DNA

 

 
 立て続けに一週間、早朝から分刻みの仕事をようやく終え、都内のホテルから出て父と共に自宅の所有するベンツに乗り込んだ旭は、窓の外を眺めながら小さくため息をつく

 東京に出てきたのは約ニヶ月ぶりだった。

 一刻も早く長野の自宅に戻りたい旭だったが、どうやら今日も真夜中まで帰れそうにはない。

「こちらでよろしいでしょうか」

「うむ」

 運転手が車を停めたのは、見慣れた古めのアパートから死角に位置する別のアパートの駐車場。

 旭の父、朔太郎は、依然として変わらない仏頂面で、開いた車の窓からアパートを眺める。旭は半ば呆れた想いで、そんな父親を見つめた。

(まったく……)

 これで一体、何度目になるのだろうか。東京に出てくるたび、父は毎回必ず同じ行動を繰り返す。

 ニ年ほど前に勘当という形で家を出た手塚家の三男、つまり自分の弟の身を案じるが故の行動だ。

 忍が自由の身になることを泣く泣く承諾した朔太郎だが、どうやらまだ完全に諦めきれてはいないらしい。

 確かに父の心はわからないではない。あれほど驚異的な才能を持った息子を手離すなど、父にとっては予想だにしなかった出来事だったに違いないし、幼少時から一度も父の命に逆らったことのない忍が、まさか「男と駆け落ち」という理由で父に背を向けるなど、旭でさえいまだに信じられない想いでいるのだから。

「あの……お父さん。お言葉ですが、そんなに忍のことが心配なら、一度会いに行かれてはいかがですか?」

 旭は遠慮がちに朔太郎に声をかける。しかし案の定、仏頂面で無視され、旭はまた深くため息をついた。

 父の元で秘書として働くようになってから随分経つが、やはり昔と変わらず萎縮してしまう自分の不甲斐なさに心底嫌気がさす。けれどもこの厳格な父に向かって軽々しい口を効くことなど、幼い頃からずっと厳格な父に抑え付けられ、常に父の目を気にして生きてきた旭に出来るはずもなかった。

「何か飲み物でも買ってきますね」

 まっすぐな微動だにしない姿勢のまま窓の外を眺め続ける父にそう言い、旭は車を降りて近くの自販機にむかった。


 古いアパートの一室を見つめながら、朔太郎は古い記憶に想いを馳せる。

 あれはそう、忍がまだ八歳の頃の記憶。

『お呼びですか? お父さん』

『ああ、そこに座りなさい』

『はい』

 姿勢良く正座する息子にむかって、朔太郎もまたまっすぐな姿勢で威圧的な瞳を息子に向ける。

『三島から聞いたぞ。先日のテスト、また満点だったようだな。まあ手塚家の跡取りとしては当然の結果だが、たまには何か褒美でもと思ってな。何でも欲しいものを買ってやるぞ。何がいい?』

 コホンと咳払いしながら、どこか照れた風に言う朔太郎に、忍はにっこりと愛らしい笑みを浮かべて答える。

『ありがとうございます。でも当然のことですから』

『そ、そうか? ……ま、まあ、確かに当然のことだがな』

 一瞬緩んだ表情を厳しい顔つきに建て直し、朔太郎は再びコホンと咳払いをした。

 そして長い沈黙の後、気を取り直したように尋ねる。

『あー……忍は将来、どんな大人になりたい?』

『はい、僕はお父さんのような政治家になりたいです』

 またもにっこりと愛らしい笑みを浮かべる忍に、途端に朔太郎の表情が緩み、親馬鹿全開の顔つきになるが、すぐさま自身に喝を入れ元の仏頂面に戻る。たとえどんなに目の前の息子を愛しいと思っても、父としての威厳を損なうわけにはいかないようだ。

『そうか……忍は、父のようになりたいか。ならばこれからも、しっかり勉学に励みなさい』

『はい、頑張ります』

 あくまで微笑みを絶やさない忍に、朔太郎はまたしても一瞬目を細めた後、コホンと咳払いをし、また厳しい顔つきに戻った。

 

 緑茶1本とコーヒー2本を手に車に戻ると、父は相変わらずピクリとも動かず一点を見つめるのみで、旭が緑茶の缶を「どうぞ」と手渡すと、朔太郎は無言で缶を受け取りプルタブを引き抜いた。

 しかし口をつけようとしたその時、カッと朔太郎の目が見開かれる。

 何事かと旭が朔太郎の視線の先にあるアパートに目を向けると、2階の端のドアが開かれ、中から人が出てきた。

 明るい茶色の髪に、少し派手目のシャツを来た青年。途端に朔太郎の肩がフルフルと震える。

 缶の中身が少しこぼれたその時、グシャッという音と共に、缶の中から大量の緑茶が吹きこぼれた。旭が慌てて 朔太郎の手にハンカチをあてがうが、朔太郎はまるで気に留めていない。

 その視線の先にある場所では、玄関口で何事か会話をした後、唇を寄せ合う青年同士の姿が旭の目に入り、旭は顔を青くして額に汗を流した。

 恐る恐る父の顔に目を向けると、額に青筋をたて鬼のような形相でアパートを見つめる父の顔が目に入り、旭はますます顔を青くする。

「お、お父さん……っ、そろそろ出発しないと、明日の仕事に影響しますから……っ」

 必死の様子で声をかけるものの、朔太郎の般若のような顔つきは変わらない。

「も、もう一本買ってきますね、お父さん」

 旭はうわずった声でそう言うと、再び車の扉を開いて自販機に向かった。

 

 深くため息をつきながら、旭は財布の中から百円玉を取り出す。

 まったく困ったものだと肩を落としながら、ガタンと音をたてて出てきた緑茶の缶を自販機から取り出した。

 昔から頑固者で融通が効かず厳しいばかりで、子供のことなど道具にしか見ていない父だと思っていたが、まさかここまで親馬鹿だったとは。

 再度父の元で暮らし、秘書として働くようになってからというもの、旭は父のあまりにも子供っぽく不器用な面ばかりを目の当たりにしている。こんなにも不器用な人だったのだと、なぜ家を出る前は気づかなかったのだろうと、今 では疑問に思えて仕方ないほどだ。

 昔から忍のことは贔屓にしていたし、三人の兄弟の中では格別に見ていたことは知っているが、それは忍の類まれな才能ゆえの事だと思っていたが、今の父を見るとどうもそれだけでは無いようだ。

 だが思えばずいぶん年をとってから出来た子だ。おまけに母に似て器量も良く、父の期待に少しも背かない出来の良すぎる息子だった故、いくら唯我独尊な父であるとはいえ、可愛くないはずがないのだ。

(だったら素直になれば良いものを)

 何もこんなコソコソと偵察などしなくとも、普通に会いに行ってただ一言「会いに来た」とだけ言えば、あの賢い弟のことだ、恨むことも憎むこともなく招き入れてくれるだろうに。しかしそれだけは朔太郎のプライドが許さないのだろう。

 その気持ちも分からないではないが、つくづく不器用だとしか思えない旭だった。

 

 冷たい緑茶を手に、車に戻ろうとしたその時だった。

「あ……」

 目の前で鉢合わせしてバッチリ目が合ったのは、紛れもなく、父の怒りの元凶であり、弟が家を出る理由となった青年だった。

「お、俺、挨拶に行ってきます!」

「待ちたまえ」

 父がすぐ近くの車で見張っていることを正直に告げると、光流は慌てて車に向おうとしたが、旭はすぐに阻止した。

「いいから放っておけばいい。それに今、親父が君の顔を見たら、殺されかねない」

 旭は苦い笑みを浮かべながら光流に言った。光流は恐縮しながら「はい……」と答える。

 なにやら気まずい空気が二人の間に漂い、少しの沈黙のあと、旭が先に口を開いた。

「弟は……元気かい?」

 穏やかな口調で尋ねられ、光流は若干慌てた様子で口を開く。

「あ……はい! 変わりなく……やっています」

「そうか……それなら良かった」

「い、以前よりはやっぱり、少し、不自由させちまってますけど……」

 光流はやや顔を赤くしながら、気まずそうに苦笑する。旭はクスリと笑みをこぼした。

「なに……苦労など、幸せの範囲内だよ。自分で選んだ道ならばね」

 そう。

 少し金が足りないくらいの苦労など、何ということはない。

 何ということはなかった……はずなのに。

「きっと今の忍に、足りないものなどないはずだよ」

「え……」

「池田君。人はね、金や夢だけでは生きていけない。金は……そう、安心はくれるけれど、金も夢も決して、最後まで生きる支えにはなってくれないからね」

 そう言って穏やかな瞳を向ける旭に、光流は神妙な面持ちをする。

「どうか弟を、よろしく頼みます」

 旭は真剣な顔つきで、光流に向って頭を下げた。

「あの……良かったら、あいつに会ってはくれませんか?」

 頭をあげた旭に、光流は遠慮がちに尋ねた。

 旭は一瞬の迷いを見せた後、静かに微笑する。

「いや……弟が幸せなら、それでいいんだ」

 低い声で言い放つと、旭はもう一度光流に会釈し、父の待つベンツへ足を向けた。光流は黙ってその後姿を見送った。

 

 ようやく朔太郎が自宅に向けて車を発進させたのは、夕刻も迫ろうという頃だった。

 やっと家に帰れると安堵しながら、旭は朔太郎にちらりと目を向ける。朔太郎は相変わらず無言のまま、厳しい顔つきで窓の外を見つめている。この調子では、当分機嫌は直りそうにない。旭は小さくため息をついた。

 とにかく今は、一刻でも早く、自宅に戻りたい。


『おかえりなさい』


 頭の中で、声が響く。

 穏やかで、優しい、最愛の妻の声が。


 不意にポケットから携帯電話の着信音が鳴り響いた。旭は慌ててポケットから携帯電話を取り出す。着信の相手を見て、ますます慌てた。

「もしもし? 倫子? どうした?」

 滅多なことでは電話などかけてこない妻、倫子からの電話に、旭は少々焦った様子で問いかける。

 少しの間があって、電話の向こうから、思いがけない言葉が漏れた。旭の表情が驚愕に満ちる。

「す、すぐ帰るから!」

 うまい言葉が見つからないままに、旭はそう言って電話を切った。ほんの少し、電話を握る手が震える。

「お父さん……!」

 興奮を隠し切れない様子で、旭が朔太郎に声をかけた。朔太郎は仏頂面を息子に向ける。

「倫子が……今、3ヶ月だそうです!」

 震える旭の声に、朔太郎はやや目を大きくした。それからコホンと小さく咳払いをして、旭から目を背ける。

「ほう……ならば、必ず男児を産んでもらわねばな」

 鉄面皮のようは表情で、朔太郎は低くそう言い放つと、また窓の外に視線を向けた。

 旭は少しも喜んでくれない父を前にややがっかりしたような表情をするが、すぐに建て直し、携帯電話をぎゅっと握り締める。

 今すぐ声を大にして叫びたい歓喜を必死で表面に出さないよう押し殺し、ただ胸の内で喜びを噛み締める。

 それからふと、朔太郎に顔を向けて、旭ははっと目を見開いた。

 窓の外を見つめる朔太郎の口元が、小さく笑みを浮かべていた。それはまるで、笑いたくてたまらないのに、必死でこらえているかのように。

(まったく、この人は……)

 素直に孫が出来ることを喜べばいいものを。

 そう思って、直後、自分だって似たようなものだと思った。

(ああ、やっぱり……)

 自分とこの人は、親子なんだ。

 そう思ったら、少しだけ、許せそうな気がした。



 実家までの長い道のり、旭もまた窓の外を見つめながら、まだ見ぬ我が子に想いを馳せる。

 出来るなら、一番最初の子は、女の子が良いと思った。

 妻によく似た、綺麗な髪の可愛らしい女の子。性格は、少し気が強いくらいな方が良い。例えばそう、この父の前ではっきりと「誰が結婚なんかするもんか、クソじじい!」と罵声を浴びせた、愛すべき妹のような。

 いやでも、あそこまで気が強いと、育てるのは少し困難かもしれない。

 苦笑しながら、旭は思う。

 子供はやっぱり、二人以上は欲しい。

 二人目は、やはり男の子であって欲しい。出来れば自分にはあまり似て欲しくない。明るくて、やんちゃで、いつも元気に外を走り回っているような、そんな男の子であって欲しい。

 でももし、自分に似てしまったら。

 どうしようもなく不器用で、感情表現が下手で、言葉にすることが苦手な自分に似てしまったら。

 いつも優しく、頭を撫でてやろう。

 たとえどんなに出来ないことが多くても、決して怒らず、「よく頑張った」と、たくさん褒めてやろう。

 もしも頑張りすぎて疲れていたら、外に出て、キャッチボールや追いかけっこをして、たくさん遊んでやろう。

 勉強なんて、出来なくて構わない。人に褒められなくてもいい。明るく笑うことが苦手でもいい。たとえ想いを上手に言葉に出来なくても。

 「愛している」と、ただ、それだけを伝えてやれればいい。

 ついにその言葉を貰えることはなかった、自分と、それから、愛すべき弟のために。



「そうか……孫か……」

 ふと、朔太郎がぽつりと呟いた。その耳の後ろが心なしか赤くなっていて。

 旭は思わず、クスリと微笑んだ。


 移り変わる景色を眺めながら、旭は我が子を腕に抱く瞬間を夢見る。そして、我が子を父の腕に手渡す瞬間を。

 その時、この父は、いったいどんな顔をするのだろう。

 もしかしたら、その時こそ初めて自分は、父を許せるのかもしれない。

 もしかしたら、その時も、やはり許すことは出来ないのかもしれない。

 それでも夢を見る。

 いつか、父が我が子の手を握り締め、「愛している」と伝えてくれる、小さな夢を。