サボ太

 

 まずは、ぼくがここに来るまでのお話をするね。

 あの日は、少し寒いけれど空は青くよく晴れていて、ぼくはお日様の光を浴びながら、ただぼんやりと目の前の景色を眺めていた。
 いろんな人達が、目の前を行きかう。時々、足を止めてぼくたちを見下ろす人がいる。
 だいたいみんな、目を細めて笑顔を浮かべて、「綺麗」とか「可愛い」という言葉を口にする。
 でもそれは、ぼくに向けられたものではない。
 次々にいなくなっていく仲間たちを、ぼくはいつも見送るだけで。
 確かここに来たばかりの頃は、綺麗な棚の上に乗せられて、いろんな人がぼくにも声をかけてくれたけれど、いつの間にかいつもお店の一番端っこにいるぼくに、今は誰も声をかけてはくれない。
 でもぼくは、それでも全然かまわなかった。お店の人は、たまにお水をかけてくれるし、ここはお日様の光もよく当たるし、なにも嫌なことはなかった。だからぼくはずっとこのままでいいって思っていた。

 そんなぼくを、ある日、見つけてくれた人がいた。
「なにおまえ、サボテンなんか買ってどーすんの?」
「いや、なんか、可愛くねぇ?」
「は? どこが可愛いんだよ。意味わかんねー」
 隣の人が顔をしかめたけれど、その人は、じっとぼくを見つめてきて、それからにっこり笑って、「すいませーん、これ下さい!!」と大きな声でお店の人に声をかけた。
 お日様みたいなその笑顔が、なんだかとっても嬉しくて。
 その人の手の中で揺られながら、わくわくとドキドキが止まらなかった。


 そうやって、ぼくはこの部屋に連れてこられたんだ。
 あれから、もう幾度も朝と夜を迎えて、ぼくはいつもの場所で、いつもの景色をただぼんやりと眺める。
「サボ太、行ってくるな」
 ぼくをこの部屋に連れてきた人。
 いつも「みつる」と呼ばれているから、ぼくも「みつる」って呼ぶことに決めた。
 みつるはいつも、ぼくにシュッと一吹きお水をかけて、必ずぼくの名前を呼んでから、外に出て行く。
「光流、早くしろ。遅れるぞ」
 玄関からする声は、「しのぶくん」のものだ。
 しのぶくんは、一度も僕に声をかけたことはない。お水をかけてくれたこともない。それどころか、ぼくを見てもくれない。
 みつるがこの部屋にぼくを連れてきて、「可愛いだろ?」って言った時も、「サボテンって人の声がわかるんだって。だから名前つけてやろーぜ」って言った時も、変わらない表情で「好きにしろ」って言っただけだった。
 そうして部屋の棚の上に置かれた僕を、掃除の時に邪魔そうにどけるだけで、しのぶくんにとってぼくはたぶん、ぼくの隣に置いてある時計や本と同じものだった。
 それでもぼくは、この部屋も大好きだったし、みつるのこともしのぶくんのことも大好きだから、毎日はとっても楽しかった。


 そんなふうに平和に暮らしていたこの部屋に、ある日突然、別の生き物があらわれた。
「今すぐ返して来い」
「んなこと言うなよ~っ。預かっちまったもんは仕方ねーじゃん! 一週間だけだから! お願い!!」
「どうせ無理矢理押しつけられて断れなかっただけだろう? ここはペット禁止なんだぞ、犬なんか預かってバレたら速攻で追い出されるというのが……」
「絶対バレないようにする!」
「駄目だ。今すぐ返して来い」
「だってもう旅行行っちまったもん! それともおまえ、こんなチビ、見捨てるつもりかよ!?」
「……だったら好きにしろ。ただし俺は絶対に面倒見ないからな」
 しのぶくんは怒った顔でそう言って、みつると茶色くてふわふわの小さな生き物に背を向けて、台所にむかった。
 いつもいつも、しのぶくんは怒ってばかりだ。みつるはいつも怒られてばかりなのに、いつも同じようなことばかり繰り返す。
「良かったな、キャスバル」
「……なんだその名前は?」
「知らねぇの? 昔流行ったアニメの主人公の敵で……」
 なんだかわけの分からないことを延々と語りだすみつるの話を、しのぶくんは途中で聞くのをやめた。
 ふと、キャスバルと呼ばれた生き物が、ぼくの前に駆け寄ってくる。
 じっとぼくを見つめる大きな目は真っ黒でキラキラしていて、ふさふさの尻尾を揺らしながら、突然小さな前足を僕にたたきつけてきた。
「こらキャスバル!」
 あわててみつるがキャスバルを抱き上げて、床に転がったぼくを元の場所に置いてくれる。
 小さな怪獣は、変わらず目をキラキラさせている。
 なんだか、すごく嫌な予感がした。

 
 小さな体に似合わない、物凄く元気な生き物は、好きなように動いて走って悪戯ばかりして、いろんなものを破壊した。ぼくもいつ壊されるんじゃないかと、ずっとドキドキが止まらなかった。
 しのぶくんはやっぱり怒ってばっかりで、「今すぐこの馬鹿犬を連れて出て行け」とみつるに怖い目を向ける。みつるは涙目で「頼むからじっとしててくれ~」とキャスバルに訴えるけど、キャスバルはやっぱり少しもじっとしていなくて、いいかげん我慢の限界がきたしのぶくんに、ぼくですら凍りつくような目を向けられた途端、びっくりするほど急におとなしくなった。

 それからというもの、キャスバルはしのぶくんの言うことだけはよく聞くようになった。
 しのぶくんが「待て」といえばいつまでもじっと待ち続けるし、しのぶくんが「お座り」と言えばちゃんとお座りするし、たった一日で「お手」も「伏せ」も完璧に覚えた。よっぽどしのぶくんが怖かったんだと思う。なんだかちょっと可哀想に見えてくるくらい、キャスバルはいつもしのぶくんの顔色を伺いながら行動するようになった。
 みつるはといえば、朝から晩まであまりこの部屋にはいなくて、ずいぶん暖かくなってきたこの部屋の中では、しのぶくんとキャスバルが二人きりで過ごす時間の方がずっと多かった。

 絶対に面倒見ないなんて言っていたのに、しのぶくんは朝ごはんも昼ごはんも夜ごはんも、毎日きっちり同じ分量をキャスバルにあげていたし、時々一緒に外に行って一時間くらいしてから帰ってきたり、お風呂にだってちゃんと入れてあげていた。
 部屋にいる時、キャスバルはいつも、しのぶくんのあとをくっついて回っていた。しのぶくんがご飯を作っている時は、足元でじっとお座りして待っていて、しのぶくんがお風呂に入ってる間、じっとお風呂場の前で待っていて、しのぶくんが眠っている間は、ダンボールで作られた自分の寝る場所で身を丸くして一緒に眠っていた。

 みつるがこの部屋にいる時は、キャスバルは尻尾を振りながらみつるにキラキラした目を向ける。みつるはいつもキャスバルとたくさん遊ぶ。キャスバルがもう嫌がってみつるから離れるまで、しつこいくらい一緒に遊ぶ。
 
 みんなでご飯を食べる時、みつるはすぐにキャスバルに自分のご飯をあげようとする。そうすると、しのぶくんはやっぱり怒る。しのぶくんが怒ると、キャスバルは背筋を伸ばしてお座りして、しのぶくんが「よし」と言うまで絶対に動かない。目の前に大好きな大好きなビーフジャーキーがあっても、涎を垂らしながらも絶対に絶対に動かない。みつるが苦笑しながらそんな2人の様子を見つめるのが当たり前になった頃だった。

「もしもし? え? なに、明日帰ってくんの? 早くねぇ?」
 みつるがそんな会話をしたあとに電話を切って、嫌がるキャスバルを抱っこしながらしのぶくんに言った。
「なんか予定より早く帰るらしいから、こいつ、明日返してくるな」
「明日……?」
 一瞬、しのぶくんが、見たことのない顔をした。
 でもみつるは気づいていないみたいだった。
 しのぶくんが、いつもと違う目でキャスバルを見ていることに。


 夕方からみつるがバイトというものに出かけて、その日の夜、しのぶくんはいつものように一人で布団の中に潜り込んだ。同じように、キャスバルも自分の寝る場所で丸くなる。
 少しの明かりだけがついた真っ暗な部屋の中、静かな長い時間の後。
「……来るか?」
 しのぶくんの声に、キャスバルはすぐにぴくっと耳を動かした。
 そうしてすぐに立ち上がって、パタパタと尻尾を振りながら、しのぶくんの元に駆け寄っていく。
 キャスバルは布団の中に潜り込んでいくと、しのぶくんの腕の中で身を丸くして、二人一緒に眠りに落ちていった。


 時計の音だけが、暗い部屋に静かに響く。
 ぼくはなんだか、とても暗い気持ちになった。

 いいな。
 キャスバルは、いいなぁ。
 ぼくにもあんなふわふわの体があったら。
 キャスバルみたいにキラキラした目があったら。
 嬉しい気持ちを伝えられる尻尾があったら。
 しのぶくんは、ぼくにも声をかけてくれるのかな。
 ああやって、抱きしめてくれるのかな。
 でもぼくには、なんにもない。
 なんにも出来ない。
 こんな棘だらけの体じゃ、誰もぼくを抱きしめられない。
 ぼくも、誰も抱きしめられない。
 せめて声を出せたら。
 「大好き」って、伝えられるのに。
 ぼくにはそんな、声も無い。
 言いたくて、言いたくて、たまらないのに。
 どうしても、言うことはできないから。
 ただこうやって、大好きな人を見ていることしか出来ないんだ。

 どうしてかな。
 ぼくがどんどん、萎んでいく。
 このまま枯れちゃうんじゃないかなって、思うくらいに。
 こんなぼくだから、きっといつまでたっても、ずっとこのままで。
 綺麗な花は、咲かせられない。


 次の日の朝、みつるがキャスバルを連れて外に出かけていった。
 しのぶくんはいつものように、洗濯や掃除をして変わらない日を過ごしていたけれど、ぼくにはいつものしのぶくんと違って見えた。
 お昼を過ぎたら、みつるが戻ってきて。
 もうキャスバルは一緒にはいなかった。
 なんだか、ズキンって痛くなった。
「急に、静かになっちまったな」
「二度と余計な物をこの部屋に入れるな」
 しのぶくんの言葉に、みつるが苦笑する。
 余計な物。それって、ぼくのことも言ってるのかな。
 またズキンって痛んだあと、ふいに、みつるが口を開く。
「……忍?」
 背を向けたままのしのぶくんに、みつるが声をかけるけど、しのぶくんは振り返らない。
 少しの静寂の後、みつるに背をむけたまま、しのぶくんが小さく声を発した。
「あいつ……本当に、大丈夫なのか?」
「え……?」
「ここに来た時、ぜんぜん躾けられてなかったじゃないか。そんな飼い主で、本当に大丈夫なのか?」
 いつもと同じ、静かな声。でもぼくも、たぶんみつるも、いつもと違うって感じた。
「忍……おまえ……」
「すぐに拾い食いする、あっという間に飛び出していく、知らない人に平気でついていく。あんな馬鹿犬、ちゃんと躾けられるのなんて、俺くらいしか……!」
 しのぶくんが振り返ったその時、みつるがぎゅっと、しのぶくんの体を抱きしめた。
「ごめん……忍」
 今にも泣きそうな声をして、みつるがしのぶくんを強く抱きしめたまま言った。
 しのぶくんは、いつもみたいに嫌がらずに抱きしめられていた。
「ほんとに……ごめん……」
「……もう二度と、あんな厄介な物、持ってくるな」
 しのぶくんは小さな声で言った。
 ほんの少しだけ、その声が震えていて。
 みつるはずっと、そんなしのぶくんを抱きしめていた。


 ズキン・ズキンと痛む。
 この気持ちを、ぼくは知ってる。

 寂しい。
 寂しいね、しのぶくん。
 もうあの子は、どこにもいないんだ。
 この部屋に戻ってくることはないんだ。
 あのキラキラの瞳で見つめてもらえることは、もう二度とないんだ。
 そう思ったら、ぼくもしのぶくんをぎゅっと抱きしめてあげたくなったけれど。
 棘だらけのぼくには、なにも抱きしめられない。

 ズキン・ズキンと、ただ、痛い。


 また、キャスバルが来る前と同じ、いつもの朝が始まる。
 みつるは朝から外に出かけて。
 しのぶくんは掃除機をかけてから、棚の埃を拭くためにぼくを床の上に置く。
 再び持ち上げられて、元の場所に置かれるんだと思っていたのに、別の場所につれていかれて、ぼくはずいぶんビックリした。
 つれていかれたのは、お日様がよく当たる窓辺の下。コトッと音をたててぼくを置いて、しのぶくんはぼくの体に、水をシュッと吹きかけてくれた。

 どうしよう。
 嬉しい。
 凄く、嬉しい。
 嬉しくて、嬉しくて、ぼくはどうしても「ありがとう」って伝えたくてたまらなくなったけれど。
 ぼくにはそれを伝える術がない。
 だから何度も、「ありがとう」って叫んだ。

 しのぶくん、ありがとう。

 ありがとう。

 ありがとう。


 それから毎日、しのぶくんは一日に一度、僕をお日様のよく当たる窓辺に連れていってくれる。
 いつかみつるみたいに、ぼくのことを名前で呼んでくれるかな。
 ぼくはいつもそんな期待をしてしまうけれど、しのぶくんがぼくの名前を呼んでくれることはまだ一度も無い。

 だけどそれでも、ぼくはぼくが膨れていくのを感じる。


「たっだいま~」
「おかえり」


 二人のそんな声を聞くたびに。
 少しずつ、少しずつ、嬉しい気持ちが膨れていって。
 きっともうすぐ、ぼくは綺麗な花を咲かせられる。
 そうしたら、しのぶくんはきっと、ぼくにむかって笑ってくれる。
 そんな気がして、ならないんだ。

 だから今は、もう少しだけ、このままで。


 あ……でもね。

「忍くーんっ」
「離れてろ、鬱陶しい」
「やだ。飯よりこっちが先」
「……んっ……」

 こんな時は、やっぱり、閉じられる目があったらなって、ちょっとだけ思う。