解しているのだろうか。
(してないだろうな……)
あの三歩歩いたら忘れる鳥頭の単純馬鹿が、ほんのちょっと考えることを知ったところで、いったん頭に血が昇ったら溢れ出る衝動を抑えられるはずがない。
昔から一向に変わらない悩みを抱えつつ頭が重くなったところで、忍は考えるのをやめ、とにかく眠ろうと目を閉じた。
うとうとと意識を失いかけた頃、不意にスマホからLINEの通知音が鳴り響き、音に敏感な忍はすぐさま起き上がってとスマホに手を伸ばした。
見ると画面には、光流からのメッセージ。
『忍~、大丈夫か~?』
一瞬にして、忍が目を据わらせた。
返事をする気にもなれないが、既読を目にして返事がなかったら、慌てて戻って来かねない。仕方なく『問題ない』と返事をすると、なんだかよくわからない丸いキャラクターがオッケーサインを出しているスタンプの返事が返ってきて、忍はやれやれとスマホを元の位置に戻した。
すると突然電話の着信音が鳴り、見ると案の定光流からだった。寝たいのにちっとも眠れない苛立ちから、忍は震える手でスマホを握りしめる。
『しの……』
「大丈夫だと言ってる! 今日は帰ってくるな!!!」
光流の声を聴くより先に血管が切れ、忍は即効で電話を切り、ついでにスマホの電源も落とした。
こんなものが高校時代に無くて、心底良かったと思う。情が深いだけに粘着度も半端ない光流のことだ。あの若かりし時代にこんなものがあったら、二十四時間監視し続けられた挙句に、全部盗み見されて、怪しいメールは読む前に削除されていたに違いない。
忍は愛されすぎる重さを全身で感じつつ、怒りのあまり熱があがってきた様子で、突然口元を抑えながらトイレに向かったのであった。
「母ちゃん、どうだった!?」
「んだよ、来なくていいって言ったのに。忍さん、風邪ひいて寝てるんだろ?」
病院に駆けつけた光流は、顔を見るなり実に素っ気無くそう言ってきた正に、やや口をとがらせた。
「その忍に行けって言われたんだよ。まあ、心配だったのもあるけどな」
「んな心配すんなって。あの母ちゃんが、そう簡単にくだばるわけないだろ?」
正は楽観的に笑いながら言った。
「そりゃそーだけどよ、一応年だし……」
そう言って、光流はやや切なげに目をふせた。正が目を見張る。
「やっぱ、ちゃんと、親孝行しなきゃだよなあ……」
小さくため息をつきながら言う光流を、正はやや複雑な想いで見つめた。
ちょっとこれは本気で死ぬかもしれない。
数字が四十に達している体温計を眺め、忍は表情を険しくした。
しかし今更光流を呼び戻すわけにもいかず、とにかく寝ようと横になって目を閉じると、急に不安感が襲ってきた。
一応何かあったらすぐ連絡できるようにとスマホに手を伸ばし電源を入れると、光流からのメッセージとスタンプが山ほど入っていた。一瞬顔をしかめた忍だが、同時に気持ちが和らぐのも感じた。不思議なもので、そばにいてくれなくても、何故か酷く安心する。自分のことを常に気にかけてくれていると、確認できるからだろうか。
滅多に使うこともなく、実のところくだらないと思っていたアプリだが、そう悪いことばかりでもないなと思った忍の目に、ふと、「グリーン・ウッド」のグループが目についた。
確か数ヶ月前に、瞬が連絡のつく限りのかつてのメンバー全員でグループを作って、招待された忍も簡単な挨拶だけを交わしたきり、そのまま一度も使ったことのないアプリだが、みんな元気にしているのだと分かって酷く安心したと共に、懐かさで胸の内が温かくなった事を忍は思い出した。
それから時折、青木や坂口を始めとして誰かがふざけたメッセージを残したり、突然変なスタンプを送ったり。いくつになっても、誰も何も変わっていないあの頃のままの会話が繰り広げられているのを、忍は妙にくすぐったいような、どこか切ないような気持ちで眺めていただけだった。
熱のせいもあっただろうか。突然、学生時代の頃のような悪戯心が沸いて、忍は試しに今の自分の状況をスタンプで送ってみた。名前も知らない丸い頭の変なキャラクターが、何かを吐いて倒れているスタンプだ。
すると唐突に、青木と坂口、瞬、それに続き野山、フレッド、藤掛辺りが、次々と「忍に何があった!?」という内容のメッセージやスタンプを送ってきた。
続々と送られてくるメッセージを目前に、忍はこらえきれずクスクスと笑い出す。
返事をせずにいるとようやく少し騒ぎがおさまった頃、またも光流から「おまえほんとに大丈夫か!?」というメッセージと、瞬から「どうしたの!?」というメッセージが同時に来た。
何でスタンプ一つでこんなに騒がれるのだろうと甚だ疑問に思いつつ、忍はそれぞれに「大丈夫だ」「熱出した」というメッセージを送り返す。
それからしばらくして、蓮川から「あの、大丈夫ですか……?」という非常に遠慮がちなメッセージが届き、呪いの藁人形を打っているスタンプを送り返すと、以降返事がなかったのが少し気になりつつも、スマホを握りしめたまま眠りについた忍であった。
『おいおい、忍に何があったんだよ?』
『あいつの事だから、何かの呪いとか?』
『それ洒落になんねーって!!』
『おい蓮川、どうした!?』
『みんな、蓮川がヤバいぞ!!』
『蓮川! 謝れ! 今すぐ謝るんだ!!!』
『センパイだいじょぉぶ!!』
「あーもう、大丈夫だってすかちゃん。ただ熱出して寝てるだけだから。謝罪? 必要ないない」
よく知った声が耳に届き、ゆっくりと目を開いた忍の視界に、笑いながら電話をしている瞬の姿が映った。
それに気づき、瞬が電話を切って忍に顔を向ける。
「目、覚めた? 大丈夫?」
瞬が優しく言いながら、忍の顔を覗き込むんだ
「ああ……」
忍はぼんやりとした表情のまま応えた。
「もー、びっくりしたよ。いきなりあんなスタンプ送ってくるんだもん。みんなまだ大騒ぎしてるよ?」
特に蓮川がビビッて大変だと言いながら、瞬は手にしていたタオルで忍の汗を拭ってやる。
「そんなに大騒ぎするほどのことか?」
「そりゃ、昔を思ったらねー」
あははと笑いながら、瞬は言った。
「それより、光流先輩はどうしたの? 仕事?」
「いや、母親が急に倒れたらしくて、病院に行った」
「え!? そーなの!? だったらすぐ呼んでくれれば良かったのにー」
「別に……呼ぶほどのことじゃ……。おまえだって、忙しいだろ? 誰かと一緒にいたんじゃないのか?」
目前にいる瞬から、男がつけるものではない香水の香りがするびを即座に嗅ぎ分け、忍は尋ねた。
「かまわないよ。元気な人と、弱ってる人がいたら、弱ってる人を助けるのが当たり前でしょ?」
瞬はあっけらかんと言い放つ。忍は返すべき言葉が見つからなかった。
相変わらず、本当の思いやりというものを知っている奴だと感心したところで、突然、瞬がニヤリと腹黒い笑みを浮かべた。
「なーんてのは、建前で」
瞬が持ってきたカバンからゴソゴソと何かを取り出したかと思うと、バッと素早く白衣を羽織った。手にはどこから持ってきたのか聴診器。
鮮やかに「お医者さん」に変貌を遂げた瞬を前に、忍の表情が引きつる。
「忍先輩だから、大事な用事放っておいても駆けつけてきたんだよ?」
瞬は怪しげに目を伏せると、忍のパジャマに手をかけ、細い指先でボタンを外していく。
「とりあえず、診察しよっか?」
「おまえ、これが目的だろう?」
忍は明らかに楽しんでいる様子の瞬を前に、少しでも感心した自分が馬鹿だったと、眉間に皺を寄せた険しい表情をした。
しかし聴診器を胸の突起に当てられた瞬間、ビクッと身体を震わせる。
「いい子だから、じっとしててねー」
「やめ……っ」
「じっとしててって言ってるでしょ? お医者さんの言うこと、聞けないの?」
瞬は抵抗を示す忍の両手首を掴み、ベッドの上に押し倒した。熱のせいで腕力も衰えている忍は、あっさりと抵抗を封じられる。
「忍先輩、教えて。どこが痛い?」
「瞬……っ、貴様……っ」
静かに微笑みながら尋ねてくる瞬を、忍は強気な瞳で睨みつける。
「ずいぶん熱があがってきたね。お薬、入れとこうか?」
しかし瞬は少しも怯まない。にっこりと笑みを浮かべ、白衣のポケットに入れていた薬を取り出した。刹那、忍の表情が凍りつく。
「飲み薬でいい……っ!」
「そんなこと言わないの。これが一番効くんだから」
言いながら、瞬は忍の肩を抑えつけた。
忍は絶対に絶対に嫌だとばかりに起き上がろうとするが、瞬は力を緩めない。。
「必要ないと言ってるだろう……っ」
「さすが忍先輩、病人のくせにけっこう元気だねえ……っ?」
忍は力一杯抵抗するが、瞬もまた力一杯抵抗を封じる。軽くバトルになっている二人は既に汗だくだが、両者とも一歩も譲らない。
「ほら、熱がもっと上がっちゃうよ? 大人しく言うこと聞こうね?」
「死んでも聞かん……っ!!!」
「もー、悪い子だなぁ。お薬が嫌なら、注射にしちゃうぞ~?」
異常に興奮しつつもあくまでふざけ倒す瞬に、四十度まで熱があがっているにも関わらず必死でプライドを守り続ける忍であった。
「おや、何しに来たんだい?」
病室のベッドの上に座り茶をすすっていた母親、幸枝に真顔でそう尋ねられ、光流はがっくりと肩を落とした。
「なんだよ、全然元気そうじゃねーか」
そして疲れたように、とても倒れた直後とは思えないほど顔色の良い母親に向かって呆れ声を放つ。
「当たり前だよ、まだまだくたばってたまるかい!」
いくつになっても少しも変わらないはつらつとした声をあげる幸枝を前に、光流は苦笑しながらも、心の中は安堵感でいっぱいだった。そう簡単にくたばるはずのない母親であることは分かっていたが、心のどこかでずっと気になっていたのも確かだ。なかなか会いにも行くことも出来なかった罪悪感も相混じって、倒れたと聞いた時は一瞬、頭の中が真っ白になったほどに戸惑った。
(ああ……)
不意に光流は、気がついた。
どうして忍が、あんなに冷たくしてまで、自分をここに来させたのか。
「どうしたんだい? 光流」
「え……?」
幸枝の声に、やや神妙な面立ちをしていた光流が、伏せていた瞳をハッと開いた。
「仕事忙しいんだろ? あたしはこの通り大丈夫だから、さっさと行きなさい」
まるで心中を見透かされたようにそう言われ、光流は戸惑いがちに幸枝から目を逸らす。
「いや、仕事は休みだから大丈夫なんだけど……、忍が……昨夜から熱出しててさ……」
遠慮交じりに言った光流の言葉を聴いた途端に、幸枝が目を大きくし、それから表情を険しくした。
「あんた、病気の忍君を放ってきたのかい!? さっさと帰っておやり!!」
物凄い剣幕で叱られ、光流はぎょっと目を丸くする。
「だ、だって、あいつが行けって言うから……!」
「そんなもん強がりに決まってんでしょうが!! 全くいつまでたっても女心がわからない男だね!?」
「いや、あいつ男だって!!」
「いいから四の五の言わずさっさとお帰り!! 今度病気の忍君放ってきたら、承知しないからね!!??」
光流の言葉は全く聞いていないままに怒鳴り散らす幸枝を前に、慌てて病室から退散した(というか追い出された)光流であった。
全く問題なかったですよ、と母親の検査結果を医師から聞いて、安堵しながら病室に戻ろうと廊下を歩く正の目に、壁際で座り込みながらえらく落ち込んだオーラをまとう光流が飛び込んできて、正は怪訝そうに眉を寄せながら光流に歩み寄った。
「光流、どうしたんだ?」
声をかけると、光流は力なく立ち上がり、深くため息をついた。
「やっぱ母ちゃん、長生きするよなぁ」
二人横に並んで歩きながら言う光流の言葉に、正はうんうんと頷いた。
「にしても、何であの怒鳴り声聞くと、いまだこんな心臓バクバクすんだろうな」
「刷り込みって奴だろ。俺ら、ガキの頃からさんざ怒鳴られたもんなぁ……」
しみじみと昔の苦労を語り合う兄弟であるが、一番に苦労したのは母親であることも、今の二人には嫌というほど分かっているだけに、文句一つ言うことは出来ないのであった。
「ま、母は強しってやつだよ。そーいやうちの奥さんも、子供出来てからすっげー強くなったわ。昔は小さいことですぐ拗ねるわ怒るわヤキモチやくわで大変だったけど、今はその頃のがずっと可愛かったなって懐かしく思うぜ」
「わかる! わかるぞ正!」
しみじみとため息をついた正の手をがしっと握り、光流は半泣き状態で訴えた。
そんな光流を見つめ、こりゃ普段から相当尻に敷かれているなと正は苦笑する。
「でも、好きなんだろ?」
正が穏やかな声色で尋ねると、光流は途端に耳まで顔を赤くした。
「す、好きじゃねーよ……っ、」
照れ臭さも相混じってか、ぶっきらぼうにそう言う光流を、正は仕方ないように見つめた。
「っとにおまえは、母ちゃんそっくりだよな」
「え……?」
正の言葉に、光流は思いがけないように目を見開いた。
「母ちゃんだって本当は、おまえが来てくれて嬉しかったはずだぜ? でもおまえにとって大事なもの分かってたから、心を鬼にして追い出したんだろ? まったくどうしようもなく頑固だわ意地っ張りだわ素直じゃないわ、そーいうの似たもの親子って言うんだよ」
正は苦笑しながら、まるで当たり前のように言った。
光流は返す言葉もなく、ただうつむいて、胸の内に沸き起こる感情を表に出さないよう、必死で押し殺した。
病室に戻りドアを開くと、ベッドの上に座り窓の外を眺める母親の後姿が目に映って、正はしばし声をかける事を躊躇った。
白いベッドの上に座る母親の姿が、何故かとても、儚く見えたからだ。
ずいぶんと白髪の増えた髪。皺の増えた横顔。細い手足。
こんなに、小さな人だっただろうか。
想いながらどこか切ないような気持ちに捕われ、正は静かに母親の元に歩み寄った。
「光流……帰ったよ」
声をかけると、幸枝は破棄の無い表情で振り返り、「そうかい」と素っ気無い口調で言った。
「ったく……。久しぶりに会ったんだし、心配して駆けつけてきたんだから、ちょっとくらい優しくしてやれよな」
「あの子はあれで良いんだよ。優しく育てたりしたら、ろくな人間になりゃしない」
「まあ……わかるけどさ」
またしても正は苦笑した。
昔から、どんなに怒鳴っても叩いても、ちっともこたえず同じことばかり繰り返す。そんな息子達にどれほど苦労させられたのかと思うと、つくづくこの母親にはかなわないと思う正だった。
「あんたも、早く家に戻りな。今日、子供たち遊びに連れてく約束だったんだろ? あたしは一人でも帰れるからさ」
「またそーいう事言う。こんな時くらい一人で何とかしようとせず、俺らに頼れよな」
「あんた達に面倒見てもらうほど、落ちぶれちゃいないよ!」
噛み付くように言われ、正は苦笑した。
年をとるにつれ、ますます頑なになっていく母親には、心底困ったものだと思う。今回の事にしても、自分の身体をさんざ酷使して限界に到るまで、自分にも光流にもいっさい頼ることのなかった母親だ。しかし人間、誰にでも必ず老いはくる。年々弱ってくる母親にいくら親孝行したくても、当人が辛いことは辛いと素直に頼ってくれなければ、こちらも助けようがないのに。
幼い頃は頼りきりだった母親だが、自分が大人になるにつれ、まるで子供のように見えてくる。
(まったく……)
どこかの誰かとまるで一緒だと心の中で呟いたその時。
「おばあちゃーん!!」
不意に正の子供達が明るい声を放ちながら病室に駆け込んできて、幸枝に抱きつきに行った。
「おお、来てくれたのかい?」
「おばあちゃん、だいじょぶ~?」
大丈夫だよと孫達の頭を撫でる幸枝の顔に、先ほどまでの頑なさは欠片もなく、まるで菩薩そのものの表情だ。
自分達にはさんざ怒鳴り続けてきた母親だが、孫達に怒鳴る声を聞いたことは、まだ一度も無い。
先ほどとはまるで別人みたいな母親を前に、正は心底、申し訳ないような想いにかられた。
(本当は)
怒鳴りたくも、殴りたくも、なかったんだろう。
そうするたびに、本当は、母親自身が誰よりも傷ついていたに違いない。
力一杯孫たちを抱きしめる母親を前に、本当はずっとこうしたかったのだろうと、正は思う。
抱きしめて、キスをして、愛しさのままにずっと守り続けていられたら、それはどんなに……。
「こらこら、おばあちゃんまだ調子悪いんだから、おとなしくしてなさい。それにここは病院なんだから、騒いじゃだめ。他の人に迷惑でしょう?」
心のままに騒ぐ子供達を、正の妻が叱りつける。
途端につまらなそうに大人しくなる子供達を前に、幸枝が静かに微笑んだ。
「来てくれてありがとうね。すぐ帰れるから、帰ったらおばあちゃんとたくさん遊ぼう」
「うん!」
また嬉しそうに満面の笑顔を浮かべる子供達を、正もまた穏やかな笑みを浮かべながら、愛しい家族達を見つめた。
もう絶対に絶対に看病なんかしてやんねぇ。
しつこく怒りながら家のドアを開けた光流は、看病なんかしてやんないけど一言なにか言ってやんなきゃ気が済まねぇと思いつつ、忍の元に足を向ける。
寝室のドアを開こうとドアノブに手をかけた瞬間に、反対側からドアが開き、光流は派手にドアに顔をぶつけて蛙が潰れたような声をあげた。
「あ……光流先輩、ごめん! 帰ってたの?」
額を抑え呻きながら座り込む光流に、瞬が慌てて声をかけた。
「お母さん、大丈夫だった?」
「ああ……問題ねぇ」
光流は一通り悶えるとすっくと立ち上がり、瞬の質問に答えながら、気になって仕方ないように隙間から寝室を覗きこむ。
「じゃあ良かった。忍先輩なら、ぐっすり寝てるから大丈夫だよ」
「べ、別に、心配してねーよっ。ただの風邪だろ!?」
「風邪は万病の元。どうしても放って行かなきゃならない用事あるなら、僕のこと呼んでくれたら良かったのに」
瞬が怒りを含んだ瞳で光流を見据える。光流はうっと言葉を詰まらせた。
「でも、おまえだって忙しいだろうし……わざわざ呼ぶほどの事でも……」
「忙しいか忙しくないか、呼ばれて行くか行かないかは、僕が決めることだから。無理なら無理って言うし、行きたいなら何がなんでも行く。だから変な遠慮しないで、次からはちゃんと頼ってよね!?」
「……わ、わーったよ! ……助かった、ありがとな」
「はい」
ぶっきらぼうに言う光流に、瞬はにっこり微笑みながら頷いた。
「で、忍は……」
「お薬効いたみたいで、熱も下がったよ」
その言葉に、光流は安堵したように顔を緩ませた。
「後は光流先輩、頑張ってね。ばいばい」
「あ……ああ、ありがとな!」
「ううん、楽しかったし。じゃあ、またね~!」
ひらひらと手を振って去っていく瞬を見送りながら、あいつも相変わらずけっこう世話好きだよなと感心しつつ、忍の元へ向かう光流であった。
ぐっすり眠る忍の額にそっと手をあてると、熱はすっかり下がっていて、途端に光流は気持ちが和らぐのを感じた。
細い髪がさらりと流れて、長い睫が小さく揺れる。その安らかな寝顔を見ていたら、どうしようもなく愛しさばかりが募っていく。もう二度と看病なんかしてやらないなんて、どうして思えたんだろうと、苦しくなるくらいに。
(やっぱり……)
いつだって、惚れた方が負けなんだ。
そう思いながら、光流はそっと、忍の額に口付けた。
刹那、忍の肩がピクリと動き、瞳がゆっくりと開かれる。
「……大丈夫か?」
うつろな瞳に問いかけると、忍は穏やかな表情で光流を見つめた。
「母親は、どうだった?」
「ぜんぜん元気だった。逆に怒られたし。早くおまえの看病しに行けって」
「……相変わらずだな」
クスリと静かに笑う忍を、光流は切なげな表情で見つめた。
そしてそっと、忍の胸に額を寄せる。どこか元気のない光流の雰囲気を察し、忍はその柔らかい髪に指を絡ませた。
「どうしたんだ?」
忍が尋ねると、光流はずいぶんの間を置いて、ふっと苦笑した。
「同じこと、聞くなよな」
光流は可笑しいような口調でそう言うと、返事を待たずに忍の唇に唇を重ねた。
軽く触れるだけのキスをして唇を離すと、忍は眉間に皺を寄せる。
「移るぞ」
「かまわねーよ」
光流は穏やかな表情でそう言うと、忍の肩を掴んで押し倒し、もう一度その唇を塞いだ。
先ほどとは違う、深いキス。絡んでくる舌はいつもより少し熱くて、無理させちゃいけないと思いながらも、止まらなかった。
どうしてこんなにも、愛しさばかりが募ってくるのだろう。触れているだけで、目には見えなかった優しさが伝わってくる。
「……っ……、もう……」
「辛い?」
首筋に口付け、背筋のラインを指でなぞっていると、忍がやや苦しげに身を捩る。本気で嫌がっているなら、すぐにやめようと思っていたけれど、瞳を見つめれば、そこに嫌悪は微塵も無かった。
少し朱色に染まった頬や、乱れる息遣いに、胸の内が酷く疼く。溢れてくる心が止まらない。理性が全て吹き飛ぶような、そんな表情を見せる忍が悪いんだ。無自覚に誘惑してくる忍の裸体に指を這わせながら、光流はもう自分を抑えることなど出来なかった。
「は……っ、ぁ……」
熱に浮かされるように、忍の身体が熱くなり、こめかみから汗が流れる。ぎゅっと閉じられた瞳の隙間に涙が滲む。光流は濡れた先端を指先でくすぐりながら、硬く尖った胸の突起を舌で弄んだ。
感じる度に、忍の身体がピクリと震える。知り尽くした性感帯を余すことなく刺激する。忘我した忍の瞳を見つめれば、下半身に熱が集中して、オーガズムにも似た高揚感に包まれた。
「あ……あ……、…ん……っ」
忍は光流の首に腕を回し、導かれるままに性を放った。
ビクビクと震える体を、光流は力一杯抱きしめる。忍のそんな声を聴いているだけで、一緒に達してしまいそうなほどに胸の内が高まる。
息を乱す忍の、汗で額に張り付いた前髪を、光流はそっとかきあげた。
「すっげー汗」
無理させたかもしれないとと、やや後悔しながら、光流はその額に唇を寄せた。
忍がくすぐったいように目を閉じる。
幸福感ばかりを感じながら、光流は忍の胸に幼子のように顔を寄せた。
「忍……ありがとな」
「何が?」
そっと光流の髪を撫でながら、忍が尋ねる。
さりげない優しさが、酷く胸に沁みて、光流は泣きたいような想いに捕われた。
「いや……俺、幸せだなって……」
囁くような声で、光流は応える。
不意に、正の言葉が思い出された。
『そーいうの、似たもの親子って言うんだよ』
また、無性に泣きたいような気持ちになる。
血なんて、繋がっていないはずなのに。
本当の親子なんかじゃないのに。
そんな形に囚われずに、今、自分が誰よりも幸福だと思えるのは。
最初から繋がりなんて何もないこの手が、あまりにも優しく撫でてくれるから。
ただどうしようもなく、泣きたくなるんだ。
「このまま一緒に寝ていい?」
「……看病は断る」
「またそーいう強がり言う。大丈夫! 俺がついてる!!」
がばっと起き上がり、最近になってまたLINE上で流行りだした台詞を口にする光流に、忍は途端に目をすわらせた。
「おまえがついててもどうにもならん。逆に悪化するだけだ」
非常に強気な態度でつれない忍を前に、がっくりと肩を落とす光流なのであった。 |
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