一騎当千


  日曜の午後、忍は読みかけの本に手を伸ばしたが、二・三ページほどめくってから小さく息をつきページを閉じた。
 どこかぼんやりとした表情で窓の外に目を向ける。暑くも寒くもない程よい気温。心地良い風が忍の頬をかすめる。秋の空は青く澄んでいる。
 それなのに。

『悪ぃ忍! 明日、瞬と文化祭の練習しなきゃなんねぇから、映画来週でかまわねぇ?』

 一緒に観に行く約束をしていた映画は、光流の好きなアクション映画で、忍は最初からさほど興味もなかった。だからそんなものは全然ちっとも構わない。
 そこまで思って、ふと、先週の日曜を思い出す。

『忍先輩、ちょっとだけ光流先輩貸して?』

 そう言って、少し悪戯っぽく笑った瞬を前に、ほんの少し苛立ちを覚えた。
 別に光流は自分のものじゃないし、どこで何をしようが当人の自由だ。それなのに何を「貸して」なのか。

 そんな二人が、文化祭に踊るダンスの練習だかなんだか知らないが、毎日のように夜遅くまで一緒にいて帰ってこないものだから。
 いや、そんなのは全然ちっとも構わないのだけれど、でも、だけど──。
 やけにもやもやとした気分が続く。
 理由が解らない事ほど不安や苛立ちが募る。それなのに、その理由を考えようとすればするほど苛立ちが募る。
 大丈夫。ただ少し、いつもと違う静かすぎる部屋に違和感を感じるだけだ。忍は自分にそう言い聞かせ、一人きりの部屋で眠りについた。


「光流先輩っ、頼むからもうちょっと真剣にやってくんない!?」
「やってるっつの! これ以上なく真剣に!!!」
「どーこーがーーー!? 真剣にやってる人が、三回連続で左右間違う!? ってか左右の区別ついてる光流先輩!?」
「……おまえ自分が後輩だってわかってる?」
「間違いを間違いと言ってなにが悪いのさ」
 睨み合うこと数十分、結局根負けした光流が疲れたように「やりゃいいんだろ、やりゃ」と深く溜息をついた。
「二人とも好きですねー。ダンスの何がそんなに楽しいんですか?」
 そこへ蓮川が、心底解らないというように尋ねる。光流が目を据わらせた。
「おまえ、いいかげん趣味の一つでも見つけたらどうだ?」
 はっきり言って無趣味の蓮川に、光流は呆れた風に言った。蓮川がうっと言葉を詰まらせる。
「そーだよ、すかちゃんも一緒に踊ろうよ~」
 瞬が気の抜けた声をあげた。
「む、無理に決まってんだろ……! 俺はおまえみたいに目立つこと好きじゃないんだよ!」
「別に目立ちたくてやってるわけじゃないんだけど……」
 純粋に一緒に楽しみたいだけなのに、何でそんな思考になるかな~と、瞬は困ったように笑った。
「ね、忍先輩も一緒に踊らない!?」
「断る」
 こちらもこちらで、即効できっぱりとした返答。瞬はますます苦笑した。
「放っとけ瞬。こいつらがやるわけねーだろ」
 光流が呆れ声を放った。どこか人を見下したような物言いに、忍がわずかに眉を吊り上げる。
「なんだよ、その顔。どーせダンスなんかくだらねぇとか思ってんだろ?」
 即座に忍の心中を察した光流が、明らかに喧嘩を売っていると見られる口調で尋ねた。
「そんなこと思ってない。ただ興味がないだけだ」
「嘘つけ、おまえら本気出したら何だって人一倍出来んだよ。なのに面白くないって決め付けてやらねぇだけだろ。マジにやってるこっちからしたら、本気でバカにしてるようにしか見えねぇから」
「ちょっと、光流先輩……!」
 さすがに言いすぎだと瞬が制止に入った時には、既に忍の表情は硬く凍り付いていた。それでも光流は忍を真剣な表情で睨み続ける。
「……おまえがそこまで言うなら、やってやる。行くぞ、蓮川」
「え……!」
 しばしの沈黙の後、忍が立ち上がり211号室を後にした。蓮川が戸惑いながらも逆らえず、忍の後を追いかける。
 バタンとドアが閉まった後、瞬が戸惑いがちに光流に目を向けると、光流はようやく硬い表情を崩した。
「なんであんな挑発……」
「だって、見てみてぇだろ?」
 不意に光流がニヤリと笑った。瞬がぱちりと目を見開く。
「あいつらの本気」



 何だってこんなことになってしまったのだろう。
 額に背に汗を流し息を切らせながら、蓮川は自問自答した。
 いや、やはりどう考えても自分に非はない。あるとすれば……。
(光流先輩~~~~……っ!!!!!!!)
 心の中で憎い相手に絶叫しながら、蓮川は目の前の忍に疲れきった表情を向けた。
「休憩は終わりだ。さっさと立て蓮川」
「って、まだ三分経ってないんですけど!?」
「覚えの悪い猿に休んでる暇はない!!」
 思い切り一喝され、蓮川は「はいっ!!」と背筋を伸ばし即座に立ち上がった。
 光流と瞬に対抗してダンスの練習を始めること一週間、連日の凄まじい練習量に死にかけの蓮川であるが、それでも忍は容赦なかった。常に「本気」という字を顔に浮かべた忍の特訓の厳しさは、光流の比ではなかった。これに比べたらいかに光流が優しかったかを思い出すものの、かといって感謝など死んでもする気にはなれず、ただただ先輩二人を激しく憎むのみである。
「蓮川……」
「すみませんっ!! 次は間違いません絶対に!!!!!!」
 二人並んで踊るものの、何度やっても最後まで完璧に踊れないどころか蹴りと共に体当たりまでしてくる蓮川に、忍は本気で殺意の視線を向ける。
 しかし完全に怯え切った蓮川を前に、ふと忍は仕方ないように小さく息をついた。
「解った。おまえに完璧を求めた俺が間違ってた。一歩下がって俺の後ろで踊って、俺の動きに着いてこい。一歩も遅れを取るな」
「はい、解りました!!!」
 今度こそ一度たりともミスがあってはならない。蓮川は一歩前で踊る忍から一ミリたりとも視線を逸らさず踊り続ける。
 努力の甲斐あって、どうにかこうにかようやく初めてミスなしで踊れた蓮川は、喜びなど感じる余裕もないほどの脱力感と共に床に手をついた。
「帰るぞ蓮川。明日は完璧に踊れよ」
 やはり化け物かと目を疑うほど微塵も疲労感を感じない忍を前に、蓮川は立ち上がる。
 しかし忍が一歩足を踏み出したその瞬間、わずかに顔を歪めたことに気付き、蓮川はハッと目を見開いた。
「忍先輩、もしかしてさっきぶつかった時に……!」
「大した怪我じゃない」
「いやでも、ちゃんと手当てしとかないと!」
 陸上部のおかげで怪我の怖さを痛いほど思い知っている蓮川は、慌てて忍の腕を掴んでその場に引き止めた。怪我をさせてしまったという焦りも手伝い、押し倒す勢いで忍をその場に座らせ、ズボンの裾を捲り上げる。あまりに性急な蓮川のやり方に、さすがの忍もわずかに狼狽の色を見せた。
「うわ、めちゃくちゃ腫れてるじゃないですか……!」
 蓮川が誤って蹴りをくらわせた右脛の辺りが赤く腫れあがっている。よくこれで踊れたものだと、蓮川は驚愕と共に更なる狼狽の色を浮かべた。それなのに、目の前の忍はと言えば、いつもと同じまるで無表情。人間じゃないと心の中で悪態をつきながら、蓮川は怪我の手当てを始めた。
「なんで……こんなにムキになるんですか」
 いくら光流に腹が立ったとはいえ、何もここまでしなくても。思いながら忍の顔を見上げたその瞬間、蓮川は思わず目を見張った。
 頑なに口を閉ざす忍の表情が、どこか酷く悔しげに見えて、いつもの無表情とはまるで違っていたからだ。
 蓮川の鼓動がドクンと脈打つ。
 なんだろう、この表情は。
 まるで、泣き出す一歩手前みたいな……。
 そう気付いてしまったら、ますます胸の高鳴りが止まらなくなった。
「あ、あの……こんな怪我じゃ、やっぱり明日は無理なんじゃ……」
 妙に焦りながら言うと、忍はやはり酷く頑なな表情で。
「俺のことより、自分の心配をしろ」
 低い声で言われて、蓮川が返せる言葉はもう一つしかなかった。
「……はい」
 頑張ろう。明日は、絶対に。
 絶対に。
 そう、強く想った。


「忍先輩、本当に大丈夫ですか?」
「問題ない」
 あの練習三昧の中、いつの間にこんな衣装を作ったのだろう。慣れない衣装に身を包んだ蓮川は、いつもと同じ何にも動じない忍の姿を見上げる。
 気恥ずかしさと緊張でいっぱいなのに、目の前のまっすぐな瞳を見つめていたら、何だって出来そうな気がする。
 自分に一つの過ちも許さないこの人のためなら、何だって。
「行くぞ、蓮川」
「はい……!」
 たった一人の背中が、百万の兵の背よりも頼もしく見える今。
『本気を出せ』
 そう命じられているような気がして、蓮川はまっすぐに目の前を見つめた。



「忍クン、やっぱサイコー!! 素敵!! 愛してるぅ!!!」
「……」
 絶対に馬鹿にしている。明らかに馬鹿にしている。完全に馬鹿にしている。いつか本気で殺す。
 ズキズキと悲鳴をあげている足の痛みをこらえながら、忍は背後から抱きついてくる光流に怒りばかりを覚え、額に青筋を立てる。
「楽しかっただろ?」
 にっこり笑いながら上から目線でそんなことを言われて、誰が素直に頷けるものか。
 だけど。
「今度は俺と一緒に踊ろうぜ?」
「……四人で」
「え?」
 思いがけない忍の返答に、光流がきょとんと目を丸くする。
 それ以上は何も言わない忍の、おそらくは心からの願望。いや、言わないんじゃなくて「言えない」のか。ほんとに素直じゃない。
 すぐに察した光流は、酷く嬉しそうに笑って、それからぎゅっと忍の身体を抱きしめた。
「怪我、治ったらな?」
 本当はほんの少し、寂しい気持ちもあるのだけれど。
 蓮川と組ませたことは、やっぱり間違っていなかったようだし。
 あいつらになら、ちょっとくらいは分けてやっても良いと思えるから。
「今度はみんなで楽しく踊ろうぜ」
 光流は忍の耳元で、そっと優しく囁いた。
 
 でも、やっぱり。

「……ん……ぅっ……」
 こんな特別な顔だけは、一生他の誰にも見せたくない。
 思いながら、光流は名残惜しそうに唇を離し、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳を見つめた。