月光

 


「あ……あっ……!」
 押し寄せてくる快楽の波に呑まれ、女はこらえきれず喘ぎ声をあげ、強く目を閉じる。
 少し荒々しいけれど的確に良いところを刺激してくる男の愛撫は、女にとってずいぶん意外だった。
 男は見た目こそ良いけれど、あまり洒落っ気はなく、いつも笑顔で優しい反面、性に関してはまるで初心だったので、少しからかってやるつもりでほんの気紛れに誘いをかけただけだった。
 けれど粗野ではあるが力強い腕に抱かれた瞬間、女はこれまでにないほど、男に魅力を感じた。
「好き……よ……っ、あなたが好き……っ」
 息を乱しながら女が男の耳元でそう囁いた瞬間、男は女の頭を片手で乱暴に掴み、シーツの上に押し付けた。
「うるせぇ、黙って足だけ開いてろ」
 まるで獣のような男の瞳で見据えられた瞬間、女は恐怖に脅えた目をして、言われるままに口を閉じた。
 少しも女の体など気遣わない、荒々しいだけのセックス。
 男に激しく魅かれながらも、女は生まれて初めて、男という生き物を怖いと感じた。
 ずっと、愛情深い男なのだと思っていた。
 しかし今、この男には、愛情など欠片も無い。
 今この男にあるのは、憎しみにも似た欲望と、壮絶な支配欲だけだ。
 恐ろしい。
 女は心底、そう思った。
 もしもこの男に本気で愛されたら、それは歓喜を遥かに超える恐怖でしかないだろう。
 無理だ、自分にはとても。
 出来うる限り男を刺激しないよう、女はただ男に身を任せた。
 明日からまた、自分はこの男に笑いかけられるのだろうか。
 いや、笑いかけるどころか、もう、目を合わせることも出来ないかもしれない。
 女は激しく揺さぶられながら、どうしようもなく男に魅かれる自分を決して認めてはならないと自分自身に言い聞かせながら、快楽の中に意識を集中させた。
 
 
 いつでも彼は、優しかった。
 繊細な指使い、労わりの言葉、心地良いばかりの愛撫。惜しみなく、何もかも与えてくれる。
 けれど彼女はもう知っていた。
 彼が決して誰をも愛せない、孤独な心の持ち主であることを。
 知りながら、離れられない。
 彼女は彼を愛していた。
「コーヒーでも飲む?」
「ありがとう、いただくよ」
 優しい彼の微笑み。
 彼女は彼に微笑み返した。しかしその瞳には悲しさが宿っている。
 彼の部屋のキッチンに立ち、食器棚を開く。
 ふと、シンプルな食器ばかりが並ぶその奥に、彼の部屋には不似合いな水玉模様のカップが置かれていることに気づき、彼女はそのカップに手を伸ばした。
 瞬間、彼の手が彼女の手にそっと触れ、彼女は思わずビクリと体を震わせた。
「それは使わないでくれるかな」
「え、ええ……分かったわ」
 どうしてかは尋ねられなかった。彼は尋ねる隙を与えてはくれなかった。
 寂しさばかりが胸に募り、彼女はモノトーンのカップにコーヒーを注ぎながら、彼の後姿を見つめる。
 もう、終わりにしよう。
 どんなに愛しても、愛されようとしても、決して彼の心には届かないのだから。
 彼は誰も愛さない。
 ……愛せない。
 一滴の雫がカップの中にこぼれ、黒い液体が螺旋を描いた。
 
 
 月明かりが、やけに眩しい。
 少し肌寒くて、静かすぎる夜。
 最悪な気分のまま、暗い部屋を照らす月を見上げる。
 
 こんな日は、どうしようもなく、思い出す。
 
 おまえが俺を呼ぶ時の、柔らかく響く声。
 俺がおまえを呼ぶ時の、一瞬の高まる鼓動。

 
 おまえが俺を抱きしめる時の、息苦しいほどの熱情。
 俺がおまえを抱きしめる時の、泣きたくなるような幸福感。
 
 
 おまえが俺を見つめる時の、優しさに溢れた眼差し。
 俺がおまえを見つめる時の、溢れてくる愛しさ。
 
 
 キスを交わす瞬間の、不安にも似た切なさ。
 
 指を絡ませ、永遠に離れないと誓う。
 
 熱い抱擁の後の、満たされる全て。

 
 月を眺め、想う。
 
 せめてこの痛みが、自分だけのものであるように。
 
 ただ、祈る。
 
 この月明かりの下で、おまえだけは、幸福に笑っていてくれるように。
 
 
 あの記憶があれば、俺はこれからも生きていけるから。
 
 
 何も無い、空っぽの心でも、生きていける。

 
 だから、どうか。
 
 どうか、おまえだけは幸福であることを。

 
 永遠に、祈り続ける。