STEP
彼は例えるなら、一輪の白い薔薇。
気高く美しく咲き誇る、穢れを知らぬ一輪の白薔薇。
一度でいい。僕はその薔薇に触れてみたい。
けれど薔薇には棘がある。
ああ、何故にあなたはそうも美しい姿でありながら、誰をも寄せ付けない棘を張り巡らせているのですか?
「全部声に出てんぞ、布施」
教室から窓の外を眺めながら物思いに耽っていた僕の耳に、ふとクラスメイトの芥川の声が届き、僕は一瞬にして夢の世界から現実に引き戻された。
「何が一輪の白薔薇だよ、いいかげん目ぇ覚ましたら?」
「う、うるさいっ!! 人が何を思おうと勝手だろ!?」
僕はおもいきり芥川を睨みつけた。
せっかくあの人の姿を鮮明に想い描いていたところだったのに、邪魔するなっつの。
一気に不愉快な気分にさせられ、自分の机の上のカバンを手にとり、さっさと下校しようとその時だった。
「布施くん」
ふと前方から届いた聞き覚えのある声に、僕は咄嗟に前を向いて目を見開いた。
「良かった、探していたんだよ」
「て、手塚先輩……!!!」
まさについ先ほどまで頭の中で想い描いていた人が、鮮明な姿をもって目の前に現れ、僕は一瞬にして胸の鼓動が高まるのを感じた。
ぼ、僕を探していた?! 手塚先輩が?!
思いがけない信じられないほどの幸福に、熱い気持ちで満たされる。
「君に頼みたいことがあってね」
手塚先輩は僕の目の前に立つと、穏やかな微笑を浮かべながら言った。
「はい、何でも仰って下さい!!」
思わず鼻血吹きそうになるほどの興奮を必死で抑えながら、僕は応えた。
「実は今度の文化祭に生徒会役員で劇をすることになったんだが、人数が足りなくてね。君に出演してもらいたんだが、どうかな?」
「そ、そんなことならお安い御用です!!」
「そう、良かった。助かるよ、どうもありがとう」
そう言って、手塚先輩はにっこりと微笑む。
「詳しいことはまた明日話すから、放課後生徒会室まで来てくれたまえ」
「分かりました!!」
鮮やかに身を翻して去っていく手塚先輩の後姿を見送ったあと、僕は抑えきれない興奮のままに芥川の襟を掴んで口を開いた。
「き、聞いたか!? あの手塚先輩が、僕に直々の頼み事を!!」
「あー……良かったな。たぶん利用されてるだけだけど」
「もしかして結構脈アリじゃ!?」
「それは違うと思うなー、利用されてるだけだっておまえ」
「くー……っ、先輩ってば、言ってくれれば僕はいつでもその胸に飛び込んでいくのにっ!!」
「聞いてねー……。つかおまえ、何でそんなに手塚先輩が好きなの?」
「は!? おまえバカか!? おまえにはあの人の魅力が分からないと!?」
何でもクソもあるか!!
あんなカッコよくて優しくて完璧な人に、魅力を感じない人間の方がどうかしている。現に我が校ではカリスマ的存在で、生徒会役員をはじめ、彼を崇め奉っている人間は大勢いるんだ。
「いや確かに凄い人だけどさー、正直俺はちょっと苦手だな」
けれど芥川は、眉をしかめながら言った。
「なんつーか、目が笑ってねーじゃん。いかにも造りましたって感じのあの笑顔がなー……」
「失礼なことを言うなっ!! 多忙な身でありながら、誰にでも微笑みを絶やさないあの優しい心遣いがわからんのかおまえは!!」
「優しい……ねえ。まあ、おまえが想うぶんには勝手だけど、あんまいいように利用されんなよ?」
なにやら呆れた風に芥川は言うが、僕はその言葉を右から左へ聞き流した。
そんなことより手塚先輩から頼みごとをされたことの方が嬉しくて嬉しくて、ただひたすらに胸がときめくばかりだった。
翌日、劇の台本を手渡され、僕はさっそく自分の役のセリフを頭に叩き込むため、放課後教室に残って毎日のように台本に目を通して役作りを始めた。
「あー……なるほど、女役探してたってわけか。確かにおまえなら適任だわな」
不意に台本を取り上げられ、僕の引いた赤線のセリフに目を通し、芥川が頷きながら言った。
「お、女役だろうが何だろうが、手塚先輩の頼みなら完璧に引き受けて見せる! 返せ!!」
「でも主人公じゃねーんだ? この主人公の女役は誰がやんの? まさか手塚先輩……」
「なわけないだろっ!! 主人公は……アイツだよ、池田光流」
僕は忌々しさを覚えながらも、できることなら口にもしたくないその名前を口にした。しかしやはり苛立ちを押さえきれない。
「ああ、緑都クイーンの、あの池田先輩。そりゃ成功間違いなしだな、この劇」
「うるさいっ!! 緑都クイーンだかなんだか知らないが、なんであいつがしゃしゃり出てくるんだっ!!」
「なんでおまえ、そんなに池田先輩嫌いなんだよ? 普通に良い人じゃん」
「は?! あんな顔も良くて頭も良くてスポーツ万能で人望もある人の、どこが良い人だって?!」
「いや、褒めてるだけだからソレ」
「手塚先輩と同室というだけでもクソ忌々しいのに、何であんな人を主役になんか!! 僕の方が絶対に完璧に演技してみせるというのに!!!」
思い出しただけで腹が立つ。あの池田光流という男。
いつもいつも当然のように手塚先輩の隣に居座り、朝から晩まで行動を共にしている池田光流という男に、僕はもうずいぶん前から忌々しさばかりを覚えていた。
寮で同室というだけで手塚先輩のすべてを独占して当然というようなあのふてぶてしい面構え。寮で毎日生活を共にしているくせに、クラスは別なのに学校でも休み時間や昼食時はいつも一緒にいて、あまつさえ放課後もほとんど一緒に寮まで帰宅するというあの密着ぶり。許せない。絶っっ対に許せない。
「おのれ池田光流!! 今回の劇だけは絶対に負けないぞ!!!」
「ライバル視してるのおまえだけだって多分」
胸に燃え滾る熱い手塚先輩への想いを形にすべく、僕は必死で頭の中にセリフを叩き込んだ。
「池田先輩、またセリフ間違えてます!! 何度言ったら解るんですか!?」
「あ~……悪ぃ悪ぃ」
「いいかげん覚えて来て下さい!! おかげでちっとも前に進まないじゃないですか!!」
「わかったよ、明日までには完璧に覚えてくっから」
何度練習しても完璧にセリフを言えない池田先輩を前に、僕は苛立ちを隠しきれなかった。
まったく……なんでこんな人が主役なんだ。ちっともヤル気ないじゃないか。
「まあ仕方ない、今日のところはこれで終わりにしよう」
「はい……」
僕としてはもう少し練習したいところだったけど、手塚先輩にそう言われては頷くより他はなかった。
「忍~、疲れた~。もう帰ろうぜ~」
池田先輩はうなだれながらそう言うと、手塚先輩の肩に寄りかかる。
途端にまたイラッときて、僕は手塚先輩に詰め寄った。
「先輩っ、衣装のことでご相談したいんですが!」
僕は池田先輩から引き離すように手塚先輩の腕を掴んだ。そして掴んでから、手塚先輩に気安く触れていた事に気づき、慌てて手を離す。
「あ……す、すみません!」
「構わないよ」
手塚先輩に優しい微笑みを向けられる。
たぶん僕の顔は真っ赤になっていただろう。たぶんバレバレなんだろうなって自分でも解っているけれど。
「あの……先輩」
「何だい?」
「……僕、頑張ります! 完璧に女役、演じてみせますから!!」
「うん、期待しているよ……布施くん」
そう言うと、手塚先輩は静かに目を伏せて、僕の髪にそっと手を伸ばしてきた。
途端に鼓動が大きく高まって、息苦しいほどの圧迫感に襲われる。
「大丈夫? 布施くん」
「は……はい……っ」
思いっきり手塚先輩から顔を背けながら口元を押さえ、今にも流れ出しそうな鼻血をこらえたのだった。
その一週間後、無事に文化祭を終え、僕は完璧に女役をこなしたものの、観客の視線はといえば常に池田先輩に釘付けだった。
「くそー池田光流!! どこまでも忌々しい奴!!!」
「仕方ねーじゃん、まじ綺麗だったもん」
芥川の言葉に、僕は肩を震わせる。
ああ確かに綺麗だったさ! テレビに出てるアイドルも女優も顔負けの美しさだったさ!! そのうえセリフは完璧、見事なまでの演技、その後のファンサービスまで怠ることなくきっちり対応!!
「あいつ……絶対、人間じゃない……っ」
「だよなー。あそこまで完璧だと、逆にちょっと怖ぇよな」
「だろ?! やっぱ変だろ?!」
「いやでも、良い人だと思うぜ? 少なくとも手塚先輩よりは」
「は?! 手塚先輩の方が100倍良い人に決まってんだろ!!」
「だからおまえ利用されてるだけなんだって」
「僕は騙されないぞ絶対に!! あの池田光流という奴の真の素顔、絶対に暴いてやる!!」
「聞いてねー……」
翌日から早速、池田先輩と親しい人達を通じて得意の情報収集を試みるものの、池田先輩の評判はやはり良いもので。
みんな、あいつには借金があるだの横暴なところはあるだのと文句を連ねながらも、最後にはやっぱり「良い奴だよ」で終わり。つまりやっぱり池田先輩は「良い人」であるらしい。
「はぁ……」
いいかげん聞く相手もいなくなり、放課後の教室で情報を集めたノートを閉じ、僕は深くため息をついた。
これといった弱みもまるで無しだし、やはり僕に叶う相手ではないのだろうか。
そのままうなだれながら教室を出て校舎の外に出ると、見慣れた手塚先輩の後ろ姿を大きな桜の樹の下に発見し、すぐに駆け寄ろうとしたその時だった。
ふと何かに気づいたように手塚先輩が顔を上げ、その瞬間、僕はその場から動けなくなった。
「光流」
数メートル向こうから歩いてきた池田先輩に、手塚先輩が声をかける。
今まで僕が見たこともないような、優しい笑顔で。
そんな手塚先輩の声に気づいた池田先輩が、やっぱり今まで見たこともないような酷く落ち着いた微笑を浮かべながら、手塚先輩が歩み寄ってくるのをその場で待って、そばに来るなりそっと手塚先輩の髪に手を触れた。
近付くことは出来なかった。
まして、あの劇の練習の時のように、間に割って入ることなんて。
どうしてかは、分からなかった。
ただ凄く、胸が痛くて。
どうしようもなく痛くて、痛くて……自分でも知らないうちに、頬に涙が伝っていた。
だって、初めて見たんだ。
あんな風に、心から幸せそうに微笑む手塚先輩の顔を。
愛しくてたまらないように、優しく手塚先輩に触れる、池田光流の本当の顔を。
知らなかった二人の顔が、あまりに今までとは違いすぎていて。
そしてそれは、今まで知っていた二人の顔よりも、ずっと、ずっと、綺麗で、優しくて。
涙が止まらなかった。
(そうだよ……)
芥川……ずっと、分かってたよ。僕にだって。
手塚先輩が僕に向ける笑顔が、偽りのものでしかないことくらい、ずっと分かっていた。
利用されていることくらい、ずっと知っていた。
それでも、ほんの少しくらいは、信じたかったんだ。
僕が彼を想う気持ちの千分の一でもいいから、彼も僕を想っていてくれるって、信じたかったんだ。
頬を濡らす涙を袖で拭って、僕は踵を返してその場から歩き出した。
悲しくて、痛くて、辛くて、寂しくて、どうしようもなく悔しくなった。
ずっと僕を利用していた彼になのか、それとも僕自身になのか、分からない。
ただこの瞬間、僕の中の何かが終わったんだと、胸の痛みと共に確かに感じていた。
「布施……何かあったのか?」
「え? いや……別に何も?」
4時限目の終わりに芥川に尋ねられ、僕は素っ気無い返事だけをかえして、学食にむかうため教室を出た。
たいして食欲もないままうどんをすすっていると、賑やかな声が耳に届く。
「光流先輩っ、また俺のおかず盗りましたね!?」
「余所見してるからだよ、スカちゃん」
「だからって勝手に……あ! 忍先輩までっ!!!」
「ほんと隙だらけなんだから」
グリーン・ウッドの有名人達。
チラリと目を向けたけれど、特にもう何も感じなかった。
そんな風に時間だけが流れ、何だかいろんなことに疲れて何もヤル気の起きないまま、その日もいつものように教科書をカバンに詰めて椅子から立ち上がった時だった。
「布施」
声をかけられ振り向くと、そこには芥川が妙に真剣な顔をして僕を見て立っていた。
「なに?」
「バカ」
「は?」
「バカだっつってんだよ」
「だから……なに? 喧嘩売ってんの?」
突然のわけのわからない言葉に、さすがにムッときて睨みつけると、芥川は目を逸らさないまま口を開いた。
「どーせまたつまんねーことで悩んでんだろ、バカ」
「……バカ言うな」
「うっせーバカ。バカはバカらしく、いつまでもうじうじしてんな」
あまりに人を見下したその態度に、途端に頭に血が上って、僕は芥川の胸倉を掴みあげた。
「ああバカだよ!! おまえの忠告も聞かずに勝手に盛り上がって勝手に信用して、勝手に傷ついてるバカだよ僕は!!」
「よく分かってんじゃねーかよ、このバカ!!」
「バカバカ言うんじゃねー!! 人をバカっていう奴が一番バカなんだよっ!!」
「バカバカバカバーカ!!!」
ひとしきり怒鳴り合った後、僕は芥川の胸倉を離して、それから二人一緒に大きく息をついた。
「ほんと……バカ」
僕はぽつりと呟いた。
いや、それも分かってたけど。
分かってたけど、こんだけ言われると、さすがにクる。
「バカだよな……」
そう思ったら、込み上げてくる涙をこらえきれなくて、僕はその場に座り込んだ。
座り込んで組んだ腕に顔を埋めて、ずっとずっと、泣き続けた。
芥川は何も言わず、ただ黙ってそばにいた。
やっぱりこのままじゃ、ダメだ。
ちゃんと、前に進まなきゃ。
「芥川、決めた。僕、手塚先輩に告白してくる!」
「は?! おまえバカじゃねーの?!」
翌日の放課後、ガッツポーズを作って意気込む僕に、芥川は即効で眉をしかめて突っ込んできた。
「どーせフられんの分かってんだろ?」
「だからフられに行くんだって」
笑って言った僕に、芥川はやっぱり納得がいかないという顔をする。
「バカじゃねーの? 傷つくの分かってんのに、告白とかって。ただの自己満足じゃん」
「いいんだよ、それで」
きっぱりと僕は言った。
「だって、傷ついて泣いた方が、気持ちって軽くなるんだ」
僕の言葉に、芥川は一瞬目を見開いて、それでもやっぱり納得いかないように僕から顔を逸らす。
「……やっぱおまえ、バカだよ」
そして小さく呟いた。
その目が心なしか潤んでいて、思いがけない芥川の表情に、僕は驚きを隠せなかった。
「芥川……」
「こっち見んな、バカ!」
僕がじっと見据えると、芥川は更に目を潤ませて、口元に手の甲をあてる。
急に胸に暖かいものが込み上げてきて、僕はそっと、芥川の目元に指を寄せた。
「もしかしておまえ、ずっと僕のこと好きだったの?」
「ば……っ!」
途端に芥川が耳まで顔を真っ赤にする。
「んなわけねーだろっ! おまえなんか全然、好きじゃねーよ……っ!」
目にいっぱい涙を溜めながら、真っ赤になった顔を背ける芥川に、僕は驚くより先に苦笑してしまった。
なに、こいつ。
ずっと、嫌な奴、なんて思ってたけど。
こんな……可愛い奴だったんだ。
「ごめん、芥川」
僕はそっと芥川の涙を指で拭って、静かに声を発した。
「今からフられに行ってくる。そんで……ちゃんと、おまえのこと考えるから。……待ってて」
なんだか酷く綺麗に見える芥川の瞳をまっすぐに見つめてそう言うと、僕は芥川に背を向けて、教室を後にした。
ごめんな、芥川。
ずっと自分の気持ちばかりで、周りのことも、大事なことも、なんも見えてなかった。
やっぱりこのままじゃ、ダメだよな。
バカはバカなりに、ちゃんと前を見ないと、何も出来ない。
生徒会室の扉を幾度か叩くと、少しの間を置いてからガラリと扉が開いた。中から姿を表したのは池田先輩だった、
「あ……手塚先輩、いますか?」
いつものように手塚先輩を迎えに来ていたらしい池田先輩に言うと、池田先輩は首を後ろに向けて「忍」と呼ぶ。
「あの……池田先輩、すみません。二人で話がしたいんで、席はずしてもらっていいですか?」
僕は池田先輩に向かってはっきりと言った。
池田先輩は一瞬の間を置いて「ああ」と言い、生徒会室から足を踏み出す。
僕は生徒会室に足を踏み入れると、椅子に座る手塚先輩の元に歩み寄った。
「先輩……」
「どうしたんだい? 布施くん」
「ずっと、言いたかったことがあって」
「何かな?」
いつものベールに包まれた微笑を僕に向ける先輩をまっすぐに見つめ、僕は言った。
「ずっと……好きでした、先輩のことが」
先輩もまた目を逸らさず、僕を見つめてくる。
静かに立ち上がって、先輩はそっと、僕の髪に触れてきた。一瞬、鼓動が高まる。
「そう。ありがとう、嬉しいよ」
先輩は優しくそう言うと、綺麗な微笑を浮かべて、綺麗な瞳で僕を見つめた。
そして。
ゆっくりと近付いてきた瞳が、僕の目前で伏せられる。
揺れる、長い睫毛。
そっと触れた、唇の熱。
一瞬、頭の中が真っ白になって、呆然と立ち尽くす僕に、先輩はまた優しい笑みを向けてくる。
「大丈夫? 布施くん」
「はいっ! 全然っ、少しも大丈夫です!!」
「そう、良かった」
可笑しいようにクスクスと笑い出す先輩を前に、僕は途端に顔が熱くなるのを感じて、慌てるあまり先輩の目もまともに見れないまま、そのままくるっと先輩に背を向けて歩き出した。生徒会室を出ようと扉に手をかけ、僕は先輩を振り返った。
「……ありがとうございました!!」
はっきりとその一言だけを告げて、僕は扉を開いて生徒会室から足を踏み出した。
それからふぅと息をついて、乱れた鼓動を必死で整える。
大丈夫。大丈夫だ。落ち着け僕。
そんな風に自分を落ち着かせていると、ふと、廊下で待っていたらしい池田先輩が僕の目前に歩み寄ってきた。
「終わった?」
池田先輩はそう言うと、生徒会室の扉に手をかける。
「はい。……失礼します」
慌てて生徒会室の扉から離れ、その場を立ち去ろうとした時だった。
「布施」
呼び止められ振り返って、僕は一瞬、自分の鼓動が大きく高鳴るのを感じた。
「もう二度と、あいつに近付くなよ?」
池田先輩は扉に手をかけたまま、いつもの人当たりの良い笑みを浮かべながら言った。
けれど、瞳は少しも笑っていなくて。
その瞳のままに一瞬僕を鋭く睨みつけたかと思うと、ガラリと扉を開き生徒会室の中に入っていった。
ゾクリ、と全身に鳥肌がたち、背中に冷や汗が流れるのを感じながら、僕はしばらくその場から動けずにいた。
教室に戻ると窓際に芥川の姿があり、僕の顔を見るなり芥川は怪訝そうに眉を寄せた。
「何かキツいこと言われたのか?」
たぶんまだ青くなっているであろう僕に、やや心配そうに尋ねてくる。
「いや……人間って、やっぱ分からないなって……」
「は?」
きょとんとする芥川を前に、僕は大きく息をついて肩を落とした。
「やっぱ、諦めて正解だったわ」
「諦め……ついたのか?」
「うん。もうすっぱり」
それに……完全に利用されてたってわけでも、なかったみたいだし。
ファーストキスが初恋の人っていうのも、前向きに考えればすっごくラッキーだと思うわけで。
「でも意外」
「何がだ?」
「もっと泣くかと思ってたから、スッキリしすぎて拍子抜け~みたいな」
笑ってそう言うと、芥川は相変わらず無愛想なままで、なんだか僕よりずっと凹んでいるみたいなその様子に、妙に気持ちが暖かくなる。
「たぶん、今ここに、おまえがいてくれるからだと思う」
正直に自分の気持ちを言葉にすると、芥川は一瞬目を大きくして、それから照れ臭いように僕から視線を逸らした。
「……おまえって、下の名前、なんていうんだっけ?」
尋ねると、芥川はまだ顔を背けたまま、やや口をとがらせる。
「そんなの聞いてどうするんだよ」
「えーと……これって、なんて読むの?」
どうやらすぐに教えてくれそうにないので、芥川の机に入っていたノートを取り出し、表紙に書いてある「芥川遼」という文字を見ながら尋ねる。
「……はるか」
「へえ、「はるか」って読むんだ」
「いいだろ、名前なんてどうでも。嫌いなんだよ、この名前。なんか女みたいで」
「いいじゃん、遼」
マジックで書かれている名前を指でなぞって机の上にノートを置くと、僕はまっすぐに遼の目を見据えた。
「そういえばこの前、身長測ったら、一ヶ月で一センチ伸びてたんだ」
「……それが?」
またも怪訝そうに遼は眉をよせる。
僕はその頬にそっと手を寄せた。一瞬、遼の肩が小さく震える。
「すぐに、おまえの身長追い越すと思う」
僕よりほんの少し上の位置にある目を見つめながら、僕は言葉を続けた。
「だから……身長追い越したら、キス、していい?」
微笑みながらそう言うと、遼は途端に耳まで顔を赤くする。
「そんな顔したら、今すぐキスしたくなるんだけど」
「ば……っ、誰がさせるかよ! 俺だって身長伸びてんだ! てめーなんかに追い越されるかっ!!」
噛み付いてくるように言って、遼は僕に背を向けてさっさと教室を出て行ってしまった。
もちろん、僕はすぐに追いかける。
「じゃあ、今すぐキスする」
「しねぇよバカ!!」
「も~素直じゃないな~、僕のこと好きなんだろ?」
「好きじゃねーっつってんだろ!! おまえなんか、嫌い……、っ……」
逃げる遼を捕まえて、頬を両手でしっかり挟んで、かなり強引に、唇を重ねる。
二度目のキスは、初めてのキスよりも、ずっと、ずっと、気持ちが高鳴って、胸が熱くなって、泣きたくなるくらいに嬉しかった。
「……好きだよ、遼」
そっと囁くと、遼の目に、うっすらと涙が滲んで。
僕は少し、胸が痛くなって。
ずっとずっと、こんなに辛い想いさせてたんだって思ったら、なおさら愛しさが込み上げてきて、僕はぎゅっと遼の体を抱きしめ た。
そうして知ったんだ。
守りたいと想うこの気持ちが、本当の「好き」なんだって。
「キスしちゃったから、身長追い越したら……ていい?」
耳元に囁くと、遼はますます顔を赤くして、僕を突き飛ばす。
「誰がするかバカ!!」
「はいはいバカですよ~」
「なんか……おまえ、すっげームカつく」
「でも好きだろ?」
「……っきじゃねーよ、バカ!」
またまた投げ捨てるようにそう言うと、遼はスタスタと早足で歩いていく。
ほんと、素直じゃないな~。
でもまあ、そこが可愛いって思っちゃったんだから、仕方ない。
「待ってろよ遼、すぐにおまえの身長追い越してやる!」
僕は遼に追いついて自信たっぷりに宣言すると、その場から勢いよく駆け出した。
不器用な僕達の恋は、まだ始まったばかりだけど。
不器用な僕らなりに、一歩ずつ、前に進もうか。
「好き」と「嫌い」を繰り返しながら、ずっと、ずっと……一緒に。
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