良薬
いつものように、机に向かう忍の後姿。
そっと近づいたら、微かに煙草の匂いがして、光流は眉間に皺を寄せた。
「また、隠れて吸っただろ」
低い声で忍の耳元にそう囁くと、忍はうるさそうに光流に視線を向ける
「やめろって言っただろ」
明らかに怒りを含んでいる声。
光流が忍に喫煙をやめるように叱責するのは、もうこれで何度目になるか解らない。
あまりの光流のしつこさに辟易した忍は、いつからか光流の前では吸わなくなったが、決して止めたわけではなく、光流の目の届かない場所で隠れて吸うようになっただけだった。
けれど煙草を吸わない者にしてみれば、どんなに隠そうとしても、その残り香は鼻につく。
バレないと思っている方が浅はかなのに、忍は分かってやっているのか、それとも本当にバレていないと思っているのか。
「何をしようが、俺の勝手だ。いちいちうるさい」
真剣な顔をする光流に、忍が鬱陶しそうに言う。光流は更に深刻な目で忍を見据えた。
「俺が怒ってる理由が分からないほど、おまえはバカなのか?」
見下されたようなその言葉に、忍は怒りを表情に露にして、椅子から立ち上がった。
「心配なんかしてくれなくていい。自分のことくらい、自分で自己管理できる」
忍は珍しくやや感情を露に声を荒げてそう言うが、光流は動じない。
「出来てねーから言ってんだろうが!! この前だって熱出してぶっ倒れるまで痩せ我慢してた奴の、どこが自己管理できるって?!」
負けず劣らず声を荒げる光流に、忍は一瞬返す言葉を失って、ただ悔しそうに光流を睨みつけた。
「絶対、やめろよ。また今度隠れて吸ったら、本気で怒るからな」
「うるさい!」
「あ?!」
あくまで反抗する忍に、光流はいいかげんにしろとばかりに眉を吊り上げる。
「絶っっ対、やめない」
忍は完全に意地になっている様子で、きっぱりとそう言い切った。
光流の肩がわなわなと怒りで震える。
「やめろ!!」
「やめない!!!」
完全に怒りが頂点に達した二人の、凄まじい睨み合いがしばし続く。
そこへ何とも間の悪いことに、蓮川が211号室の扉を開いた。
「せんぱ……・」
どうやら勉強を教えてもらうつもりだったらしい蓮川が、バサバサとノートを床に落とす。211号室に漂う負のオーラに、鈍い蓮川もさすがにすぐさま気配を察知して、顔を青くした。
「あ、あの……ど、どうしたんですか?!」
二人の睨み合いの攻防戦に、オロオロしながら尋ねるが、二人は蓮川などまるで無視である。
「どうしても、やめないつもりか?」
先に口を開いたのは光流だった。
「やめない」
怯まず忍が応える。
「だったら、勝手にしろ!!」
光流はそう言い捨てると、忍に背を向け、ドアの扉を乱暴に閉じて部屋を出て行った。
「あ、あの……俺、失礼します!!」
蓮川も後を追って部屋を出て行く。
忍は強く拳を握り締めた。
意地を張っているのは自分でもよく分かっていた。
けれど光流が、あまりに命令的に上から物を言うから、冷静でいられなくなった。
最近、口を開けば「あれはするな」「これは駄目」「これも却下」と口やかましいばかりの光流に、いいかげんうんざりしていたせいもあるだろう。
子供じゃあるまいし、加減くらい自分で分かるのに、いつでも光流は過剰なまでに心配しすぎるのだ。
それでもいつも、結局光流の言うとおりにしてしまっている自分も悔しいから、今回だけは絶対に折れたくなかった。
今すぐ煙草一箱まとめて吸ってやりたいくらいの怒りにかられながら、忍は自分のベッドに寝転んで布団をかぶったのだった。
一方、光流はと言えば、やっぱり怒りを抑えきれない様子で、食堂の椅子にドカッと腰をおろした。
何が、自己管理くらい自分でできる、だ。
いつもいつも肝心なことほど口に出さないで、人に助けも求めないで、限界まで我慢する奴の言うセリフか、と光流は思う。
確かに忍は大抵のことは自分で処理できるけれど、時折ありえないほど天然バカなだけに、光流が放っておけないのも無理はなかった。
怖いもの知らずなうえ好奇心旺盛な忍は、霊界と交信すると言っては悪霊を呼び起こしたり、呪術を成功させたはいいけれど呪い返しを受けて絶命寸前になったり、悪魔を召還しては魂と交換する契約を結びそうになったりと、とにかく人として激しく間違った方向に突っ走っては、人として信じられない方法で命を落とす危険に何度も遭遇しているのだ。
その度に、霊界との交信は禁止!!呪術はダメ!!悪魔召還なんてもっての他!!!と言い聞かせても、いっこうに反省しない忍に、光流がいい加減ブチ切れるのも当然であろう。
それでも呪術や悪魔召還に比べれば、煙草なんてまだ可愛いものだから、今までたいして強くは言わなかったけれど、煙草だって続ければ寿命を縮めるほど害のあるものであることに違いはない。
この際だから、何がなんでも絶対にやめさせてみせる。
そう強く心に誓った光流であった。
「ど、どうしたんだ、あの二人は……?」
「喧嘩みたいだぜ。珍しく」
翌朝、光流と忍からしっかり距離をとりつつ、ヒソヒソと寮生達が噂する中、二人ともよどんだ空気を背負いながら朝食を口にする。誰もとてもではないが話しかける勇気も出ないほど、二人の放つオーラは険悪だった。
「原因、知ってる?スカちゃん」
食堂の隅っこで、瞬もオドオドしながら蓮川に声をかける。
「知るわけないだろ、俺が」
「でもこのままじゃ怖すぎるよ~。どうにかしないと……」
「俺達がどうにかできる問題なのか?」
「だから、理由が分かれば……」
「なんか、やめろとかやめないとか、言ってたけど……」
「さっっぱり分からない」
「だったらおまえ、理由聞けよ!!」
「今の先輩達に声かけらんないよ~。スカちゃんが聞いてよ~」
「俺だってイヤだっ!!」
結局何もできない後輩達をよそに、光流と忍はさっさと学校へむかっていく。
校内でも二人の険悪なムードは変わることなく、周囲もただひたすら遠くから噂話するのが関の山で、誰一人として喧嘩の真相を尋ねる
ことは叶わないようだった。
そんな険悪な一日を終えて、また部屋に二人きり。
こういう時、寮という狭い個室はもはや拷問部屋でしかない。
忍が机にむかい、光流はベッドを背もたれに雑誌を読むが、とても内容など頭に入らなかった。
小さくため息をつく。
このまま延々と無視し合ったところで、状況は何も変わらない。
仕方ないから多少なりとも自分の方から譲歩しようと思い、立ち上がって歩み寄り、忍の肩に手をかけたその時だった。
「光流……!!」
いきなり忍の方から抱きつかれ、光流はぎょっと目を見開いた。
「俺が悪かった。もう、煙草はやめるから……」
首に腕を回され、ぎゅっと抱きしめられる。
忍の指が光流の髪に絡んだその時、
「忍……」
光流はおもむろに忍の腕を掴んで、その身体を自分から引き離した。
「何をしてるのかなぁぁ~~~??!!」
忍の机の上に広げてある呪い本を、光流は見逃さなかった。
危うく髪を抜かれるところだった。おそらく呪いに使うために。
忍は企みがバレて、明らかに心の中で舌打ちをしつつ、光流から顔をそらした。
「呪術禁止!! 本も没収!!」
光流は机の上に置いてあった呪い本を手にすると、忍に背を向けて部屋を出て行った。
忍はもう一度心の中で舌打ちしつつ、机の引き出しを開く。
途端、派手な音をたてて扉が開き、部屋に入ってきた光流がつかつかと忍に歩み寄った。そして引き出しの中にあった呪いの藁人形を奪い取り、また部屋を去っていったのだった。
苛立ちを抑えきれないまま、忍はトイレのドアに寄りかかり、煙草を一本口にくわえた。ライターで火をつけると、煙を肺まで吸い込む。
いつから吸い始めたのか、なぜ吸い始めたのか、もうはっきりと思い出せない。
けれどいつの間にか、自分にとって必要なものとなっていたのは確かだった。
偽りの笑顔を絶え間なく造る時も、心底嫌いな相手を取り込むために上辺だけの言葉を発する時も、善良な相手を利用するためだけに優しさを取り繕う時も、煙草を一本吸えば、少なくとも疲労感は表に出さずにいられた。煙草一本で人を騙し通せるなら、それによって得るリスクなど安いものだと思っていた。
『いつかやめろよ、身体に良くねぇんだから』
初めて光流に喫煙が見つかった時、光流は特に怒った風でもなく、ただそう言って忍のくわえた煙草を取り上げただけだった。
それからも何度か同じようなやり取りがあって、現在に至るわけだが、だからこそ忍は納得することが出来ない。
いつかは忍だってやめるつもりではいたのだ。
煙草が百害あって一利なしのものであることくらい、よく分かっている。
分かっていてやめられない自分が、どれだけ弱いかということも。
だから、これだけは自分の意思でやめたかった。
忍は悔しそうに眉をしかめると、吸い終わった煙草をトイレに流し、ライターをぎゅっと握り締めた。
「手塚、ちょっと保健室来なさい」
「……これから授業なんですが」
「来ないと校内放送で光流との関係バラすよ?」
にっこり微笑みながら一弘に言われ、忍は一弘を睨みつけた。
このあなどれない男に、決定的な弱みを握られたことは一生の不覚である。 そしてこの男にバレた原因は光流にあるのだと思うと、また沸々と怒りが沸いてきた 仕方なく言われるまま保健室にむかうと、既に先客があった。保健室の常連は、また授業をサボって寝ていたらしい。
「何だよ、話って」
忍の顔を見るなり、光流は露骨に不機嫌そうな顔をして、忍と並んで一弘の前に立つ。
「分かってるんだろう? おまえらが喧嘩してるって、校内中で噂になってるぞ」
呆れたように一弘は言った。
「おっさんには関係ねーだろ」
「そりゃそうだが、可愛い弟にどうにかしてくれって泣きつかれたら、とても放っておけなくてな~」
「弟のためかよっ」
光流が思わずつっこむと、一弘は小さくため息をついた。
「いいから話してごらんなさい。何が原因だ? どうせおまえらの事だから、ロクな原因じゃないだろうが。ほらアレだろ、またゴムつけろとかつけないとか、そーいう……」
「ちげーよっ!!!」
すかさず光流がつっこむ。
そして大きく息をつくと、おもむろに口を開いた。
「こいつが、煙草やめねーから」
「煙草?」
「そう、煙草」
「ああ……」
チラリと一弘が忍に目を向けると、表情には出てないが明らかにふてくされていると思われる忍が光流を睨みつけた。
「なんでやめないんだ?手塚」
「言われなくてもやめるつもりです」
忍の言葉に、光流が顔をしかめる。
「やめてねーから言ってんだろーが!!」
「おまえに言われたくないからだ!!」
「こらこらこらっ!!」
唐突に喧嘩を始める二人に、一弘が止めに入るが、二人の睨みあいは止まらない。
「何で俺に言われたくないんだよ」
光流が低い声を発する。忍は目を逸らさないまま応えた。
「俺はおまえの物じゃない」
「いつ誰が、おまえを物扱いしたよ?!」
「いつもしてるだろう?! 俺がどんなに嫌だって言っても、いっこうにゴムはつけないし、無理矢理○○○させるし、○○した挙句、××するのは
どこのどいつだ?!」
「それとこれとは別の話だっ!! だいたいおまえ、俺が○○したら喜んで×××するくせに、何が……」
「いいかげんにしろっ、二人とも!!!!!」
校内で放送禁止用語連発する二人に、一弘は怒りを通り越して呆れ顔で声を張り上げた。
「光流……おまえも悪いと思うぞ、嫌がることを人に強制するのは」
一弘に言われ、光流は少し反省したように声色を落ち着かせた。
「じゃあ……もう○○はやめる」
「××もやめろ」
「それは無理!!」
「無理なのかよ!!」
そこはやめておけ、と一弘はつっこむが、二人はまるで聞いちゃいない。
「だったら俺も煙草はやめない」
忍がきっぱりと言い切り、またしても睨み合いが始まった。
もはや何が原因なんだか、二人にも分からなくなっているのではないかと一弘は思う。
「……分かった」
やがて光流が、深刻な表情をしたまま、低く声を発した。
「ならもう何も言わない。おまえの好きにしろ」
まるで諦めたかのようにそう言うと、光流は忍と一弘に背を向けて保健室を出て行ってしまった。
「あーあ、本気で怒らせちゃったな、あれは」
仕方ないように言いながら、一弘は忍に目を向けた。
少しバツの悪そうな、叱られた子供みたいな顔をしている忍に、一弘はふぅと小さくため息をついた。
「まあ……おまえの気持ちも分かるよ。光流は過保護だからな。でも俺は、光流の気持ちの方がよく分かるぞ。やっぱり、大切で仕方ないから、口 やかましいことも言いたくなるわけだしな?」
「俺は子供じゃない。自分のことくらい、自分で出来ます」
「子供だよ、おまえなんかまだまだ」
一弘は優しくそう言うと、忍の頭を軽く小突いた。
ちょっと泣きそうになってるのを懸命にこらえている姿が、可愛くて思わず抱きしめてやりたくなってしまうけれど。
「これは、没収。こんなものより、もっと効く精神安定剤、おまえにはあるだろ?」
忍の制服のポケットから煙草の箱を抜き取り、一弘はそう言うと、ポンと忍の背を叩いた。
やめろって言われるより、好きにしろって言われる方が、ずっとずっと辛かった。
本当は、初めて言われた時から、分かっていたのに。
干渉されることがあまりに当たり前になっていて、甘えすぎていたのかもしれない。
束縛されることより、自由に生きる方が、ずっと孤独なんだって、いまさら気づいた。
だって誰も、そんなことは教えてくれなかった。
悪いことは悪いって、そんな当たり前のことを、誰も教えてくれなかった。
でも、光流は違う。
光流は……。
「光流……っ」
階段を上がった踊り場に光流の背を見つけ、忍は階段の下でその姿を見上げながら呼び止めた。
光流は振り返るが、表情は厳しいままだ。
そのままじっと忍を見据えた後、小さく口を開いた。
「やめるか……?」
そう尋ねられ、忍は気まずいように目線を反らしてから、制服のポケットに手を突っ込んだ。
そして、ポケットから取り出したライターを、光流に向かって投げつける。
飛んできたライターを、光流は右手で受け止めた。
忍が階段を駆け上がる。
「これで……いいんだろ……っ」
素直じゃないその口ぶりに、光流は少し呆れた風に微笑むと、忍の腰に手を回してその身体を引き寄せた。
「ばか」
「……どっちが」
「どっちも」
「おまえは……馬鹿じゃない」
光流の首に腕を絡ませ、ぎゅっと抱きつきながら、忍が言った。
一瞬、光流の目が大きくなって、それから耳まで顔を赤くする。
「ば……っか、もーおまえ……、反則……」
「……?? 何が……」
反則なんだ? と尋ねようとしたその時、唇を塞がれた。
身体の芯が疼くようなキスの後、光流が口を開いた。
「もっかい、保健室行こっか?」
「馬鹿!!」
かくして忍のは禁煙を決意したわけだが、長年染み付いた習慣を捨てるのは、やはりそう簡単ではない。
「光流」
「ん??」
「邪魔だどけ」
「ぐわっ!!!」
寝転んでテレビを見ていたら、いきなりみぞおちを思いきり蹴られ、光流は苦痛に顔をゆがめた。
「おまえなっ、いくら禁煙で苛ついてるからって、八つ当たりばっかすんな!!」
「誰のせいだ」
まったくもって苛立ちを隠さない表情で、忍は光流を睨みつける。
光流は仕方ないようにため息をつくと、床の上に座り治して、自分の横をポンと叩いた。
「こっち来なさい、忍くん」
不機嫌なオーラを発したまま、忍は光流の隣に座る。
そんな忍の手をとると、光流はそっとその手に自分の手を重ねて、ぎゅっと握り締めた。
途端に、忍の表情が少し和らぐ。
「おさまった?」
「……まだ」
忍が言うと、光流はもう片方の手も握り締めて、忍の額に軽く触れるだけのキスをする。
「まだ?」
「まだ」
今度は、頬に。そして、唇に。
「これで全部だっけ?」
「あと一つ、忘れてる」
「あ……」
思い出した顔をして、光流は忍の耳元に囁いた。
「好きだよ、忍」
ぎゅっと抱きしめられる感覚に、忍はそっと目を閉じた。
あの日から決めた、これは安定剤。
煙草の代わりにって与えてくれた、光流の優しい抱擁。
「どれがいい?」って聞かれて、忍は「全部」と応えた。
「全部かよ」って、光流は苦笑して。
でも、ちゃんと全部、してくれる。
だからもう、煙草はいらない。
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