残像
一ヶ月前、幼い頃他界した父に続き、女手一つで育ててくれた母も交通事故で他界した。
高校2年生の夏の始めだった。
当然、悲しみは深く、動揺も激しい。
けれど、泣いている余裕など、俺にはなかった。
葬式の準備に始まり、事故の後処理、財産の相続、七面倒くさいこれらの処理は、しかし俺にとっては返って有難かった。忙しい毎日を送っているうちに、徐々に母がいない生活にも慣れ、悲しみにもずいぶん慣れた頃、夏休みが終わり、日常が戻ってくる。
「いってきまーす!!」
「車に気をつけるんだぞ!」
玄関を出てすぐに、元気良く学校へ走っていく七歳の弟を見送り、俺も学校へ行くために家の鍵を閉めた。
狭いけれど一軒家の我が家。弟は小学ニ年生。もうそれほど手はかからない。二人とも独立するまでには充分暮らしていけるくらいには、母が残してくれた財産もある。
大丈夫、何とかやっていける。
まだ日差しが熱い、9月始め。
新しい日常を始めるため、俺は歩き出した。
「おーす、一弘」
学校までの道のりを歩いていると、不意に呼び止められ振り返ると、そこには同級生の中山の姿があった。
「今日、立山の授業だな~」
実に嫌そうに言う中山に、俺も苦笑する。ふと、中山がピタリと足を止めた。
「……行くぞ、一弘」
「おう」
俺達は呼吸を合わせると、その場から猛ダッシュで走り始めた。
しかし、敵は手強かった。2重に待ち構えていた近所の女子中学生の群れが、目の前に立ちはだかる。
「みんな、いくよ!!」
リーダー格の女子の掛け声と共に、一斉に群がってくる女子中学生。
結局、俺と中山は彼女達の餌食になり、肩を落としながら緩んだネクタイを締めなおした。
「おまえなんかに声かけるんじゃなかった……」
疲れきった様子で中山が言う。
「俺のせいか?」
「自覚あるクセに何言ってんだよ」
「モテる男は辛いな~」
「マジ腹立つわー」
憎まれ口を叩く友人に自慢げに笑ってみせる。
「おっはよ~ん」
「今日もあっちいなぁ」
すると背後から、また別のクラスメート達が声をかけてきた。
続々と学校へむかっていく生徒達。いつも見慣れた朝の風景。不思議と気持ちは高揚していった。
全国各地から生徒が集まり、都内でも名門を誇る緑都学園。
けれど名門という割には、校風は自由奔放で型に捕われず柔軟だ。そこに惹かれて俺もこの学校に入学した。入学してニ年目ともなると、もうずいぶん慣れたもので、そこかしこに見慣れた顔があり、彼らとバカみたいに騒ぐ日々は俺に充実感を与えてくれる貴重な場所でもある。
その日も朝からくだらない話で盛り上がり、授業が始まろうとする頃、席についたその時だった。
「一弘」
不意に、前方の席に座っていた同級生が振り返り、俺の名前を呼ぶ。
「昨日の数学のノート、写させてくんねえ?」
実に親しげに声をかけてくるそいつは、見覚えこそあるけれど、ほとんど喋ったこともないクラスメートの一人。
名前は確か……秋吉光司。
「……ああ、いいよ」
俺は軽く不信感を覚えながらも、好意的にノートを渡してやった。
「サンキュ」
秋吉はニッと人当たりの良い笑顔を浮かべてノートを受け取ると、すぐまた俺に背を向けた。
この席に人がいるのは、珍しい。なぜなら彼は有名なサボり魔で、校内一恐れられている古典の立山の授業すら平気でサボる、この学園にしては
珍しい不真面目な生徒だった。一度も授業をサボったことなどない俺には、理解しがたい人間でもある。
けれど別にノートの一冊や二冊、貸すぐらいはどうということはなく、俺はすぐにその事を忘れた。
学校が終わると、すぐに帰宅するため学校を出る。
まだ小学ニ年生の弟を、そう長く一人で留守番させるわけにもいかないので、帰り際に急いでスーパーで夕食の買い物を済ませ、家にたどり着く。けれど弟はまだ家に帰っていなかった。
友達の家にでも遊びに行ってるのだろうと思い、夕食の準備を始める。母一人子二人の生活だったので、家事はずいぶん昔からやっていたし、そういう面で困ったことは一度もない。育ち盛りの弟のために、唐揚げとポテトサラダと具沢山みそ汁というガッツリメニューを調理し、食卓に並べる。しかし。
六時半が過ぎても、弟が帰ってこない。
まさか事故にでもあったのかと、いいかげん探しに行こうと立ち上がったその時、玄関のドアがガラッと音をたてて開いた。
「ただいま~っ」
俺の心配などよそに、弟は泥にまみれた姿でバタバタと家の中に駆け込んできた。
「一也~……っ」
頭に来て、俺は弟、一也の頭にげんこつをくらわせてやった。
「兄ちゃん、六時までには帰れって言わなかったか?」
「だって時計なかったから、時間わかんなかったんだもん!!」
殴られた頭をおさえながら、恨めしそうに睨みつけてくる一也に、今度はプロレス技をかけて締め上げる。
「口答えすんなっ!!」
「ご……ごめんなさいごめんなさいっ!!」
「さっさと手ぇ洗って来い」
解放してやると、一也はまだ少しふてくされながらも、洗面所に手を洗いに行って食卓についた。
「今日ねー、卓也君が、国語の時に本読みしてないでしゃべってたのに、したってズル言ったんだ。それっていけないことだよね?!」
「そうだな、いけないことだな。ズルは駄目だぞ」
食事をしながら一也の話を聞いていて、ふと昼間のことを思い出した。
そーいやあいつに、ノート貸しっぱなしだった。明日、ちゃんと言わなければ。
「おれが駄目だって言ったら、おれのこと真面目すぎて嫌いって言うんだ。自分が悪いのに!!」
「そうか、でもおまえは間違ってないんだから、堂々としてなさい」
「うん!!」
嬉しそうに一也は笑うが、俺としてはその卓也君とやらの気持ちの方がよく分かるかも。
そうとうウザかったんだろうなぁ、一也のことが。かといって、一也も間違ったことは言ってないわけだし、こいつの一途すぎるくらいの正義感って長所でもあるしな。
「弘兄、あとで宿題みてね」
「ああ」
夕食を終え、後片付けをさっさと済ませ、一也の宿題を見て風呂を洗って沸かして入って、九時には寝かしつける。
ようやく自分の時間が持てて、明日の課題と予習をして、読みかけの本を読んでいたら、時計は既に夜中の一時を過ぎていた。いいかげん寝ないとマズいなと思い、一也の眠る隣の布団に入ってうとうとしかけた頃、腕を揺さぶられて起こされた。
「どうした? 一也」
眠りかけていた気だるい体を起こすと、一也が顔を歪めて泣いていた。
俺はそっと、その背中に手を回してを抱き寄せる。
「またお母さんの夢見たのか?」
ぎゅっと俺のパジャマにしがみついて、泣き続ける一也の背中をさすり続ける。
まだたったの七歳。母親の死を、そう簡単に受け入れられるはずもない。ほとんど毎晩のように母親を思い出しては泣いている一也が、昼間どれほど寂しさに耐えているのだろうと思うと、胸が締め付けられる。
「大丈夫だよ、兄ちゃんがいるから……。ずっと、そばにいるからな……?」
「……っ……うん……っ」
母親が死んで以来、まだ死というものを理解できず、母親の存在を尋ねてくる一也に、もう二度と母親は戻ってこないことを何度か説明した。
いつしか、一也はいっさい「お母さん」と口にすることはなくなった。幼いながらに思うところがあり、必死で耐えているのだろう。
守っていかなければと、思う。
父も母ももういない。他に頼れる親戚もいない。
こいつには、もう俺しかいないんだ。
ようやく泣き止んだ一也に寝付くまでずっと腕枕をしてやっていると、いつの間にか俺も一緒に眠りに落ちていた。
眠い……。
このところ、ずっと寝不足が続いている。
せめて、あと一時間早く寝ないと。思いながら、重い足を引きずって学校に行く。
目の前の席は今日も空席だった。今日の三限目は数学だというのに、最悪だ。
しかし運が良いのか悪いのか、ニ限目の体育で足に軽い怪我を負い、3限目の数学は出ずに済みそうだった。
「失礼します」
保健室に行くと、年配の女性の保険医が手当てをしてくれる。
「あ~よく寝た~っ」
手当ての最中、不意にベッドの方から声がしてカーテンが開いた。
「あれ、一弘、怪我したのか?」
声の主は秋吉だった。
飄々と、また俺の名前を気安く呼ぶと、ベッドから降りて歩み寄ってくる。
「もう仮病は治ったの?」
「おかげさまで~」
悪びれず笑う秋吉に、保険医は仕方ないような顔を向け、俺の手当てを終える。
「じゃ、二人とも授業に戻りなさい」
言われるまま、俺は秋吉と共に保健室を出る。
廊下を歩きながら、俺は目の前を歩く秋吉に声をかけた。
「秋吉、数学のノート、返せよな」
「あ、悪ぃ悪ぃ、家に忘れてきちった」
まったく悪いとも思っていない態度。
カチンときて、俺は思わず秋吉を睨みつけた。
「今の時間、数学なんだぞ」
「いーじゃん、そんなのサボれば」
たった今までサボっていたというのに、まだサボるつもりらしい秋吉は、そう言うと教室とは逆の方向に歩いていく。
「どこ行くんだよ?」
「屋上。おまえも来るだろ?」
まるで当たり前のように言われて、俺は何故だか秋吉の後をついていってしまっていた。
屋上のドアには鍵がかかっておらず、無用心だと思いながらも広々とした屋上に出ると、風が吹き抜けてビックリするほど心地好かった。秋吉は屋上の隅に腰を下ろす。俺も隣に座った。
特に話すこともなく無言でいると、ふと秋吉はポケットから煙草の箱を取り出し、一本の煙草にライターで火をつけた。
「吸うだろ?」
また当然のように言われて、断ろうかとも思ったけれど、一本の煙草を取り出した。
口にくわえると、秋吉がライターで火をつけてくれる。ふうと煙を吐いて、俺は口を開いた。
「おまえ……何で俺の事、名前で呼ぶの? 面識あんまないんだけど」
「呼んだら駄目?」
「別に……いいけど」
「んじゃおまえも、俺の事、光司って呼んでな」
この日、屋上で秋吉……、光司と話したのは、ただそれだけだった。
ずっと俺は、優等生の仮面を被り続けていた。
それは全て、弟のためだった。
最初は母親に頼まれて、自分がしっかりしなければと真面目に思っていた時期もある。でもそれは時に酷く苦痛で、仮面を被り続けることに次第に疲れて、やけに道を踏み外したくなり、中学時代にこっそり不良友達とツルんでいたこともある。
けれど決して母親に心配はかけたくないし、弟にもそんな姿は見せられないから、結局何もかも中途半端で、また自分に嫌気がさすだけだった。
だから高校に入ってからは、適度に友人とふざけながら、それなりに真面目に、肩肘張って生きるのはやめようと思ったものの、一度染み付いてしまった習慣というものはなかなか消えない。
それでも少しずつでも、本当の自分を一也に見せていこうと思った矢先……母親が死んだ。
一気にのしかかってくる責任と重圧。外せなくなった仮面。つき続ける嘘ばかりの毎日への罪悪感。
それでも絶望せずにいられたのは、やはり弟の存在があったからだ。
一人ではないという事実が、俺に支えをくれたのも確かだった。
そんな話を時折、ポツポツとしながら、たまに一緒に屋上でサボる仲になった光司は、大抵黙って耳をむけているだけだ。
「な、今度うちに遊びに来ねえ?」
「うちって……おまえの家、どこだよ?」
「グリーン・ウッド」
「おまえ寮生だったのか?!」
意外な光司の言葉に、俺は目を見開いた。
グリーン・ウッド。本来の名は「緑林寮」。
地方から通う緑都学園の生徒が主に暮らす場所だが、校内では変人の巣窟とも語られ、有名だ。
まさか光司が寮生だったとは思わなかった俺は、しかしすぐに納得できたような気がした。なるほど、あのグリーン・ウッドの住人じゃ、変わってもいるはずだ。
「寮って、遊びに行ってもいいのか? 同居人とかいるんじゃねぇの?」
「うちの同居人、寝る時間しか部屋にいねぇから、いいよ別に」
「ふーん……じゃあ、行ってみようかな。一度入ってみたいと思ってたし」
「じゃ、行くか」
「……って、今からか?!」
まだ4時限目の途中なんですけど。
しかし構わず歩き出す光司の後を、気がつけば俺は自然と追いかけていた。
古びた建物の塀を超え、窓からそっと侵入し、俺はグリーン・ウッドの中に初めて足を踏み入れた。
平日の昼間に入り口から堂々と入るのはさすがにマズいらしく、寮母さんの目を盗んでの侵入だった。
少しきしむ廊下。中身も相当大時代だ。けれど不思議と心地好い空気を感じた。211と書かれたプレートが下げられた部屋のドアを開け、光司はその部屋に俺を迎え入れた。
造りつけの二段ベッドと、机が二つ並ぶ、狭い部屋だった。
こんなところで男二人暮らしか、と思うと、実に不便そうでもある。しかも、相当暑い。もちろんエアコンなんかないので、窓から入ってくる風に頼るしかない。
「狭いけど、けっこう楽しそうだな。男子寮って。俺も入ってみたかったかも」
「入りゃいーじゃん」
またしても当然のように軽い口調で言う光司に、俺は目を据わらせた。
「入れるわけないだろ、弟置いて」
「また、弟かよ。つくづくおまえの世界って、弟中心なんだな」
光司は窓を開きながらそう言うと、下段ベッドに腰をおろす。
「仕方ないだろ、他に頼れる人もいないし」
「だったら施設に入れるとか、すれば?」
その言葉に、俺は小さな苛立ちを感じた。
そんな事、出来るハズがない。どこまで脳天気なのだろう、こいつは。
「たった一人の弟だぞ」
「弟ったって、別におまえが作ったわけじゃなし、面倒見る義務なんてないんじゃねーの?」
光司の言葉に、咄嗟に返す言葉が思い浮かばなかった。
「本当はさ、ウザいんだろ? 弟の事。なんで俺が面倒見なきゃならないんだって、おまえだって思ってんだろ?」
「そんな事、思ってねーよ!!」
思わず俺は声を荒げていた。
「ほら、図星じゃん。無理すんなよ。別に弟捨てたって、誰もおまえのこと責めやしねーから」
「おまえに……っ」
俺は立ち上がると、光司の胸倉を掴み、睨みつけていた。
「おまえに何が分かる?! いつも自分の事だけ考えてれば良くて、脳天気に生きてる奴に、何が……!!」
感情的になっていることは、自分でも分かっていた。
けれど抑えることが出来なかった。
それが、図星をさされたからだと、認めたくなくて。
「分かりたくもないね」
口の端に笑みを浮かべる光司に、不意に腕を掴まれた。
思い切り引き寄せられ、視界が回る。俺はベッドの上に背をついた。
「無理すんなよ。見てて痛々しいんだよ、おまえ」
どこまでも俺を追い詰めてくる光司のその言葉に、俺の頭に中に、走馬灯のようにこれまでの生活が蘇る。
朝六時前の起床。
弟に、何を食べさせようかばかり考えている毎日。
宿題を見てやって、風呂に入れて、寝かしつけて。
やってもやってもキリがない家事に追われて、やっと眠れると思ったら、夜中に泣き続ける弟。
なんで、俺ばかりが……?
どうして、あいつを残して、両親は逝ってしまったんだ……?
「違う……!! 無理なんて……!! 俺は、あいつが……!!!」
そう叫んだ瞬間、俺はこめかみに暖かいものが伝うのを感じた。
信じられなかった。
自分が泣いているなんて。
母親の葬式ですら、泣く事も出来なかったのに、どうして今頃になって、涙なんて……。
「もう……やめてくれ……」
俺は両腕で顔を覆いながら、光司に訴えた。
頼むから、これ以上、気づかせないでくれ。
ずっと誤魔化していた自分を。
こんな最低な、偽善者でしかない自分を。
「一弘」
光司の低い声と共に、そっと腕を掴まれる。
そして、唇に触れる暖かい熱を感じた。
「好きなだけ、泣けよ。そうした方が、きっといいんだ」
そう言って、もう一度、そっと触れるだけのキスをされて、俺は目を閉じた。
閉じた瞳から、いくつも涙が溢れて、止まらなかった。
ずっと、こうやって泣きたかった。
でも泣けなかった。
弟が、いたから。
俺よりずっと幼くて、弱くて、泣き虫で……俺が守ってやらなきゃ、あいつは生きていけない。
他には誰も、いないのだから。
でも……じゃあ、いったい誰が、俺のことを守ってくれるのだろう……?
怖くて寂しくて辛くて、ずっと叫びたかった。いや、心の中でずっと叫んでいた。
助けてくれって、ずっと誰かに向かって。
そんな時、まるで俺の叫びを聞いたかのように、おまえは俺の名前を呼んだ。。
「こう……じ……」
目を閉じて、俺はただひたすらに彼に身を委ねた。
光司の腕に抱かれているその感覚は、酷く心地好くて優しくて、俺をこの場から離れられなくする、強い力だ。
「……ん……っ」
「一弘……俺、おまえが……」
何かを耳元で囁かれたけれど、痛みと熱が、俺の意識をその声から遠ざける。
すがらせて欲しい。今は。今だけは。
何もかも忘れて、身を委ねていたい。
絶え間なく襲ってくる熱に浮かされながら、重ねてくる指に自分の指を絡ませる。
ずっと、この手を離したくないと思った。
恋とは違う。
でも友情とも違う。
その不思議な感覚を、どう言葉で表したら良いのか分からないままに、流されるように何度か体を重ねた夏の終わりに、光司は姿を消した。
「秋吉、実家に帰ったんだってな」
「さすがにあんだけサボり続けてたら、退学になって当たり前だよな~」
真相は誰も知らない。
噂ばかりが先走り、元々存在感の薄かった彼は、あっという間にみんなに忘れ去られた。
けれど、俺は……。
「一也、兄ちゃん今日、文化祭の準備で遅くなるけど、待ってられるな?」
「うん」
結局は何も変わらない日々が続き、やがて秋が訪れ、文化祭の準備に追われる頃。
何も踏み出せないまま、俺はやはり、彼の存在を忘れられずにいた。
実家に連絡をとるべきか、何度も悩んでは、連絡したところで会いにも行けないし、弟を放ってはいけないなどと理由をつけては、結局何も
出来ないまま時だけが流れていく。
彼は一体、どういうつもりだったのだろう。
じゃあおまえはどういうつもりだったのかと返されれば、答えなど出てこないから、俺も問う気にはなれなかった。
このまま、忘れていくのだろうか。
彼の姿がぼんやりとしか思いだせなくなっていた頃、突然、彼は目の前に現れた。
「よう、久しぶり」
放課後の校門の前、光司は以前と変わらない笑顔を見せて、立っていた。
「久しぶり」
俺は内心驚愕しながらも、平静を装って、彼の隣に並ぶ。
しばらくそのまま無言で歩き続けた。
気がつけば、緑林寮の目の前に、俺達は立っていた。
「懐かしいな~、我が家に帰ってきたって感じ」
古びた建物を見上げながら、光司は言う。
「帰って……来ないのか?」
俺はそっと尋ねた。
光司は振り返り、返事のかわりに小さく笑った。
「一弘」
俺を呼ぶ、飄々とした、初夏の風のような明るい声。
「頑張って、幸せになれよ。たまには肩の力、抜いてさ」
ニッと笑って、光司はそう言うと、俺に背を向けて片手をあげ、そのまま振り返らずに歩いて行った。
すぐに、追えば良かったのかもしれない。
けれど出来なかった。
この瞬間、確かに自分達は終わったのだと、胸の痛みと共に確かに感じたからだ。
ただ、光司の笑顔の残像だけが、いつまでも鮮やかに、夏の風の香りと共に蘇っては消え、また現れた。
その一ヵ月後、光司が病気で亡くなったことを、教師の口から告げられた。
けれど誰も、その話題を口に出すことはなかった。
きっとそれぞれに、同じ想いを抱えながら。
緑林寮の前に立ち、俺は彼に想いを馳せた。
まだ、彼が死んだなんて信じられなかった。
一ヶ月前、姿を見せた彼は、きっともう自分の行く末を知っていたのだろうと思う。
だから、会いに来てくれたのだ。
俺に最後の言葉を告げるために。
『頑張って、幸せになれよ』
ただそれだけを、言うために。
不意に、涙が頬を伝った。
どうして、大切なものは、いつも失ってから気づくのだろう。
どうしてあの時、追いかけて、捕まえなかったのだろう。
言えば良かった。
ちゃんと、伝えれば良かった。
(好き……だよ……っ)
止まらない、涙。
好きだよ。
ずっと……ずっと、初めておまえが俺の名前を呼んだあの時から、好きだったんだ。
「光司……っ!!」
もう、二度と会えない。
触れることもできない。
(好きなだけ、泣けよ。そうした方が、きっといいんだ)
どうして、逝ってしまったんだ?!
俺に、寂しさと孤独と、泣くことだけを教えて。
それなのに、おまえがいなかったら、いったい誰がこの涙を止めてくれるんだ……?!
「こう……じ……っ」
塀の壁に頭を押し付けて、俺は涙を止めようともせず、ただバカみたいに泣き続けた。
はにかむような、彼の笑顔。
飄々とした、捕えようのない自由さ。
まっすぐで、曇りのない瞳。
揺ぎ無い強さ。
全てに焦がれ、惹かれ……愛していた。
高校ニ年生の夏。
それは永遠に俺の中で消えることはない、色褪せない記憶。
重い足どりで家にたどりつくと、俺は小さく深呼吸した。
一也の前では、いつもの俺でいなければ。
大丈夫。
笑顔を造り、家のドアを開いたその時、何やら焦げ臭い匂いが漂ってきて、俺は慌てて家の中に駆け込んだ。
「一也?!」
「あ……」
すると机の前に座り込んで、今の今まで泣いていたらしく目を赤くした一也が、俺を見上げてまた顔をうつむけた。
よく辺りを見回すと、台所が滅茶苦茶になっていて、コンロの上に置かれた鍋にどす黒いものが入っていた。そばにカレー粉の空き箱があるところを
見ると、どうやらその物体はカレーのようだ。
「ごめ……ごめんなさい……っ、おれ、ごはん作ろうと思って……っ」
俺に怒られると思ったのか、泣きながら一也は訴えてくる。
見ると指には絆創膏が貼られていて。いったいどれだけ悪戦苦闘して、この黒い物体を作り上げたのだろうと思ったら、悪いけれど可笑しさと、愛しさが同時にこみ上げてくる。
「美味そうだな。食おうぜ一也」
「え……」
「んな顔すんなっ。俺のために作ってくれたんだろ? ありがとな」
「うー……」
顔をぐしゃぐしゃにして抱きついてくる一也の頭を、掻き毟るように撫でてやる。
きっともう鍋は使い物にならないし、後片付けも夜中までかかるし、明日は腹を壊す覚悟もしなきゃならない。でもまあ、学校なんてちょっとくらい休んだって、たいした問題ではない。
照れくさそうに俺から離れる一也の頬をつねってからかいながら、俺は確かに笑っていた。
「先生、お腹が痛いんです」
「はいはい、寝てなさい」
呆れながらも柔らかく微笑む保険医に笑いかけ、俺はベッドの上に横になって布団をかけた。
昨日は遅くまで、一也が学校に持っていかなきゃならない雑巾を縫っていたせいで、すっかり寝不足だ。やっぱ人間、寝ないと駄目になる、という理由で、俺はすっかり保健室の常連だ。
そんな俺を、仕方ないと諦めながらも、たまに世間話をしてくれる保険医は、もういい年をしているだけあって、不思議に安心して何でも話せる相手になっていた。ただし、いくら年配といってもやっぱり女性なので、男ならではの悩みはどうしても打ち明けることは出来ないのだけど。
そう思ったら、なんとなく、こういう仕事っていいかもなって思った。
将来は弁護士辺りを目指す予定だったけれど。
たまには肩の力抜いて、好きなように生きていくのも、悪くないかもしれない。
(頑張って、幸せになるか……)
心の中で呟きながら、俺はゆっくり目を閉じた。
「……おい……おい! おっさん!!」
突然、後頭部に強い痛みが走って、俺はハッと目を開いた。
「いいご身分だよなぁ、保健室で日向ぼっこって」
「光流君、先生をなんだと思ってるんだね?」
仮にも生徒でありながら、教師をぶっ叩くとは何事か。
「あんたの弟が昨夜から腹痛で苦しんでるから、薬もらいに来たんだよ」
しかしまるで態度を変えず、光流は呆れた風に言った。
「なんだ、あいつまたストレスか?」
棚を開いて薬を探しながら、俺もまた呆れずにはいられなかった。
まったくデリケートな奴だ。もうちょっと肩肘張らずに生きればいいものを。
……って、そう育てたのは、俺か。
「ついでにちょっと寝かせてもらうぜ~」
光流は軽い口調でそう言うと、ベッドの上に寝転がった。
全く、どっちがついでなんだか。
あっという間にいびきをかき始める光流をよそに、残っていた仕事をしようと椅子に座ると、また保健室のドアが開いた。
「失礼します」
「おう、相棒なら寝てるぞ」
俺が言うと、手塚は仕方ないようにため息をつき、ベッドに歩み寄り、いびきをかいている相方の頭をしたたかに殴りつけた。
「今日は生徒会の劇の練習だぞ。起きろ」
「いでっ!!」
「すみません、すぐ連れて行きますから」
「寝かせろ~鬼~っ!!!」
にっこり微笑む手塚にズルズルと引きずられ、賑やかな常連が去っていった。
えーと……確か一也のために薬をもらいに来たのではなかったのかな?
胃薬を片手にそんなことを思いながら、俺は残りの仕事にさっさと手をつけた。
仕方ない、仕事が終わったら寮まで届けてやるか。
グリーン・ウッド。
十年前と少しも変わっていない古びた建物を前にするたび、思い出さずにはいられない。
まさか、一也がこの寮に入って、しかもあの部屋の隣に住むことになるなんて、思いもしていなかった。
「あら蓮川先生、弟さんに御用?」
「はい、失礼します」
正面から入って廊下を歩くと、床のきしむ音が響き渡る。
学校から帰ってきた生徒が数人、バタバタと階段を駆け上がっていった。
「おーい一也、いるか~?」
「弘に……一弘!! 何でここに?!」
ベッドの上段で眠っていた一也が、起き上がると同時に目を見開いて俺を見た。
そこまでビビらんでも良いと思うんだが。
「お兄ちゃんが、薬届きに来てやったぞ~」
部屋に足を踏み入れ、からかうように言うと、拗ねた素振りを見せて布団をかぶる。
「い、いいよここまで来なくたって! 全然平気だし!!」
「あ、そう? 退屈かと思って、雑誌とか買ってきたんだけどな。まあこれでも読んでおけ」
俺は薬と一緒に買ってきた雑誌をポンとベッドの上に置くと、部屋を出てドアを閉めた。
三分ほど、その場で待つ。
「ひ……弘兄~~~っ!!!!」
何やら甲高い声が、ドアの向こうから聴こえてきた。
たぶん今頃、鼻血吹いてるだろーなぁ。けっこう凄まじい内容のエロ本だったから。
久しぶりにからかって満足したところで、俺は廊下を歩き出す。
不意に、誰かが横切るような気配がして、振り返った。
しかし、そこには誰もいない。
ふと、211号室のプレートが視界に映る。
一瞬、残像が蘇った。
今もなお鮮やかに記憶に残る、あの夏の香りと共に。
俺は211号室に背を向けると、また一歩足を踏み出した。
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