ただいま
とある晴天の日の穏やかな日曜の午後。
「あれ……」
窓の外から一匹の猫が軽やかな動作で部屋の中に飛び降りてきて、机に向かっていた蓮川が立ち上がった。
「おまえ、野良猫? ここは入って来たらダメだぞ」
蓮川は猫に向かって声をかけるが、スラリとした体型にブルーグレーの綺麗な毛並みをした猫は、いかにも気位の高そうなエメラルドグリーンの瞳を蓮川にチラリと向けただけで、何食わぬ様子で下段のベッドに寝転がった。
「あ、ダメだっつの! 早く出てけって!」
咄嗟に蓮川は猫を抱き上げる。猫は落ち着いた様子で、じっと蓮川を見据えた。
「ここはペット厳禁なの、ほら出てけ」
しかし猫は窓の外に放り出そうとする蓮川の手をスルリと抜け出し、またトンと床に足をつける。
蓮川が困ったように眉をしかめたその時、部屋のドアが開いた。
「たっだいま~……あれ? なんで猫がいるの?」
コンビニの袋をぶら下げて帰ってきた瞬が、床の上の猫を見るなり目を丸くした。
「勝手に入ってきて、出てってくんねーんだよ」
「可愛い~! 君、どこの子?」
瞬は猫の前に座り込むと、優しい口調で声をかける。猫は姿勢よく座ったまま瞬の顔を見上げた。
「可愛いかぁ? なんか生意気そうな顔してねぇ?」
「綺麗な猫じゃん。どこかの飼い猫だろうから、そのうち勝手に出て行くって」
「あ……雄だ」
乱暴に抱き上げた蓮川の顔を、猫がバリバリと勢いよく引っ掻いて、蓮川は咄嗟に手を離した。
「い……ってぇ!!! やっぱ可愛くねぇ!!!」
蓮川は怒りの声をあげ猫を捕まえようとするが、軽々と避けられ上段のベッドから毅然と見下ろされ、蓮川はますます悔しげに猫を睨みつけた。
「無理やり抱いたりするからだよ。怖くないからおいで~」
呆れたように言い放ち、瞬がベッドに歩み寄って猫に手を差し伸べる。少し考えて、猫はそろそろと瞬の腕の中に飛び込んだ。
「ほら、良い子でしょ? よしよし、もう大丈夫だよー」
瞬が頭を撫でると、猫は目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。蓮川は面白くなさそうに口をとがらせ、ノートを手に部屋を出て行こうとする。
「光流先輩ならさっき部屋にいなかったよ?」
「忍先輩も?」
「うん。二人ともどっか出かけてるみたい……あ」
言った途端に、隣の部屋のドアが開く音がして、二人はすかさず自室のドアを開いた。
「光流先輩!」
「あ?」
自室のドアに手をかけた光流が、蓮川の声に咄嗟に振り向いた。
「数学の問題、解らないとこがあるんですけどー……」
「しゃーねーな、持って来い」
面倒臭そうに言って、光流はさっさと自室に入っていく。蓮川が慌ててノートを持って行き、瞬も猫を抱いたままその後に続いた。
「なんだよ、その猫」
怪訝そうに光流が猫に目を向ける。
「遊びに来たみたい」
「寮母さんに見つからないようにしろよ」
言いながら床に腰を下ろすと、蓮川と瞬もテーブルの周りに腰を下ろした。
「あ……」
ふと、猫が瞬の腕の中をすり抜け、光流の膝に手をついて、光流の顔をじっと見据える。
「こっち来るか?」
光流は優しく微笑むと、ひょいと猫を抱き上げた。
「おまえ雄? 雌?」
確認するため股間を覗き込むと、いきなり片手でバリッと顔を引っ掛かれる。
「いてっ!」
光流は顔をしかめて手を離した。猫が毛を逆立てて威嚇する。
「雄でしたよ、さっき見たら」
「もー、同じことしないでよ。雄でも雌でもどっちでもいいじゃん」
「でもなんか確認したくなんねぇ? 悪かったって、もうしねーから」
光流は苦笑しながら猫にむかって言った。
猫は目を細めると、やっと毛を落ち着かせて、光流の膝の上に乗り身を丸くする。
「やっぱ飼い猫だね、こんだけ人に懐いてるってことは」
「飼い主のしつけ悪いんじゃないか? この見るからにふてぶてしい態度」
引っかかれたことをまだ根に持っているのか、蓮川は猫を睨みつけた。そんな蓮川を、猫はまるで相手にしていないようにフイと顔を背ける。蓮川の額にますます青筋が立った。
「俺、ちょっとトイレ」
三十分後、光流がそう言って膝の上で眠っていた猫を抱き上げ床に下ろし、立ち上がる。不意をつかれて目を覚ました猫が、何を思ったか咄嗟に光流の背中に飛びついた。
「わ……っ、なんだよおまえ!? トイレ行ってくっから待ってろって!」
光流は身をよじって猫を引き離そうとするが、猫は光流の肩にがっしり手をかけて離れようとしない。
「光流先輩、すっかり懐かれちゃったね~」
面白そうに瞬が笑い声をあげた。
「腹減った~、なんかねぇ?」
「酒のつまみのスルメくらいしか……」
午後3時、机の上に突っ伏す光流に、蓮川が部屋の隅にあったコンビニの袋をガサガサと開きながら言い、中に入っていたスルメやイカのおつまみをテーブルの上に広げる。
そんなものでも多少は腹の足しになるかと、三人は酒のつまみを手にとった。
「おまえも食うか?」
相変わらずベッタリ光流の膝の上に丸まっている猫に、光流はスルメを差し出す。しかし猫はまったく興味ないというようにスルメから顔を背けた。
「おなか空いてないのかな? あ、チーズあるよ、食べる?」
「おま……っ、それはとっておきの北海道土産高級カマンベール!!」
「あ、食べた食べた~」
「ぜ、贅沢なヤツ……っ」
大事にとっておいたらしい高級チーズを食べられて、光流と蓮川が「もったいねー!!」と抗議の声をあげるが、瞬と猫は平然としたものであった。
「しっかし暇だよな~……」
「忍先輩はどっか出かけてるんですか?」
「そーいや朝からいねーな」
「今頃気づきます?」
「先輩たちって仲良いのかそうでないのかよく解らないよね」
「あいつがどこに行こうが、いちいち気にしてられっかよ……って!!」
突然、猫に思い切り頭をガツンと押し付けられ、光流が眉をしかめた。
「なにおまえ、構ってほしいの?」
眉間にしわを寄せながら、光流は猫を抱き上げてじっとその顔を見据える。グリーンの瞳が何か言いたげに光流の目を見つめ、それからいきなり頭に飛びつかれて、光流は床の上に倒れ込んだ。しかし猫は構わず、光流の髪の毛に手を絡ませる。
「いてっ、いてーっって!!」
「遊んでる遊んでる~、可愛い~っ」
「すっげー迷惑行為……」
どうやら猫は遊んでいる様子だが、髪を引っ張られまくっている光流にとっては非常に有難くない行為である。
「いてーっつの! いーかげんにしろっ!!」
さすがに我慢の限界のようで、光流は起き上がると猫の首根っこを掴んで睨みつけた。
「おまえもう帰れよ、飼い主待ってんぞ」
そう言って光流は窓を開けて猫を外に追い出そうとするが、猫は外に出るどころか光流の机の上に乗っかると、いきなり両手でバリバリと机を引っかいて爪を研ぎ始めた。
「わーっ!! わかった! わかったからそれはやめろっ!!!」
慌てて光流が制止すると、猫はあくまで怒った様子で机の上から飛び降り、下段のベッドの上に飛び乗ってシーツの上に丸まった。
「ほんっとふてぶてしいですね……」
「ま、そのうち帰るだろ」
光流は小さくため息をついた。
「僕たちもそろそろ戻ろうよ、スカちゃん」
「そーだな。じゃあ光流先輩、失礼します」
「おう」
オレンジ色の夕日が窓の外から部屋を照らし、強すぎる西日が眩しくて光流がカーテンを締めようとしたその時、「なぁ」と小さな声をあげて足元に猫が擦り寄ってきた。
光流はふっと微笑して、ブルーグレーの猫を抱き上げる。
途端、またガツンと頭を押し付けられて、光流は顔をしかめた。しかしすぐに今度は頭をすりつけられ、なんだ甘えていただけかと、光流は猫を抱きながら窓の外を見つめた。
「あいつ、早く帰ってこねぇかな……」
ぽつりと光流が呟く。
夕日に照らされる、どこか寂しそうな瞳。
エメラルドグリーンの澄んだ瞳が、まっすぐに光流の顔を見つめる。
「ん……」
くすぐったい感覚が頬に走り、光流が猫に目を向けたと同時に、猫は光流の腕の中からすり抜け床の上に飛び降りた。
「……帰るのか?」
優しい声で光流が言うと、猫は軽々とした動作で窓のサンに飛び移り、そのまま光流に背を向けて窓の外に飛び出して行った。
勝手なヤツ。
心の中でそう呟いて、光流はゆっくり窓を閉めた。
空が暗くなり始めた頃、自室の扉がゆっくりと開く。
「おかえりっ!!」
突然ガバッと抱きつかれ、忍の足がわずかによろめく。
「もー……遅いっ、どこ行ってたんだよ!?」
「どこに行こうが勝手だろう?」
忍はあくまで怜悧な顔つきで、光流を引き離して机の椅子に腰を下ろした。
光流がムッと口をとがらせる。
「……おかえり」
それでも気を取り直して背後からそっと抱きつくと、忍はやっぱり落ち着いた声のまま言った。
「……ただいま」
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