子供の時間




 日曜日の夕刻、211号室で他愛ない会話をしていた忍と瞬と蓮川は、不意に開いたドアに一斉に目を向けた。
「ただいま~」
 ドアを開けて部屋に入ってきたのは、なぜか異様に疲れた顔をして帰ってきた光流だった。
「おかえりー、光流先輩」
「朝からどこ行ってたんですか?」
「え、スカちゃん知らなかったの? 光流先輩、今日デート行ってたんだよ」
「デートぉ!? 光流先輩、いつの間に彼女できたんですか!?」
「違うって」
 目を丸くする蓮川に、瞬が呆れた風に口を開いた。
「前に五十嵐さんの学校の女の子に、五十嵐さんの入院先調べてもらう代わりにデート1回って約束してて、その約束が今日だったの」
「あ……そうだったんですか」
 そんな事実をまるで知らなかった蓮川は、やや申し訳なさそうな目を光流に向けた。
「で、どうだった~? どこ行ってきたの?」
 瞬がニヤついた笑顔を向けながら光流に尋ねた。
 光流は小さく息をついて、空いている場所に腰を下ろす。そうとう疲れている様子からして、さして面白いものでなかったのは確かなようだ。
「別になんてことねーよ。映画みてマ○ク行って適当に喋って帰ってきただけ」
「疲れてますね、光流先輩。せっかくまともな女の子とデートできたのに、楽しくなかったんですか?」
「なんっっかムカつくな、てめーはよ」
「あだだだ!!!」
 誰のせいでこんなしんどい目にあってるんだと言わんばかりに、光流は蓮川の頭を拳で挟んでグリグリと力を込めた。
「そりゃ、好きでもない子とデートしたって、気ぃ使うだけで楽しいはずないじゃん、スカちゃん」
「あー……はい、ホントすみませんでした」
「でもどうせなら楽しんでくれば良いのに、光流先輩、そういうとこ不器用だよね~」
「う……」
 瞬に痛いところを突かれて、光流はやや落ち込み気味に言葉を詰まらせたのだった。
 
 
「ったくあいつら、好き放題言いやがって」
 ぶつぶつと文句を言いながら、光流は隣で姿勢よく正座して茶をすする忍にチラリと目を向けた。
「……怒ってねーの?」
「何をだ?」
 忍はあくまで無表情に応えた。
「だから……女の子とデートしたこと」
「何を怒る必要があるんだ? おまえがどこで何をしようと、おまえの自由だろう」
 心の底から本気でそう思っているらしい忍に、光流はがっくりと肩を落とした。
 ちょっとは妬いてくれても良さそうなものだと思うが、忍にそれを求めたところで無駄だということも分かりきっているだけに、それ以上問う気にはなれなかった。
 瞬の言う通り、好きでもない相手とデートしたところで、気を使うばかりで少しも楽しくはなかった。それよりも早く帰って大好きな人と触れ合いたくて、なるべく早々に切り上げて帰ってきたのに、肝心の相手はまるで無関心である。
 ほんの少し苛立ちを覚えながらも、光流は忍のすぐ隣に移動して、忍の肩に自分の頭を乗せて擦り寄った。
「ねーねー、膝枕してくんない?」
「甘えるな、鬱陶しい」
「いいじゃん、それくらいしてくれたって」
 そう言って、光流は有無を言わさず忍の膝の上に頭を乗せて寝転がった。
 まるでじゃれついてくる犬みたいだなどと思いながら、忍は光流の好きなようにさせてやる。断ったところで無理やり絡みついてくるだけだからだ。
 男の膝枕など固いだけで何も気持ち良いことないだろうに、光流は酷く心地良さそうに目を閉じた。長い睫毛がふわりと揺れる。
「やっぱここが一番落ち着くわ」
 幸せそうに微笑む光流の柔らかい髪に、忍は相変わらず無表情ではあるがどこか優しい瞳をして、何気なく指を絡ませる。
 ゆったりした空気が2人の間に流れ、やがて光流の手がそっと忍のうなじに伸び、色素の薄い瞳が優しく忍を見つめた。
「忍」
 名前を呼ばれるだけで、充分だった。
 光流はここにいる。どこにいても、何をしていても、必ずここに帰ってくる。
 請われるままに、忍は緩やかに光流に身を委ねた。
 
 
 
 
 このところ、光流はやけに疲れている。
 というのも、まだ寮生活に慣れていない1年生が何かと揉め事を起こし、そのたびに現寮長の蓮川だけでは心もとないということで、前寮長の光流も一緒に借り出されて後始末に追われる日々だからだ。
そんなわけで、今日も部屋替えを希望したいという1年生の二人をどうにか説得して、ようやく自室に戻った光流は、飲みかけで置いてあったテーブルの上のコーヒーに手を伸ばして一口すすった瞬間、思い切りコーヒーを噴き出した。
「忍~~~っ!!! てめぇまた塩入れやがったな!!!??」
 凄まじくしょっぱいコーヒー片手に、光流は机に向かって平然とゲームをしている忍に声を荒げた。
「3日連続で引っかかる方がどうかと思うぞ」
 自分の悪戯は棚に上げ、むしろどうしたら毎回そう簡単に引っかかるのかと疑問でならない忍である。
「あ、なにそのゲーム? 見たことねえ! つかやらせろ!!」
「全面クリアしてからな」
「待ってられっか!! 一回だけ! お願い!!」
 無理やりゲーム機を奪おうとする光流を鮮やかに避けながら忍はゲームを続ける。
「光流先輩っ、ちょっと良いですか!?」
 すると突然扉が開き、蓮川が慌てた様子で駆け込んできた。どうやらまた揉め事があった様子だ。
 光流はやれやれという風に、また部屋を出て行く。
 しばらくして戻ってきた光流は、乾いた喉を潤すためマグカップに手を伸ばしたが、ふと怪訝そうな顔をして、別のカップにコーヒーとポットのお湯を注いで入れなおした。
 そして一口すすった途端、またも思い切りコーヒーを噴き出す。
「忍~~~っ!!! てめぇコーヒーに何入れやがった!!???」
 もはや何の味かも解らない黒い液体片手に、光流は怒声をあげた。
「おまえほんとにバカだろ」
 半ば呆れ顔で忍は言った。
 塩と唐辛子が入ってることくらい入れてる時点で普通気づくだろうと、思わずにはいられない。
「あ、ゲーム全クリしたぞ、するか?」
「早っ!!! するする、貸して~!!」
 忍にゲーム機を手渡され、光流は実に嬉しそうにゲームを起動させた。
 よほど面白いのか、光流がゲームに熱中すること30分、ふと忍が光流に伝えなければならないことがあった事を思い出し、口を開く。
「光流」
「うわっ……またかよチクショー!!」
「光流、話が……」
「あーっもう!! また!?」
 しかし何度呼びかけても、光流はゲームに集中するあまり、忍の声などまるで無視である。
 忍の額に青筋が浮かび、ほぼ同時にべけっ!!と大きな音が部屋に鳴り響いた。
「忍~~~……っ、何しやがんだよ急にっ!!!」
 後頭部を思いっきり辞書で殴られた光流が、頭を押さえながら振り返る。
「頭に蝿がいたんでな」
「蝿!? だったらせめて雑誌にしろ雑誌に!!」
 そう言って、光流は忍に背を向けると、ゲームに視線を戻した。
 少しの間を置いて、またバコッ!!!と大きな音が鳴り響く。光流が机の上に突っ伏した。
「雑誌がなかった」
「だからって何で百科事典なんだよ……っ」
 辞書より更に衝撃倍増の激痛に、光流はわなわなと肩を震わせるのだった。
 
 
 またしても後輩から呼び出され、揉め事を解決して自室の扉を開こうとして、光流はふとドアを開くのを躊躇した。
 どうも嫌な予感がする。数時間前、ドアを開いた途端に自分めがけてやってきたリアルな虫のオモチャに思わず奇声をあげたことを思い出し、もう次は絶対に引っかかるまいと、恐る恐るドアノブを開く。
 しかし予測していたようなことは特に何も起こらず、逆に不気味だなどと思いながら部屋に足を踏み入れると、忍の姿がどこにもない。
 もう眠っているのかと下段のベッドを覗き込んでも姿は見当たらず、ふと上を見上げると、なぜか上段の光流のベッドの上に忍の姿があった。
(なんで俺のベッドで寝てんだ……???)
 はしごを登り、すっかり熟睡している忍の寝顔を見つめながら、光流は不思議そうに首をかしげる。
 やがて、そっと忍の髪に手を伸ばし、目を細めて柔らかい笑みを浮かべた。
(ま、いっか)
 光流はいそいそとパジャマに着替えると、またはしごを登って忍の隣に横たわり、かなり狭いな~なんて思いながら、そっと忍の体を抱きしめて目を閉じた。
 
 
 真夜中にふと目を覚ました忍が、やけに体が重いことに気づいて眉をしかめる。
 いつの間にか眠っていた自分の体が光流の腕にしっかり抱きしめられていて、忍がすぐに自分のベッドに戻ろうと身を捩ったその時、不意にぎゅっと光流の腕に力がこもった。
 そうしたら、やけに眠くなって、ずっとここにいたいような気持ちになって、とても自分のベッドに戻る気にはなれなかった。
(まあ、いいか)
光流のふわふわの髪に擦り寄るように身を寄せて、忍はまた静かに眠りに落ちていった。