milk tea
帰る家を見失った、迷い猫のようなものだと思っていたわ。
だからつい、ミルクなんて与えてしまって。
そうしたら、思いのほか懐いてしまったものだから……捨てられなくなった。
電話のベルが鳴り響いて、私は受話器を手にとった。
「はい、六条です。……お父様? ええ……。ええ、分かりました……」
受話器を元に戻したら、ほんの少しため息が漏れた。
また、お見合い話。
いったいどれだけ娘を利用すれば気が済むのかしら、あの男は。
倦怠感を覚えながら、私は寝室のドアを開いた。
音をたてないようにベッドに近づくと、迷い猫はまだ眠っている。
ベッドの淵に腰掛けて、私はそっと彼の頭を撫でた。
寝顔だけは、無邪気で可愛いのね。
ちょっと悪戯してみたくなるじゃない。
そんなことを思って、パジャマのボタンを一つ、二つ外していると、気配に敏感な迷い猫は、閉じた瞳をゆっくりと開いた。
「……なに、してるの?」
「暑いんじゃないかと思って」
「涼しいから、久しぶりにゆっくり寝られたよ」
白い胸をはだけさせたまま、彼は上半身を起こして、残りのボタンも外していく。
「やっぱり寮って、エアコンもないの?」
「うん。おかげでみんなイライラしてる」
「そう、大変ね。朝食、できてるわよ?」
「ありがとう、すぐ行くよ」
にっこり微笑む彼に背を向けて、私は寝室を出てキッチンに向かった。
さっき入れたばかりのコーヒーの香りが鼻につく。
けれど私はコーヒーではなく、紅茶の葉をポットに入れて、少し待ってカップに注いだ。
「倫子ちゃん、白い服に似合うネックレスって、どんな色がいい?」
綺麗に身支度を整えた彼が、テーブル脇の椅子に腰掛けてそんなことを尋ねてきた。
「あたしだったら、ダイヤかしら」
私はそう言って、カップの中にミルクを注いだ。
「そっか、じゃあ、そうするよ」
「女の子のプレゼントくらい、自分で考えなさい。失礼よ」
白く濁ってゆく紅茶を彼の前に差し出すと、彼は上品な仕草でカップを口元に持っていく。
今日は、どの子とデート?
そう尋ねると、彼は優しく微笑んだ。
なぜ、私は待ち続けているのかしら。
もうとっくに、一歩も身動きとれないくらい、疲れてしまっているのに。
諦めが悪いって、自分でも分かっている。
でもね、そう簡単に消せやしない。
初めて好きになった人。
初めて好きになってくれた人。
あなたと二人でいられるなら、崩壊寸前のお城の中だって、構わないと思っていた。
増してや、誰も私たちを知らない、何もない荒れ地だって、私はちっとも構わなかったのよ。
それなのに、どうして私を連れて行ってはくれなかったの?
そんな疑問に疲れて……ただ疲れて、ただ待つだけの自分にも、疲れ果てて。
もう忘れようって思いながら、忘れられなくて、弱くてどうしようもなく惨めな私の懐に、迷い猫が擦り寄ってくる。
私はそっと、その柔らかい毛に触れる。
「来る前に、連絡してって言ったでしょう?」
何かイヤな事でもあったのかしら、今日は少し、元気がないみたい。
でもここは、あなたの家じゃないのよ。
こんな風に懐かれたって、私はあなたを撫でて、ミルクを与えることしかできない。
だって、私は知っている。
あなたは決して、誰の飼い猫にもならない。
どれだけ可愛い姿で懐いてきたって、油断すれば容赦なく引っ掻かれることくらい、もうとっくに知っているの。
「また来るよ、倫子ちゃん」
「連絡してね」
自分勝手な迷い猫は、きっとまた突然現れる。
翻弄されるのは悔しいから、私はきっとこの次も、冷たい顔で受け入れる。
毎日毎日、鳴ったチャイムに開いたドアの向こうに、あの人の姿を想い描きながら。
いつの間にか、迷い猫は迷い猫ではなくなって。
そんな彼が、私にあの人の居場所を教えてくれて。
数年ぶりに再会した彼は、やっぱり変わらず私を求めてはくれなかった。
馬鹿みたい。
本当に、馬鹿みたいよ。
お姫様なんかには、なりたくなかった。
ただ王子様の助けを待っている、弱く儚いだけのお姫様なんかには。
だから、私は家を出た。
もう、迷い猫もやってこない。
私は、私の道を、歩き出さなければ。
それなのに。
「……来る前に、連絡してって言ったでしょう?」
あっさり私の居場所を嗅ぎ付けてきた迷い猫は、もう一つの迷いもないような目をして、私に微笑みかける。
「兄さん、家に戻ったよ」
「知ってるわ」
「待ってるよ、倫子ちゃんのこと」
「あたしは王子様じゃないのよ」
「倫子ちゃんほど強い王子様、他にはいないと思うけど?」
「何よ、それ」
「兄さんを……守ってあげて欲しいんだ。倫子ちゃんがそばにいれば、きっと大丈夫だと思うから」
曇りのない、まっすぐな瞳が、私を見つめる。 もうあなたは、迷ってはいないのね。
そして、私は……。
……私も……。
「……わかったわ」
もう、迷うのはやめにする。
どうしたって、逃げられないもの。
最初から分かってたのよ、そんなこと。
何も踏み出さず、何も叫ばず、追いかけもせず、ボロボロに傷つきもせず。 それで終わりになんて出来るはずがない事くらい、分かっていたのよ。
「ありがとう、倫子ちゃん」
そう言って、もう迷い猫じゃなくなった彼は、優しく微笑む。
なによ、ちょっと良い男に、なったじゃない。
手放すのは惜しかったかも、なんて、思ってしまうじゃないの。
私はカップに注いだ紅茶を、そっと彼に手渡した。
もうミルクは、必要ないわね。
「またね、倫子ちゃん」
またね、なんて言わないわよ絶対。
どうせあなたは、また気まぐれにやって来るでしょうから。
一人、幸せそうな顔をして。
あんまり悔しいから、私も絶対幸せになってやる。
お姫様じゃなくて、王子様として、あの崩れかけたお城を守ってみせるわ。
「さよなら、忍くん」
ばいばい、私の可愛い迷い猫さん。
今までたくさん癒してくれて、ありがとう。
あなたのぶんも、ギスギスした人生送りながら、闘っていくわね。
儚く脆い、そして綺麗で純粋な、私のお姫様のために。 |
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