絆

 

  デスクの上に山のように積みあがった書類や本を前に、東城朝美は小さくため息をついた。
 まず散らばった書類を一まとめにし、再度ため息をつく。無駄だと解っていても、ついつい手が伸びてしまう自分に嫌気がさしたその時、事務所のチャイムが鳴り響いた。朝美は片付け途中のデスクから離れ、ドアに向かう。
「はい」
そっと扉を開くと、扉の向こうには、スーツに身を包み、眼鏡の奥に凛とした眼差しを宿した一人の青年が立っていた。
「……ご相談、ですか?」
 朝美が怪訝そうに尋ねると、青年は人当たりの良い柔らかい微笑を浮かべた。



 今日はずいぶんと手間取ってしまった。
 予定より大幅に遅れ、依頼人の元から事務所に戻った忍は、若干の反省をしながら事務所の扉を開く。戻ってから処理しようと思っていた作業は明日に回し、今日はもう帰ろう。そう頭の中で予定を組み立てていた忍は、事務員である朝美と共に談笑していた見知らぬ男を前に、やや嫌な予感を覚えた。
 しかし青年と視線が合ったと同時に、静かに笑みを浮かべて会釈をした。青年もまた、眼鏡越しの穏やかな瞳を忍に向ける。
「手塚先生、お帰りなさい。今日は珍しく遅いですね」
 時計の時刻は既に十八時を回っている。いつもならこの一時間は早い戻りが常の忍に、朝美は気遣った瞳を向けた。
「ああ、少し話が長引いてしまって。ところで……彼は?」
 忍は大丈夫だからと優しさを含んだ声色で言うと、相談者用のソファーに座る青年に目を向けた。それとほぼ同時に青年が立ち上がり、忍に歩み寄る。
「はじめまして、中野圭介と申します」
 青年はよく通る低めの声でそう言うと微笑んだ。眼鏡の奥の黒目がちの瞳を忍はまっすぐに見つめ、それから彼と同じように柔らかい笑みを浮かべた。



同じくらいの背丈、質の良い眼鏡、端正な顔立ち、しっかり整えられた黒髪に上等なスーツ。綺麗に伸びた背筋と、物腰の良い上品な歩き方。年も、そう変わらないだろう。
しかし、何故?
そんな疑問が忍の頭から離れない。
「離婚調停……ですか」
「そんなに難しい案件ではないから、すぐに済みそうだけれどね」
「でも、どうしてこの事務所なんでしょうね」
 自分と同じ疑問を抱いているであろう朝美に、忍はやや苦笑する。お世辞にも評判が良いとは言えないこの事務所の創立者の娘であるにも関わらず、遠慮のない不躾な物言い。賢い娘ではあるが、まだ二十代前半の若さだ。おまけに父親とは今一反りが合っていない。父親への反発心から来る言葉でもあることを理解している忍は、「そうだね」と当たり障りのない言葉を返した。
「朝美ちゃん、先生はどこへ?」
「知りません。どうせまた寄り道して、公園のホームレスとでも飲んでるんですよ」
「仕方のない人だね」
 忍はまたクスリと小さく微笑んでから、綺麗に整理された自分のデスクとは対象的な、事務所の経営者のデスクに仕方ないような瞳を向け、帰り支度を整えた。




 朝美の言葉は見事に当たっており、忍が自宅に帰る途中、ついでに寄った公園にはホームレスに混じりよく見知った顔があり、忍はふぅと一つため息をついてから、ホームレスの群れに足を向けた。
「先生」
 完全に酔いが回り下品な笑い声をあげる男達の群れに混じった一人の男が、忍の声に気づいて顔をあげた。
「あー……?」
 元の顔つきは整っている部類に入るであろうが、無精髭と酔ったうつろな瞳のおかげで、まるでホームレスと見分けのつかないその男は、忍の顔を見るなりどこか嬉しげに口元を緩ませた。
「朝美ちゃんが心配していますよ。そろそろお開きにして下さい」
「わかった、わかってるって。まあいいから、おまえもちょっと付き合えや」
 安いくたびれたスーツに身を包んでホームレス達と飲んだくれていた男は、少しうるさそうにそう言って、忍の腕を掴んで強引に横に座らせる。
「今日は、帰ります」
 しかし忍は男にはっきりとそう告げると、そっと男の手を引き離し、立ち上がった。
 気にせずホームレス達と実に楽しそうに酒を酌み交わす男に、諦めたような視線を向け、忍は彼らに背を向けた。




 『東城法律事務所』
 忍がこの事務所に雇われてから、もうどれくらいの時間が流れただろう。
「……どうかしたのかい?」
 黙々と書類を整理する怜悧な横顔を前に、朝美は声をかけられた途端にハッとした。思わず見惚れてしまっていた自分に焦り、顔を赤くしながら手に持っていたお茶を忍のデスクの上に置く。慌ててしまったせいで、雫が飛んで書類にしみを作った。
「す、すみません……!」
「ああ、構わないよ。コピーだから」
 優しい口調で言われ、朝美の頬がますます紅潮する。
 一通り書類仕事を終え、綺麗にファイルにしまって引き出しの中に片付けてから立ち上がる忍を前に、朝美は尋ねた。
「今日は、もう帰られるんですか?」
「先日の依頼人と約束しててね。少し話をしてから、そのまま帰るよ。じゃあ、また明日」
「お疲れ様でした」
 朝美は笑顔で忍を見送り、扉が閉まる音を聞いてから、緊張の糸が解れたように小さく息をついた。
 時計の時刻は十六時三十分。いつもいつも、見事に無駄に仕事をしない人だわ。朝美はただひたすら感心する。その妙に冷めた心とは裏腹に、どこか寂しさが宿る瞳を父親のデスクに向けた。
(相変わらず、なんの為にあるのか解らないデスクね……)
 いっそのこと、窓から投げ捨ててやりたいくらいだとすら思った。
 そうしたら、あの男も少しは嘆いたりするのかしら。そう心の中で毒づいて、また無駄なことだと悟った。
 何年前のものになるのか、要るのか要らないのかも解らない書類が散らばる机とは対照的な、綺麗に整理された忍のデスクに目をむける。近づいて、そっと机の上に手を触れる。朝美はやや躊躇った後、つい先程までデスクの主が座っていた椅子に腰を下ろした。そうして疲れたように、デスクの上に上半身を預ける。すると何故だか泣きたくなるような想いにかられて、朝美は組んだ両腕に顔を埋めた。



 
 手塚忍。どうして彼ほどの人間がこんな場所に居続けるのか、彼と出会ってから数年経った今も、朝美にはまるで理解できないでいる。
 初めて彼を目前にした時、朝美はまだ制服に身を包む高校生だった。
 一回りも年上の男性とは思えないほど若く端正な顔立ちに、優雅な物腰、上品な喋り方。豊富な知識。隅々まで行き届いた紳士的な気遣い。そして……優しい微笑み。
 それまで三十代の男性なんてただのおじさんというイメージしかない初心な少女だった朝美の瞳に、忍はまるで別世界からやってきたような人間に映った。だからこそ、何故こんなろくでもない父親が経営する、依頼人もろくに来ないような寂れた事務所に彼が就職を決めたのかも甚だ疑問で仕方なく、おまけに彼はとてつもなく優秀な弁護士であったから、なおさら納得できないままでいる。
 どうして。何故。解らない。何度そう尋ねても、彼はいつも静かに微笑むばかり。
 少しも収入にならないような弁護ばかり引き受けては、毎日現実逃避するように酒に溺れる父親。この事務所が今ようやく正常に保たれているのは、全て忍のおかげと言っても過言ではない。それならばいっそ、こんな事務所などさっさと捨てて独立すれば良いのに。そう思わずにはいられなくて、実際、何度もそうしないのかと尋ねたけれど、彼はいまだここに居座り続け、少しも出て行く気配はない。
(どうして……?)
 幾度目になるか解らない疑問を、朝美は頭の中で繰り返した。
 出て行って欲しくなんかないと。ずっとここにいて欲しいと。そう思いながら、ここに居られることが苦しい。
どんなに想っても想い続けても、彼に決してこの想いが届くことはない事を、朝美は知っていた。




 待ち合わせ場所のホテルのラウンジ。
 既にその場にいた中野圭介に歩み寄り、忍は「お待たせしました」と小さく声をかけた。
「すみません先生、わざわざお呼びたてしてしまって」
 圭介が気さくな笑顔を忍に向ける。
「いいえ、仕事ですから」
 忍は圭介の向かい側のソファーに腰を下ろすと、隙のない笑顔を彼に向けた。
「早速ですが、依頼内容について詳しくお聞かせ願えますか?」
「ええ……実は、僕の弁護ではなく、甥っ子の弁護を頼みたいのですよ」
「それは、どういう?」
「お恥ずかしい話ですが、高校生の甥が同級生の女生徒へ暴行事件を起こしまして、なんとか事件を揉み消したいのですが、どうにも不利な状況でして」
 不意に、それまで好青年であった圭介の顔が、一気に怜悧なものへと変化した。
「何故、その依頼を僕に?」
しかし忍は何ら動揺することなく、あくまで冷静に尋ね返す。
「先生ならば、確実に勝訴に持ち込んでくれるはずだと思いましてね」
 圭介は自信に満ちた瞳で、忍をまっすぐに見据えた。
「僕はごく小さな事件しか扱わない事務所の下っ端です。そのような物件でしたら、他にいくらでも優秀な弁護士が雇えるはずですよ、貴方ならば」
「ずいぶんと、ご謙遜を。貴方ほどの優秀な弁護士を、僕は知りませんよ。その貴方が、なぜあのようなつまらない事務所に所属しているかは、甚だ疑問ですが」
 表面上は穏やかな会話だが、二人の間の空気はぴりぴりと張り詰めている。互いに「同類」だということは、初めて会った時から百も承知していたように、二人は本性を表すことを躊躇わない。
「報酬は、お望み通りに」
「お断りします」
 忍はきっぱりと言い、腰をあげ圭介に背を向けた。
「東城辰巳。ずいぶんと、問題のある弁護士のようですね」
 圭介が若干声を張り上げた。忍の足がピタリと止まる。
「貴方の仰る通り、あの事務所一つ消すことも、僕には造作のない事だ。それでも断りますか?」
 極めて冷酷な笑みを浮かべる圭介を、忍は鋭い視線で見つめながらも、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。



『俺はな、手塚。いつでも「人間」の味方でありてぇんだ』



 忘れられない辰巳の言葉を頭の中で反芻させ、忍は表情に暗さばかりを宿し、頭の中では最低の嘘ばかりを並べ立てる。
 守るためには捨てなければならないものもある。そんなこと、もうとうの昔に知っているのに、いまだ割り切ることができない己の弱さにただ嫌悪ばかりを感じる。捨てきれない誇りは、誰のためでもない自分のためだけのものだ。本当に守りたいと思うならば、切り捨てるんだ。例えどんなに惨めな想いや罪悪感に苛まれても、本当に守りたいと思うならば。
「手塚先生……何かあったんですか?」
 不意にどこか不安げな表情で朝美に尋ねられ、忍はハッと目を見開いた。即座に混沌としていた気持ちを立て直し、静かな表情を朝美に向ける。
「今日は、先生は?」
「……例のホームレスの弁護に」
 朝美の表情が暗くなった。
「そう。大丈夫だよ、先生ならきっと勝つ」
「勝ったところで、何になるって言うんですか……」
 朝美がぽつりと呟いた。憤りを隠せないその表情に、忍は神妙な瞳を向ける。
 今、どんな言葉を口にしたところで、彼女の心には届かないだろう。そう判断した忍は、そっと朝美の肩に手を置いた。朝美がやや驚いたように目を開き、顔を上げて忍を見つめる。
「いつか解る時が来る」
 忍は穏やかな声でそう言うと、朝美に背を向け事務所を後にした。




(よく似てるな)
 朝美の顔を思い出し、そう心の中で呟きながら、忍は例の依頼を片付けるため法廷へと足を向けた。
 中野圭介の甥が起こした暴行事件、調べたところ少年側の悪質な遊びで、少女側には何の非もない事件。それでも、少年の罪を軽くすべく口八丁の弁護を並び立てて少年を弁護しなければならない身だ。むろん引き受けた以上、勝つつもりではいるが、楽しい仕事でないことだけは確かで。
『勝ったところで、何になるって言うんですか……』
 不意に朝美の言葉を思い出す。
 忍は苦笑した。この弁護に勝って膨大な額の報酬を得るよりも、報酬はゼロに近くとも何の非もない力無きホームレスを助けることに成功した辰巳の方が、いったい何倍もの誇らしさを胸に抱えられるだろう。それが金銭を得るよりもずっと己の財産になることを、今の朝美にまだ理解できるはずがない。それでなくとも彼女は、辰巳の自己犠牲とも言える奉仕の精神によって、幼い頃から母親と共にさんざ苦労させられ、あげく母親を過労で失っているのだ。彼女が父親を許せない気持ちも、本当はどうしようもなく父親からの愛を得たがっていることも、今の反発心が全て父親への執着から来るものだということも、忍には痛いほどよく解っていたから、今はまだ彼女に何も言うことは出来なかった。上辺だけの奇麗事で納得できるのならば、彼女とてとうに父親とは和解している。同じくらいの愛情と憎しみが彼女の心の中で渦巻いているからこそ、答えが出せず苦悩するのだ。
 今はただ、見守ろう。
 いずれ時が全てを解決してくれる。そう信じるより他はなく、こんな時、あいつだったらどうするだろう。今日も荒んだ少年少女達のために全力で仕事に励んでいるであろう恋人の顔を思い出し、忍は緩やかに微笑んだ。





「本当に助かりました、先生。やはり貴方は、素晴らしい弁護士だ」
 見事な手腕で甥っ子の事件を片付けてくれた忍を前に、中野圭介は上っ面ばかりのお世辞を並べ立てる。
 くだらない。忍は心の中で悪態ばかりをつきながら、彼に負けないほど上っ面ばかりの笑みを浮かべた。
「いいえ、お役に立てて何よりです」
 高級料亭の一室で用意された食事の後、忍は圭介ににっこりと微笑みかけ、目の前の日本茶に手を伸ばした。一口すすり、そっと湯飲みをテーブルに置く。
 わずかな沈黙の後、忍は静かに立ち上がった。
「それでは、失礼します」
「……もう少し、ゆっくりなされたらいかがですか? それにまだ、貴方にお話したいことがある」 
 圭介が引き止めるように言った。
「申し訳ありませんが、今後いっさい弁護を引き受ける気はありません」
 話を持ちかけられるより先に、忍は防御線を張った。
 そんな忍に、圭介はふっと微笑する。
「何故です? 貴方はあんな小さな場所で埋もれているような人間ではないはずだ」
「小さくない場所など、どこにもありませんよ」
 忍の言葉に、圭介はぴくりと眉を動かした。
「僕もまた、井の中の蛙だと?」
「解っているなら話は早い」
 突如、忍は鋭く冷徹な視線を圭介に向けた。
 まるで射るようは眼差しに、圭介が一瞬、何かに気付いたかのように目を見張った。
「どういうつもりだ。……円城寺」
 忍が低い声で漏らした台詞に、圭介は初めて動揺を見せ、身体を硬直させた。
 しかしすぐに立て直し、警戒心を宿した鋭い眼差しを忍に向ける。
「知って……おられたのですか? いつから?」
「この俺が、おまえの入れた茶の味を忘れるわけがなかろう?」
 自信と抑圧に満ちた声。圭介……いや、円城寺聡は、テーブルの上に組んだ手をわずかに震わせた。
「そう……ですか」
「おまえがどういうつもりで俺に近づいたかは追求しない。だが、今回限りだ。二度と俺の前に姿を見せるな」
 忍は完全に蔑んだ瞳と口調でそう言うと、円城寺に背を向ける。しかし一歩足を踏み出した刹那、忍は突然に立ちくらみを感じて襖に手をついた。唐突に視界が回る。こらえきれず畳の上に膝をつくと、円城寺がゆっくりと立ち上がり、忍のそばに歩み寄った。
「だからですか? 僕の入れたお茶を、疑うことなく口にしたのは」
「貴様……っ」
 円城寺は忍の横に膝をつくと、不覚をとったといわんばかりに睨みつけてくる忍を冷徹に見下ろす。
 突然、円城寺の手が忍の肩を掴んだ。力強い手で押し倒され、忍が畳に背をつく。茶に盛られた薬のせいで、少しも身体に力が入らないまま、忍は鋭い視線を目の前の男に向けた。
「ずっと……ずっと、貴方を探していました。……会長」
 酷く懐かしい響き。そう呼ばれるのは何年ぶりであろう。
 高校時代、彼は緑都学園の生徒会役員であり、二年という月日の間、常に忍の腹心であった。
 高校を卒業してからも、一年遅れで同じ大学に入学してきた彼は、高校時代と変わらず常に忍の支配下にあった。頑なで潔癖で忠実で、自分の言うことにはいっさい逆らうことのなかった彼が、何故今頃になって目前に現れたのか、忍は朦朧とする意識の中で息を呑む。
「もう……逃がさない」
 黒く鋭い眼差しが忍を捕らえたと同時に唇を奪われ、忍は眉をしかめ硬く瞳を閉じた。


「やめ……っ、ろ……!」
 慣れた手つきでネクタイを外される。乱れたシャツの隙間から白い素肌が露になる。
 彼が何をしようとしているのか、忍はすぐに理解した。けれど、彼はこんなことが出来る男では無かったはずだ。いつでも忍の言うことに一切逆らわず、機会仕掛けの人形よりも忠実であった彼。いや、だからなのか。どうにか意識を保ちながら、忍は力の篭らない手で抵抗を試みる。しかし強く手首を掴まれ畳の上に押し付けられ、首筋に熱い息がかかった。
「……っ………!」
 ベルトが外され、円城寺の指が忍の自身に絡んだ。思いがけない刺激に、忍が屈辱を露に唇を噛み締める。それでも抵抗は叶わない。円城寺は額に汗を滲ませ、もはや熱情を止めることは叶わない顔つきのまま、性急に忍の衣服を剥ぎ取った。整えられた黒髪が乱れ、眼鏡の奥の瞳が熱くなる。
「今、やっと解りました。僕は、ずっと貴方のこんな顔が見てみたかったんだ……」
 ぎゅっと目を閉じ快楽に翻弄される忍の表情を見下ろしながら、円城寺は恍惚とした表情で言った。積もり積もった憎しみと愛情。それらが表裏一体となって彼を支配し狂わせている。必死で閉ざしていた全ての感情が噴き出して、彼の世界の全てを破壊する。忍はもはや彼を止めることは不可能だと悟った。
 円城寺が忍の膝裏に手を当て足を開き、反応を示す忍の自身を口に含んだ。無我夢中で舌を使い、愛撫をする。忍の唇から吐息が漏れ、更にきつく瞳が閉じられる。
「………く…っ…」
 決して声は出すまいと、ぎゅっと口を閉じた忍の瞳に、涙が滲む。全身が一瞬大きく痙攣したかと思うと、忍は円城寺の咥内に快楽の証を解き放った。
 額に汗を流し息を乱す忍の精液を全て飲み干し、円城寺は忍の頬を両手で包み込み、苦悩と切なさに満ちた瞳で、呼吸を整えようと息をする忍を見下ろす。
「僕に犯されるのは、どんな気分ですか?」
 欲望に満ちた瞳。そこにあるのは、歓喜と、支配と、最高のエクスタシー。円城寺の唇が忍の唇を覆い、激しく舌を絡ませる。
あまりの激しさに忍が苦しげに眉を寄せ、円城寺の唇に歯をたてた。突然に噛み付かれ、円城寺がようやく唇を離す。口の端から血が滲んだ。
「誰が……貴様ごときに……っ」
 忍は決して屈辱を露にしない、誇りに満ちた瞳で円城寺を見据える。
 円城寺はその瞳に一瞬怯みながらも、強い意志の篭った表情を崩さなかった。
「そう……そうですね、貴方にとって僕はいつでも、「物」でしかなかった……」
 憎しみすら篭った声色でそう言うと、円城寺は忍の胸の突起を強く摘む。忍が苦痛に表情を歪めた。
「初めて会った時から、僕はあんなにもあなたに尽くしたのに……あなたに全てを捧げたのに、貴方は最後まで僕を見てはくれなかった……。それがどれほどの苦しみだったか、貴方に解りますか……?」
 許さない。絶対に。そう瞳が物語る。そのあまりの気迫に、忍は一瞬抵抗を忘れた。
「貴方が少しも僕を見ていないことくらい、ずっと昔から知っていた。それでもいつかはきっと見てくれる。気づいてくれる。ずっと、ずっとそう信じて、待って、待ち続けて……!! それなのに貴方は、あっさりと僕を捨てた。僕に何一つ告げず突然に姿を消したあの日から、僕がどれほど貴方を探し続けていたか……貴方は知らないでしょう……?」
 狂気すら宿したその瞳が、彼の凄まじいまでの執着を証明していた。
 再び唇が重なってくる。激しい口付け。忍は苦痛に眉を寄せ、円城寺の腕に爪を立てた。


 知っていた。いや、彼があの頃どれほど自分に身を捧げていたか、知っていたつもりで知らなかったのかもしれない。
 ただこの男ならば何があっても自分を絶対に裏切る事がないことだけは、心のどこかで確信していてた。だからこそ誰よりも信頼を寄せ、躊躇うことなく欲望を押し付け、醜さを曝け出し、与えられるものは当然のように躊躇うことなく受け取っていた。そうして無意識の内にずっと甘えていたのだと、今になって知っても時は遅すぎた。胸の内に秘める情が熱く深ければ深いほど、捧げる愛情もまた狂気にも似た熱さなのだと、誰より一番よく知っていたはずなのに。


「あ……!!!」
 熱い塊が内部に無理やりに押し入る。激しく揺さぶられ、忍は苦痛に顔を歪ませながら、円城寺の背に爪をたてた。
「痛い……ですか? けれど、僕がずっと持ち続けた痛みはこんなものじゃない……!」
 一体どれほどの間、彼は待ち続けたのだろう。どれほどの苦しみを胸に抱きながら、探し続けたのだろう。愛が狂気に変わるには十分な時間のはずだった。
「い……っ……、ぁ……あ……!」
 身体が真っ二つに引き裂かれるような苦痛の中、しかし身体よりも心が痛む。
 
 塞がっていたはずの傷口が広がっていく。噴き出して、溢れて、体の隅々まで侵食していく。

(罰だ)
 
 ずっと、利用していた。
 自分のために。
 己の混沌に巻き込み、利用し、何もかも奪い続けて。

(だから……当然の……)

 報いなのだと、忍は自分に言い聞かせる。
 体が真っ二つに切り裂かれるような痛みに苛まれながら、忍は真っ暗な闇に意識を投じた。



『会長、少しお休みになられてはいかがでしょう』
 
 記憶が蘇る。

 思い出せばいつも隣に、彼の姿はあった。

 それなのに。

『忍』

 求めていたものは、いつも一つだった。

 必死で求めて求めて手を伸ばして、本当に欲しがって叫んでいたものは、いつも溢れるほど多くすぐ近くにあったのだと、気づかないままに。



 暖かい手の感触に導かれ、忍はゆっくりと瞳を開いた。ぼんやりとした視界に人影が映る。
「光流……?」
 呼ぶと同時に、自分の額に当てられていた手がピタリと止まった。
 「相変わらずですね、会長」
 目の前で、円城寺が緩やかに微笑む。先程までとは別人のように。
 何故だろう、この手を酷く懐かしいと感じたのは。忍はぼんやりとした意識のまま、よく見れば少しも変わってはいない円城寺の瞳を見つめる。
 彼もまた、ずっと、見ていた。そして、待っていた。その心に気づくには、あの頃の自分はあまりにも未成熟すぎた。
「謝ったりは、しませんよ。貴方にも、「彼」にも……」
 穏やかで、しかし揺ぎ無い瞳で円城寺は言った。
昔から、賢く芯が強く責任感に溢れた、誰よりも純粋で誇り高く、愛情深い男だった。だからこそ、忍は彼を「選んだ」のだ。
思い出して、忍は失笑した。
「おまえも変わらないな……。さすがと言うべきかな」
「……褒め言葉と受け取っておきます」
 円城寺は静かにそう言うと、忍の瞳をまっすぐに見つめ、もう一度その額に手を当てた。
 酷く切なく、そして愛情に満ちた手の温もり。円城寺の瞳が忍を見据える。
「これでようやく、終わりにできます。……さようなら、会長」
 そうしてかつてのような混じりけの無い瞳を忍に向けると、円城寺は立ち上がり、そっと襖を開いて部屋を後にした。


 
  静かな部屋の中、忍は空虚な瞳で天井を見上げる。
 当分は動けそうになかった。

 だから今はもう少しだけ、全てに守られていたあの頃の、幸福な夢を。

 閉じた瞳から涙が一粒、こめかみに伝った。





「もう、お父さんたら……!!」
 事務所の前で酔いつぶれる父親の腕を肩にかけ、必死で移動させようとするものの、大の男をそう簡単に運べるはずもなく苦戦する。朝美はもう全てを投げ出したい想いで、それでも懸命に力を振り絞った。
 すると突然、重すぎた肩がふっと軽くなり、朝美は目を見開いた。
「しっかりして下さい、先生」
 頭上から届いた声に、朝美は驚きと共に酷く安堵を覚え、今すぐにでも泣き出したい想いにかられた。
 しかし、父親を支えながら事務所に入っていく忍の後姿を見つめ、急ぎ足で後を追いかける。
「すみません、手塚先生……。もう! お父さん! しっかりしてよお願いだから!!!」
 事務所のソファーの上でだらしなく眠る父親と、介抱する忍を前に、朝美は酷く申し訳なさそうに落胆しながら忍に謝罪し、それから父親の肩をバシッと叩いた。
 情けなさや悔しさ、腹立たしさでいっぱいの表情をした朝美に、忍はあくまで落ち着いた表情を向け立ち上がった。
「放っておくといいよ」
 忍がそう言って辰巳から離れると、朝美は戸惑いがちな瞳を忍に向けた。
「でも……!」
「君が謝ることじゃないから」
 忍がきっぱりした口調でそう言うと、朝美はようやく少し落ち着きを取り戻した。
「本当に、すみません……」
 しかし、やはり申し訳なさそうな顔ばかりする朝美に、忍はそれ以上は何も言わなかった。

 

 いっそ泣かせてやれば、少しは救いになるのだろうか。
 そうも思ったが、やはりそれでは意味がない。どれだけ泣いて喚いて感情を爆発させようが、彼女が自分自身の問題に気づいて変わろうとしない限り、決して父親への責任感や執着から逃れることは出来ないのだから。
 そんなことは解りきっているのに、理性も忘れて手を差し伸べてやりたくなるほどに人が愛しくなればなるほど、忍もまた彼女と同じように、決して無くすことの出来ない人の心に苦しめられる。
 いっそ煩わしい感情など全て捨て去って、ロボットのように静かな心のまま生きることができれば、どんなに楽だろう。
 けれど。

「いつでも「人間」の味方でありてぇんだ」

 強くなりたい。
 今はただ闇雲に、そう思う。


 
 酷く疲れた心のまま自宅に戻った忍は、ソファーの上でスーツ姿のまま爆睡している光流を目前にした途端に、仕方の無い奴だと思いながら起こそうと肩に手をかけた。そして次の瞬間、自分のことに気づかされて思わず苦笑してしまう。
 人に放っておけと言いながら、自分はこの様だ。
 起こそうとした手を止め、代わりにそっと、唇に唇を寄せる。
 触れるだけのキスをすると、光流が静かに目を開いた。そして忍の顔を見るなり、その首に腕をかけ抱き寄せる。まだ半分夢の中にいる光流は、愛しくて仕方ないようにその腕で忍を包み込む。
「……今日、煙草吸う奴と会った?」
「依頼人だ」
 おまえは動物かと言いたくなるような嗅覚の良さに、忍は眉をしかめながら光流から離れた。
 不意に光流のスマートフォンから音が鳴り、光流ががばっと体を起こしてスマホを手にとり画面を見つめた。
「あーーーっ!!! ちくしょーあいつ抜かしやがった!!!!」
 画面を見つめながら、光流が大げさに声をあげた。
 何事かと思えば、どうやらアプリゲームの順位を誰かに抜かされたらしい。一心不乱でゲームを始める光流を前に、忍はひたすら呆れるばかりであった。
「何をそんなにムキになってるんだ」
「だって約束してんだよ! 俺がこのゲームで勝ってる間は、ぜってー悪さしねぇって!」
 どうやら仕事関係で関わっている不良少年との約束事らしい。なんという単純馬鹿だと思いながらも、忍は妙に感心もした。例えくだらないゲームとはいえ、相手が真剣にやっている事ならば、それが何よりの「縛り」になるには違いない。違いないが……。
「いいからとっとと風呂に入って寝ろ」
 忍は即刻で光流からスマホを取り上げると、文句を連ねる光流の顔面に蹴りをくらわせて強引に風呂場に急行させた。
 どうせ最初は賭け事でも、今は自分が楽しくなってやっているに違いないゲームだ。貴重な休息時間を削ってまでのめり込むような事ではない。
(ああ、だからか……)
 ふと忍は気づいた。
 傍から見たら馬鹿馬鹿しくくだらないことでも、彼らは彼らできっと楽しくて仕方ないからこそ、自分ほどは苦痛にもならないのだろう。結局は、価値観が違いすぎるだけのことだ。同じことをしようと思う方が間違っているのかもしれない。
「忍ーーっ! 頼むから返して!!」
 風呂からあがってきて即効でゲームをねだる光流に、忍は目を据わらせ、それから低く声を発した。
「ゲームと俺と、どっちを選ぶんだ?」
 どこか怪しげな瞳でそんな言葉を囁く忍を前に、途端に光流は顔を赤くする。
 それからそっと近づいて、忍の頬に手を寄せ、そっと唇を重ねた。
「……おまえ」
 そう言った光流の瞳は、まるで幼い子供のように澄んでいて、忍はそっと光流の首に腕を回した。



 ずいぶんと、無駄なことばかりを考えすぎているような気がする。
 けれど「楽しい」ことなんて、人によって様々だ。結局は、自分がどうしたいか、どう生きたいのか、どう在りたいのか、そこが問題なのだ。 
「先生、一つ、お聞きしてよろしいですか?」
「あぁ!? んだよおまえはっ。いつになっても堅苦しい奴だな! もーちっとこう軽々と可愛らしく、「先生、これってどう思う~?」とか聞けねぇのかよ?」
 辰巳がしなを作りながら女子高生の物真似をする。まるで子供のようにふざける辰巳を前に、忍は無表情に口を開いた。
「もう良い大人ですから」
 辰巳のからかうような台詞はさらっと流して、忍は尋ねた。
「依存させることは罪だと思いますか?」
 極めて真面目な忍の問いかけに、辰巳は目を据わらせる。
「だからな、いつも言ってるだろ? そーいう難しいこと考えてる暇あるなら、即行動して一人でも多くの人間を助けてやれっつの。だからおめーはいつまで経っても一人じゃ何も決められないボンボンだっつんだよ。だいたい依存だのなんだの……」
 いつものごとく延々と始まった、自分の言葉に酔っているだけの説教を右から左へ聞き流しながら、忍は自分なりに納得のいく答えを導き出す。
 どう考えても答えが出ない問題なら、辰巳の言う通り、やるだけやってみるしかないのかもしれない。
「おいっ、聞いてんのかてめーはっ!!」
「もちろんです」
 にっこり微笑む忍を前に、思い切り目を据わらせる辰巳であった。



 ホテルのラウンジのソファーに座り、カチリと音を鳴らしたライターで煙草の火をつけた円城寺の瞳が、目の前に現れた人物によって驚愕に満ちる。
「会長……」
 円城寺は火をつけたばかりの煙草を目の前の灰皿に押し付け、ソファーから立ち上がった。
 忍が怜悧な顔つきのまま、円城寺の元に歩み寄る。
 まさか再度自分のもとに姿を現すとは夢にも思っていなかったらしい円城寺は、忍を前に、ただ戸惑いの色ばかりを瞳に浮かべた。
「ちょうど良いところで会った。事務所まで送ってくれ」 
 そんな彼に、忍は高校時代と変わらぬ威圧感を持った口調で、まるで当然のことのように言った。



 事務所まで向かう車の中、忍は一言も口を開くことはなく、円城寺もまた無言で車を走らせた。
 緊張感ばかりが張り詰める車内の中、円城寺はハンドルを握った手にやけに力が篭るのを感じる。長年の想い人を隣にして、緊張するなという方が無理な話だ。それに加え先日、復讐とばかりに大きな傷を負わせた相手。報復を恐れているわけではなかったが、忍の心中がまるで読めない円城寺には、その時間は酷く重圧的で苦痛なものであった。
 ずいぶんと長く感じる時間の中、ようやく東城法律事務所の前に車を停める。
「……着きました」
 忍と視線は合わさないまま、円城寺が低い声を放った。
「ああ、助かったよ。ありがとう」
 忍はやはり高校時代と何一つ変わらない口調でそう言うと、車の扉に手をかけたが、忍が開けるより先に、急ぎ足で車から降りた円城寺がそのドアを開いた。忍はふっと微笑した。
「それでは、失礼します」
 姿勢良く一礼する円城寺に背を向け、忍は事務所に足を向けた。しかし次の瞬間、忍の足がピタリと止まり、見送っていた円城寺を振り返った。
 円城寺が何事かと不審な表情をしたその時、忍の手から何かが放られた。円城寺が慌ててキャッチしたものは、忍のスマートフォンだった。
 ますます不審な表情を見せる円城寺に向かって、忍は不遜に言い放つ。
「おまえの番号、入れておけ」
「え……」
 驚愕の色を見せる円城寺を、忍はまっすぐに見つめた。
 円城寺はわけのわからないままに、しかし逆らうことも出来ず、慌てて忍のスマートフォンのアドレスに自分の番号を登録する。そうして忍にそれを手渡すと、忍は無言で受け取った。
「用があれば電話するから、すぐに来い」
 忍がまるで命令口調で言い放った。
 円城寺の瞳が見開かれる。
 やがて彼は何かを察したかのように、次第に瞳を輝かせていった。
 それは焦がれるものを見つめる眼差し。まるで、初めて言葉を交わしたあの時のように。
「はい……!」
 いつになく力の篭った声で、円城寺は威勢良く返事をした。
 忍はそんな円城寺に即座に背を向け、事務所に足を進める。
 彼が自分の姿が見えなくなるまで見送る、その視線を背後に感じながら。


 

 デスクの前に腰を下ろし、ふぅと小さく息をついた忍の背を、バシッと勢い良く辰巳が叩いた。
「なに、しけた面してんだ? さては恋煩いだろ!?」
 楽しくて仕方ないように言う辰巳と、その言葉を聞いてビクッと肩を揺らした朝美を前に、忍は失笑にも似た笑みを浮かべた。
「そうですね、そうかもしれない」
 この二人を納得させるには妥当な台詞だろうと、忍はやや茶を濁した言葉を放った。
 目の前には、何故か異様に嬉しそうに親指をたてガッツポーズを作る辰巳と、これ以上ないほど落胆した朝美の姿。やはり親子だと感じさせる、非常に素直な感情表現をする二人を前に、忍は作ったものではない笑顔を浮かべた。

 まったく、人間というものは、何て───。

 想いながら、忍はほんの少しの後悔と、それから酷く誇りに満ちた想いで、新しく登録されたスマートフォンの番号を目前にした。

 
 仕方ないから、納得いくまで、面倒見てやる。
 それがかつて多くの恩を受け、今なお誰よりも純粋な想いで慕ってくる彼への、自分なりの責任の取り方ならば。
 何年かかるかも、もしかしたら一生ものになるかも解らないけれど。
 いつか彼が自ら離れられるその時までは、彼の望むままに、目一杯こき使ってやろうか。

 
 忍はまるで少年時代に戻ったかのように悪戯心に満ちた瞳をすると、酷く高揚した気分で目の前の番号を頭の中にインプットさせた。