ceremony<忍編>
「光流……光流!!」
時計が午前七時半を回ったところで、もう何度目になるか分からないほど呼びかけても一向に目を覚まさない光流に、いいかげん
苛立ちを感じ、忍は足でめいっぱい蹴りを入れた。
「……ってぇ……!」
突然の衝撃に、光流はようやく目を開いて体を起こすが、まだ脳の半分は眠ったままの様子だ。
無理もない。昨夜家に帰ってきたのは、夜も明けようとする頃だ。
「今日は何のために仕事休んだんだ? さっさと起きてシャワーぐらい浴びてこい」
いつものように風呂も入らず服も着替えず、半ば気絶状態で眠ったらしい光流の格好は酷いものだ。
「それとも、その格好で人の結婚式に参加するつもりか?」
忍は呆れた風に言い放った。髪はだらしなく伸びきって、髭も剃らず、服は皺くちゃ。とてもこれから正式な場に顔を出そうという人間の格好ではない。
「わーってるって。シャワー浴びてくる」
光流はのろのろと起き上がると、ようやく出かける準備を始めた。
あと三十分以に出発しなければ間違いなく遅刻だというのに、呑気なものだと忍は小さくため息をついた。どうせこうなるだろうとあらかじめ用意しておいたスーツをバスルームに持っていく。
それから既に準備はできているが念のため鏡を見て、自分の身だしなみの最終チェックをした。
「相変わらず男前」
ふざけた声で言いながら、背後から光流が肩に顎を乗せてくる。
「さっさとしないと置いて行くぞ」
しかし忍は素っ気無くそう言うと、洗面所を後にした。
飲み終えたコーヒーのカップを洗い、火の元がきちんと消されているか確認していると、ようやく光流が洗面所から出てきた。どうにか支度を終えられたようだ。
「変じゃねぇ?」
長い前髪を鬱陶しそうにかきあげながら光流は言うが、久しぶりに髭をそって髪をセットし、すらっとしたブランドスーツに身を包んだ光流は、どこからどう見ても女性達が放っておかないであろう外観だ。
「行くぞ」
「えー、せめてコーヒーくらい……」
「車で飲め」
忍は缶コーヒーを一本、光流に投げ渡すと、家を出て駐車場に急いだ。
放っておいたら立ったまま寝れそうな光流にとても運転は任せられないので、先に運転席に座ると、光流は助手席に乗って大あくびをする。
「あの栃沢もついに結婚かー」
車が走り出してしばらくして、光流がまだぼんやりとした表情のまま呟いた。
そう、今日は高校時代のかつての後輩、栃沢の結婚式だった。
緑都学園の懐かしいメンバーが勢ぞろいするとあっては、いつもは滅多なことで仕事を休まない光流も、今日ばかりは必死で休みを捻出したようだ。その結果が寝不足と朝寝坊である。
また一つ大きなあくびをする光流をチラリと横目で見て、忍はアクセルを踏み車を加速させた。
結婚式会場のホテルに辿り着くと、そこには既によく知った顔ぶれが集まって、みなそれぞれに談笑していた。
「あ、光流先輩! 忍先輩!」
いち早く二人に気付いた瞬が、笑顔を浮かべながら駆け寄ってくる。
「よう瞬、久しぶりだな。あれ? 蓮川はまだか?」
「もう始まるのに……と、噂をすれば」
そう言って瞬が視線を向けた方向に、光流と忍もまた目を向けると、そこにはずいぶん慌てた様子で飛び込んでくる蓮川の姿があった。
「おせーぞ蓮川、寝坊か?」
光流が叱り付けるように言うと、蓮川は息を切らせながら光流を上目遣いで睨みつけた。
「誰のせいですかっ、誰の!!」
「なにスカちゃん、また光流先輩の仕事につき合わされたの?」
瞬が気の毒そうに、しかしどこか面白そうに笑いながら言った。
「おーい!! 久しぶり!!」
するとそこへ、またも見覚えのある二人が姿を現した。
坂口と青木だ。
「おうおまえら、何年ぶりだよ! 元気にしてたか?!」
「先輩、相変わらず男前っすね!!
気さくに声をかける光流に、青木と坂口は嬉しそうに笑いかける。
「今、刑事やってるんでしたっけ?」
「そうそう、蓮川も一緒にな」
「そうなんだ、相変わらず光流先輩の後追いかけてんだな、蓮川」
「たまたま偶っ然、一緒の職場になっただけだっ。おかげでどれだけこき使われてるか……」
「何か言ったか? おい」
「いててててっ!!」
グリグリと頭を挟まれ蓮川が悲鳴をあげると、周囲から笑い声が漏れた。
「ほんと変わらないよね、二人とも」
「お、瞬。えらい男前になったよなー、あの頃の面影、少しもないぜ」
「まあね」
今や身長もそこそこ伸びて、スラッとしたスタイルに端正な顔立ち、加えて相変わらずキューティクルな短髪。一見するとファッション雑誌に
でものっていそうなルックスである。
「おかげで言い寄ってくる女が後を絶たなくて困るよ。この前なんてナース達が僕の取り合いのおかげで、職場が大変なことになっちゃってさあ」
瞬は自信満々にポーズをつけると困ったようにそう言ったが、たぶん全然困ってなどいないだろう。
「なんかおまえ、外見が男らしいと途端に嫌な性格に見えるな」
青木が目を据わらせる。
「そういうおまえらも、今じゃ社長と専務だろ? すげーじゃん、最近開発されたゲーム機の売り上げ」
「俺もこの前初めてやってみたが、なかなか面白かったぞ」
「忍先輩に言われると恐縮しちゃうなー。それにしても変わってないっすねー。今は弁護士でしたっけ?」
嬉しそうに坂口が言う横で、青木がヒソヒソと蓮川に耳打ちをしている。
「別に悪徳弁護士なんてしてないぞ」
負のオーラを発しながら言う忍に、青木と蓮川は怯えた顔を隠せなかった。
昔と全く変わらない雰囲気のまま談笑していると、ふと青木と坂口が周囲からの不穏かつハートマークのとびかった視線に気づいた。
「なにあの人達、すっっごいイケてない?!」
「ヤバいって、絶対ヤバい!!
「今日来て良かったー!! 後で絶対声かけようねっ」
ヒソヒソと聞こえてくる着飾った女性たちの声は、間違いなく光流と忍に向けられているものだった。
「何年たっても腹立つなー」
「ほんとほんと」
ひきつり笑いをしながら、青木と坂口は顔を見合わせたのだった。
「僕が栃沢から愛の告白を受けたのは、十九年前でしょうか。当時、真っ赤になって僕に告白してきた時の純真な顔が今も忘れられず……」
瞬の祝いの言葉に会場からは笑いが漏れるが、栃沢一人がやけにうろたえている様子。
その後、光流と瞬がはりきって歌をうたい場を大いに盛り上げ、青木と坂口から寮時代の映像を流され、藤掛や渡辺、古沢などかつての懐かしいメンバー達が賑わしく披露宴を盛り立てた。栃沢が感無量で泣きそうになりながら花嫁にキスを送り、結婚式はとどこおりなく終了した。
その後の二次会においても、もちろん場は大盛り上がりだが、約三名ほどが女性たちからの質問攻めにあって顔をひきつらせていた。
「こちらは弁護士さん?!」
「まあ刑事さんなの? 素敵~」
群がってくる女性たちを相手に、光流はあくまで引きつりながら、忍は表面上にこやかに対応する。
「あ~疲れた」
「瞬、おまえよく逃げてこれたな」
「結婚してるって言ったら、即効解放してくれたよ」
「相変わらず要領良い奴……」
マイペースに酒を胃に流し込む瞬に、蓮川が目を据わらせる。
「おまえ、結婚なんかしてないじゃないか」
「する気ないもーん。結婚なんて面倒なだけじゃん」
「そんな事ないぞ、別に」
「ふーん、さすが妻子持ち」
ニヤニヤしながら瞬が言うと、蓮川の顔がわずかに赤くなった。
「先輩達は相変わらずだね。スカちゃんはしょっちゅう入り浸ってんでしょ?」
「別に好きで入り浸ってるわけじゃない」
「ホントは光流先輩と仕事できて嬉しいくせに」
「誰がだっ!!光流先輩のおかげで、家に帰れなくて怒られてばっかだぞ?! ったく、あの二人もさっさと結婚すりゃいいのに、いつまで
男二人で同居してるんだか……」
グイッと酒をあおりながら、呆れたように蓮川は言う。
「スカちゃん、まさかまだあの二人が友達だと思ってるの?」
その横で、更に呆れた様子で瞬が尋ねた。
「友達じゃなかったら何なんだよ? 悪友か?」
まるで疑いもせず尋ねてくる蓮川に、瞬は深くため息をついた。
グリーンウッドの元住人達には既に周知の事実だというのに、鈍いのもここまでくると天然記念物並みかもしれない。
「ま、あの二人は、ずっと変わらないだろうね」
ワインの入ったグラスを回しながら、瞬は穏やかにそう言った。
その様子はどこか羨まし気でもあり、蓮川は納得していないながらも、二十年経っても何も変わらない二人に目を向けた。
逃げ込むように入った男子トイレには、既に先回りして逃げ込んできていた光流の姿があった。
「つ、疲れた……」
「その割に、まんざらでもなさそうな顔だったけどな」
嫌味を言う忍に、光流はムッと口をとがらせる。
「そういうおまえこそ、愛想ばっかふりまいてたじゃんか」
「場の雰囲気を壊したら悪いだろ?」
「そりゃ……そーだけど」
拗ねた顔つきで、光流は忍の肩に手を置いた。
「忍……」
そしてそのまま忍に顔を近づけたかと思うと、
「眠い……」
忍の肩に顔をうずめ、ガクッと力を落として呟いた。
「寝たら置いて帰るぞ」
「それはイヤ」
「だったら行くぞ」
「はいはい……ったく、結婚式も楽じゃないよな」
またあのギラギラした目つきの女性たちの相手をしなきゃならないかと思うと、気が滅入るばかりの光流の様子に、忍は薄く微笑んだ。
二次会の席に戻ると、何やらコールが始まっており、その中心に栃沢と花嫁の姿がある。
どうやらみんなでキスをコールしているようだった。
栃沢と花嫁は恥じらいながらも顔を見合わせ、栃沢が肩に手を置いて、そっと唇を重ねる。
やっかみと祝福の入り混じった拍手と歓声の嵐。
幸福そうな栃沢の笑顔に、忍も光流も心の底からの祝福の拍手を送った。
「忍先輩」
ふと声をかけられ、忍が振り返ると、そこには瞬の姿があった。
言い寄ってくる女性達を光流に押し付け、ホテルのロビーで酒を抜くために一息ついていたところだ。
「さっき、ビックリしちゃったよ。スカちゃん、まだ先輩達のこと、気づいてないみたいだよ」
瞬が忍の横に座り、思い出し笑いに口の端を上げる。
「何の話だ?」
「羨ましいって話」
「……おまえは好きで一人でいるんだろ?」
「そーだけど、相手に巡り合えないってのも確かかな」
小さくため息をつく瞬を、忍は意外そうな目で見つめた。
「ま、それでも結構人生楽しんでるからいいんだけどね。それより、安心したよ」
「何が?」
「忍先輩が幸せそーで」
瞬がそう言うと、忍はやや申し訳なさそうに顔を俯けた。その表情を見つめ、瞬が穏やかに微笑する。
「忍先輩」 落ち着いた瞬の声に反応して忍が顔をあげると、突然、顎を捕らえられ、そのまま唇が重なってくる。忍は一瞬目を見開いた。 「言ったでしょ? 諦めるつもりないって」 「しゅ……」 「ってゆーか人妻だと思うと余計にそそられるんだよね~。じゃあ忍先輩、またね」
瞬は人差し指を口元にあて、からかうようにそう言うと、忍の反応は待たずにその場を去っていった。
「……」
忍の表情はかなり複雑なものだ。
相変わらず何を考えているんだかよく分からなければ、先輩を敬う気も全くない奴だと思ったが、この年になると一年くらいの年の差なんてあってないようなものだ。むしろ年下の方がしっかりしているケースだって少なくない。光流と蓮川が、いつまでたっても変わらなすぎるだけなのだ。
そんな二人に囲まれて日常を送っている自分は……やはり、ずいぶん変わったと忍は思う。
瞬が外見も中身も大人になって変化したように、あの頃とは確実に違う自分がいる。
それが良いことなのか悪いことなのかは、はっきり分からないのだけれど。
「行くか……」
いいかげん光流も限界が迫っているだろう。
それにやっぱり、ここぞとばかりに獲物を狙う女性たちに光流が囲まれているのを見ているのは、気分がいいものじゃない。
飲みかけのコーヒーを一気に飲み干して、忍は立ち上がってその場を離れた。
やっぱり限界だったようで、車を走らせてすぐに光流は眠りに落ちた。
家に辿り着く頃にはとうに深夜。
「光流、着いたぞ」
「ん……あぁ、悪ぃ」
疲れ切った様子で、光流は車から降りる。
玄関のドアを開けて電気をつけると、光流はすぐさまソファーの上に座り込んだ。
「疲れたーー!! ……けど、いい式だったな」
「まあな」
スーツのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイをはずしながら忍が頷くと、不意に腕を掴まれて引き寄せられた。
「俺達も、結婚式しよっか?」
「おまえがウエディングドレス着るならな」
「なんでそう俺を女装させたがるんだ、おまえは」
目を据わらせる光流に冷めた目を向け、忍はスーツをハンガーにかけるために寝室にむかう。光流がすかさず後を追いかけた。
「そーじゃなくてさあ、こう永遠の誓いっつーか、そういう聖なる儀式みたいのって、やっぱ憧れたりしないか?」
「全然」
「うわーさすが忍君」
寝室のクローゼットにスーツをしまいながら身も蓋もない言い方をする忍に、光流はガックリと肩を落とす。
しかし、まさか光流がそんなものに興味があったとは思わなかった忍は、内心複雑な気分だった。
男同士で結婚式など海外では当たり前といっても、はっきり言って微塵も興味がない。だいたいあんなもの八割方自己満足だし、実際派手に結婚式を挙げるカップルほど離婚率も高いもので、これまで何度もそういった夫婦の離婚訴訟を請け負ってきた忍には何の意味もないように思えてならなかった。
などと思っても、先ほど栃沢の祝福をしてきたばかりなのに、そんな無粋なことを口にするつもりはないが。
「じゃあせめて、誓いの口付けを……」
肩を落としながらも、光流は忍の肩に手をかけ、そっと唇を重ね合わせる。
そんな風に触れ合ったのは、ずいぶん久しぶりの事だった。
このところずっと光流の仕事が忙しくて、すれ違い生活が続いていたせいだ。
「……っ……」
突然、グイと腰を引き寄せられ、舌が絡んでくる熱い感覚に忍は強く目を閉じた。
長い抱擁の後、光流が優しく微笑む。
「どこが誓いの口付けだ」
そんな光流に、あくまで冷静な表情のまま忍が言った。
「じゃあ、誓いのえっちを」
「単にしたいだけだろう」
あくまでふざける光流を押しのけようとするが、強い力で抱き寄せられそのままベッドの上に押し倒される。
「眠いんじゃないのか?」
「一気に目ぇ覚めた」
途中まで外していたシャツのボタンに手がかけられ、耳の下に光流の熱い息が吹きかかる。
ただそれだけで、全身を突き抜けるような快感を感じて、忍の身体がわずかに震えた。
「愛してるよ、忍」
低い声と共に、もう一度、唇が重なる。
本来なら学歴も能力あるゆえエリート刑事として活躍しているだろう光流だが、本来の無謀でおせっかいで欲のない性格のせいか、出世コースから外れ現場の体力勝負の仕事をしているだけあって、力強い腕。それに引き換え、仕事ではせいぜい駅から駅を歩く程度で、健康とスタイルを維持するための運動程度しかしていない忍には、おそらくもう、腕っ節ではどう足掻いても勝てないだろう。
「明日……仕事なんだろ……?」
「んー……でももう我慢できない」
毎日仕事で疲れ果ててそんな余裕など微塵も感じなかった忍は、意外そうに目を見開く。
「我慢なんかしてたのか?」
「うん、すっげぇしてた」
そう言われれば、こうして抱き合うのはずいぶん久しぶりな気がする。
光流のスーツから漂うわずかな香水の香りが少し邪魔で、でもシャワーを浴びていたらその間に光流は寝てしまいそうだ。
忍は黙って目を閉じた。
もしかしたら、光流よりずっと、求めているのは自分かもしれないと思いながら。
「ん……っ」
「何か、いつもより感度良くねぇ? 奥さん」
忍の中心を弄びながら、からかうような光流の声。
ふと瞬にも言われたことを思い出して、忍は怒りを含んだ吊り上げた目で光流を睨みつけた。しかし次の瞬間、弱い部分に強く刺激を与えられて、思いがけず反応してしまい返す言葉を失う。
何を影響されてるいのか知らないが、男としてのプライドは捨てていないのだ。
とは言え、毎日家の掃除をして洗濯をして飯を作って……これが妻の役割でないなら、一体なんだと言われると返す言葉もないのだが。
けれどそんなこと、家の中に女性がいなければ男だって当たり前にしなきゃならないことなのだ。
「もう、おまえの事なんて……何もしないからな……っ」
乱れた息で必死で憎まれ口を叩いても、無駄なことだって分かっているけれど。
「冗談だって、感謝してます。だから今日は、めいっぱい奉仕させてもらうぜ?」
「あ……っ……」
潤滑油で塗れた指が侵入してくる。忍の指先が光流の腕に食い込んだ。
久しぶりなのに痛みは少しもなくて、ただ甘ったるい快楽だけが意識を飲み込んでいく。
熱い体温。柔らかい髪の感触。よく知った香り。それらが全て、あまりに近すぎて、胸が締め付けられる。
もっと、近づきたい。いっそ形も無くなるくらい。
「もしかして、すっげぇ感じてる……?」
不意に愛撫の手をとめられて、忍は光流の首に腕をまわして、しがみつくように抱きついた。
「も……っと……しろよ……っ」
はしたないと分かっていても、自分が制御できない。
こんな風に求めてしまうなんて、自分でもおかしいと感じながら、忍は熱に浮かされるように光流の耳元に口付ける。光流はそれに応えるように、忍の髪に指を絡ませ強く抱きしめた。
「忍、力、抜いて?」
柔らかい声で囁かれ、うながされるままに足を開く。
ゆっくりと、しかし待ち切れないように、光流が中に入ってくる。
熱い塊の感触。身体の奥を刺激され、忍がぎゅっと目を閉じた。
「あ……ぁ……っ」
「痛く……ないか……?」
少し荒々しい息で、光流が耳元に囁く。
応えてる余裕なんてない。
でももしこれが痛みだとしても、今はそれすら気持ちいいと感じてしまうような気がしていた。
激しく身体を揺さぶられ、ベッドが軋み音を鳴らす。光流の吐息だけが耳元でやけに熱く感じる。快楽に喘ぎながらシーツを握り締める忍の瞳に涙が滲み、一際高い嬌声をあげ限界まで導かれた。
息を乱す忍の目尻に光流が唇を寄せる。 愛してるとその唇に訴えられ、忍は光流の背に手を回し、しがみつくように力を込めた。
シャワーを浴びた後、光流のスーツをハンガーにかけクローゼットにしまうと、深い眠りに落ちている光流の隣にそっと横たわる。
やっぱり相当疲れているのだろう。行為が終わると、まるで気絶するように寝てしまった。無理していたのかもしれないと思い、忍は少し気恥ずかしい想いにかられた。自分が求めるから、光流はそれに応えてくれただけかもしれない。
なかなか寝付けないまま、忍は光流の寝顔を見つめる。
いつもはくたびれてるけど、ちゃんと髭をそって身だしなみを整えれば、相変わらず端正な顔立ちをしている。
でも別に、どちらでも良いと思う。
むしろ綺麗に整えた光流より、昔と変わらず熱い気持ちのまま突っ走っている光流の方が、ずっと光流らしい。仕事にそれだけ遣り甲斐があるなら、それに越したこともない。自分のように淡々と割り切って仕事をこなすよりは、男として幸福なのだろうと思う。
かといって自分が男として不幸かと言えば、全くそんな事はなく、それなりに生活に充実感は感じている。
毎日適度な量の仕事をこなし、家に帰って家事をして、余った時間は自分の好きな事に費やして。でもその方が自分には合っているのだ。
より上を目指そうとした時期もあったけれど、年を重ねるにつれ、どれほど上にいっても結局手にするものは金だけで、時間に余裕のない生活に空しさしか感じなくなっていった。
そんなものは生活できるだけあれば充分だ。それよりは少し余裕を持って生きていきたいと思い、どんなにつまらない仕事でも給料が安くても、定時で帰れるような仕事ばかりを選んでいる。勿体無いと周囲からは非難を受ける事もあるが、もともと自分の才能を誇るどころか疎ましいとすら思っていた忍だ。いつの間にか仕事に遣り甲斐は求めなくなっていた。
(変わった……な)
忍は今日を振り返りながら心の内で呟いた。。
変わってませんね、と口々に言う後輩達。
でもそれはたぶん外観だけで、今の自分の中身を知ったら、彼らはきっと驚愕するに違いない。
それくらい、変わった。
光流と初めて出会ってから、もう二十年が過ぎようとしている。
この二十年の間にいろいろな事があり過ぎて、考え方も生き方も何もかも、あの頃の自分とはまるで別人のようだ。
ふと高校時代を思い出し、忍は失笑した。
やっぱり、子供だったな、と思う。
つまらないことで腹をたてたり意地を張ったり、欲しくもないもののために努力してみせたり、自分から不幸になってみたり。思い出すと恥ずかしいようなことばかりだけれど、でも。
あの頃の記憶は、今も一番に懐かしく、最も輝いていた、最高の時だったように思う。
「光流……」
少し悲しげな表情で、忍は眠っている光流にそっと呼びかけた。熟睡しているから、もちろん何の反応もない。
毎日倒れるようにソファーで眠るから、こんな風に一緒に寝るのもずいぶん久しぶりだ。
(あの頃は……)
忍はゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏側に、いつも蘇るあの頃の記憶。
真っ先に浮かぶ光流の笑顔は、今もなお色鮮やかで、次々に思い出されるのはやっぱり光流の顔ばかりだ。
一緒に悪巧みばかりしていた時の、悪戯っぽい笑顔。
少し困った時のはにかむような顔。
おせっかいをやく時の小さなため息。
真剣に怒った時のまっすぐな瞳。
自分を呼ぶ、声。
振り返った時の、満面の笑顔。
不意に、忍の瞳から、涙がこぼれた。
どうして急に、こんなにも孤独な想いにかられるのか、自分でも分からなかった。
声をこらえるように、忍は口元を抑える。
ちゃんと、そばにいるのに。光流はここにいるのに。
「……っ」
止まらない、涙。
あの頃は、朝も昼も夜も、ずっと一緒だった。
振り向けば、いつも光流はそばにいた。
何をするにも一緒だった。
二人でくだらない悪巧みをしては、周囲を翻弄させて、笑いあったあの頃。
もう、二度と戻れない。
戻れない……。
とめどなく溢れてくる涙を必死で押しとどめて、忍は仰向けになって天井を見上げた。
馬鹿みたいだと、思った。
別の道を選んだのは自分ではないか。
一度は別れも経験し、それでもやはり一緒にいたいと心から願い、今、光流は横で眠っている。
ただそれだけで、もう充分なはずなのに。
きっと今日、あまりに懐かしい面々に出会ったから、郷愁にかられただけだ。
明日からはまた、いつもの日々に戻る。
だから……だから今日だけは、思い出すのも悪くない。
『忍!!』
懐かしい、あの笑顔を。
そっと目を閉じ、眠りに落ちた忍は、幸福そうに微笑んでいた。
懐かしい夢を、瞼の裏に描きながら。
「忍……忍!!」
「なんだ光流」
「蓮川がどれくらいでフられるか、賭けようぜ」
「……寮生全員賭けるとして、だいぶあがりが出そうだな」
「だろ~? さっそくみんなに声かけに行こうぜ!」
「待て光流、まず計略を練ってからだな……光流!」
待ちきれず廊下を駆け抜ける足音。
古びた床のきしむ音。
初夏の風が吹き抜ける、緑色の木々のざわめき。
あれは……そう、グリーンウッド。
今もなお鮮やかに蘇る、もう二度と帰らない、優しくてほんの少し苦い……懐かしい記憶。
窓辺から漏れる朝の光が眩しくて、忍は目覚めると同時に目を閉じた。
どうやら昨夜、カーテンを閉め忘れていたらしい。時計を見ると、もうとうに八時を過ぎていた。けれど何故か酷い倦怠感に襲われ、すぐに起き上がる気にはなれなかった。
そうだ、昨日は栃沢の結婚式で、帰ってきてすぐに……。
額に手をあてた忍は、ふと視界に飛び込んできた見覚えのない銀色の物体に、目を大きくした。
それは、左手の薬指にはめられていた、シルバーリング。
すぐさま隣で眠っている光流に目を向ける。左手の薬指に、やはり同じリングがはめられているのを見て、忍は小さく笑った。
「ばーか……」
さしずめ給料の3カ月分、といったところだろうか。
こんなもの買ったところで、はめられるわけないって分かってるくせに。
だいたいこんなもの、蓮川が見たらその場で卒倒するに違いない。
でも……。
幸い今日は、仕事も休みだし。
一日くらいは、こんな神聖な気分を味わうのも悪くないかもしれない。
「光流……光流! 朝だぞ!!」
忍は身体を起こし、目覚ましを止めて二度寝したらしい光流を揺さぶった。
たぶん仕事はとうに遅刻の時間だろう。
「んぁ……?」
「今日仕事じゃなかったのか?」
「……って、八時?!」
ガバッと飛び起きて、光流は慌ててベッドから飛び降りる。
「やっべ!! まじやべー!!」
「顔くらい洗ってけよ」
「もっと早く起こせよーっ!!」
「知るか、自己管理くらい自分でしろ」
素っ気無く言って、自分は優雅にコーヒーを飲むため台所に立つ忍をよそに、光流は慌てて顔を洗って着替えると、早々に家を出ようと
玄関にむかった。
「あ……」
しかし不意に何かを思い出したように、忍のもとに駆け寄ってくる。
「……忘れてた」
そして軽く忍の唇にキスをすると、悪戯っぽく笑ってそう言って、また慌てて玄関に駆け出した。
「いってきやすっ!!」
バタン!!と勢いよく扉の閉まる音が響く。
いくつになっても、落ち着きもなければ余裕もない奴だ、と忍は小さくため息をついた。
そんな変わらない光流を、今もやっぱり変わらない想いで見つめていられる自分は、決して嫌いではないのだけれど。
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