どっちもどっち


  時計の針が午前一時を回る真っ暗な部屋の中。

 パジャマ姿の光流が、やけにこそこそとした様子で台所に向かう。

 腰を落としてそっと冷蔵庫の扉を開き、中に置いてあったバナナを見つけると、パッと表情が明るくなった。

即効でバナナに手を伸ばし、皮を剥いてかぶりつこうとしたその時だった。

「が……っ!!」

 突然、背後から頭に物凄い重みがかかり、光流は間抜けな声と共に床の上に突っ伏した。

「夜中に物を食うなと何度言ったら分かるんだ?」

 忍が恐ろしく低い声で言いながら、光流の頭を踏みつけた足に更に力を込める。

「だ……だって、だって、腹減って眠れねぇんだもんっ!!」

 光流はまるで悪戯を見つかった子供のように、焦りばかりを露に、額に青筋をたてる忍に訴える。

 しかし忍は構わず光流の首根っこを捕まえずるずると引きずり、台所から引き離した。

「おまえまた太っただろ」

「たった一キロじゃん! しかもこれ、脂肪じゃなくて筋肉だし!! ちゃんと太らねぇように運動するから、今日だけ食わせて! お願い!!」

 一体どれだけ腹が減っているのか、光流は涙目で訴える。しかし忍は譲らなかった。

 夕食は十分すぎるほどに与えている。あとは寝るだけで何をするわけでもないのに、食べる必要はどこにもない。無駄なカロリー摂取は不健康の元だと断固として夜食をとることは許さず、空腹に腹を鳴らす光流を寝るまで監視し続けた。


 やっと眠った光流の寝顔を見つめながら、忍は小さくため息をつく。

 いったいこれで何度目のやりとりになるだろう。

 食欲旺盛なのは結構だが、夜中の九時以降に食べるのだけはやめろと何度言っても一向に聞き入れない光流に、忍はいいかげん堪忍袋の緒が切れる寸前だった。

 いつまでも、いくら食べても太らない十代の若い肉体ではないのだ。健康管理のため、せっかく肉も魚も野菜もバランスよく献立を整えたところで、夜中にカップ麺を食われたのでは何の意味も無い。いいかげん自己管理くらい自分でしろと、もう何もかも全てを諦めて投げ捨てたくなる。

 
 けれど。

 
 ぎゅっと忍のパジャマを握り締めた光流の寝顔を見つめ、忍は目を細めて、光流の手にそっと自分の手を重ねた。

 

 

 腹減った。

 とにかく腹が減った。

 だけど冷蔵庫の中は空っぽ。戸棚の中も空っぽ。家中どこを探しても、食べられるものは何一つ見つからない。

 何もここまでしなくても。光流は深くため息をついた。

けれどコンビニや牛丼屋に行って隠れて食べようものなら、即効で鉄拳が飛んでくるに違いない。

 光流はまたしても深くため息をつき、とにかく早く寝てしまおうと布団の中に潜り込む。だがやはり腹の虫がおさまらず寝付けない。

『夜食に食うラーメンって超うめぇよなぁ』

 仕事先の一人暮らしをしている友人の言葉が、やけに思い出されて腹が鳴る。

 こんな時、一人だったら何の気兼ねも無く食いたい放題食えるのに。思いながら、心の中でひたすら嘆く。

 だけど。


「……ん……」

 寝返りを打った忍の、安らかな寝顔が目前になる。光流は目を細めて、そっと忍の髪に手を伸ばした。



 もう少し、頑張ろう。

 もう少し、我慢しよう。


 ずっと、一緒にいたいから。



 それなのに。


「だってだって、どーしても眠れねぇんだもんっ!!」

 辛抱ならずコンビニで買ってきたインスタント麺を細心の注意を払いながら音をたてないよう食べていたのに、なんで起きてくるんだこいつは!! 光流は涙目であとずさる。

「だったら一生眠らせてやる……っ!!!」

 もう二度と、こんな馬鹿のために健康管理などしてやるものか。忍は恐ろしく低い声を発しながら、光流を壁際に追い詰める。

 
 
  大喧嘩の後の、互いに背を向けあうばかりの気まずい沈黙。

 
  もう頑張れない。

 もう我慢できない。

 だけど。

「……ごめんな、忍」

 長い沈黙の後、光流が振り返って、正座したまま重い空気を纏う忍に声をかけた。

「……」

 情けない声をあげる光流に、忍は背を向けたまま黙り込む。

「忍~……」

「……もういい」

 必死の様子で顔を覗き込んでくる光流からプイと顔を背け、忍は小さく声を発した。

「もうおまえのことなんか知らん。勝手に何でも食って早死にしろ」

 完全に諦めた様子の忍を前に、光流は心底困った顔をする。

「ほんっとごめん! もう絶対に夜中には食わないようにする!!」

 懸命に謝っても決して目線を合わせてくれない忍に、光流はますます困った顔をして、それから膝に置いた忍の両手をぎゅっと握り締めた。

「頼むから、機嫌治せって」

 それでもやっぱり、忍は顔を背けたままで。

 光流は何度も、忍の顔を覗きこむ。忍は何度も、光流から視線を逸らす。傍から見れば遊んでいるようにしか見えないが、当人達は到って真剣だ。
 何度もそんな事を繰り返している内に、少しずつ、少しずつ、怒っていることが馬鹿らしくなって。忍はやっと、光流と目を合わせた。途端に光流が嬉しそうに微笑む。

「ばーか」

 まだほんの少し怒った瞳で忍がそう言うと、光流はニッと笑って、唐突に忍の身体に抱きついた。そのまま畳の上に押し倒し押し倒される。

「じゃあ、代わりにおまえ食っていい?」

「余計に腹減るぞ」

 冗談交じりのふざけた台詞に、忍がようやく口元に笑みを浮かべた。

 光流の手の平が、そっと忍の頬を包み込む。

「忍……」

 忍の瞳をまっすぐに見つめたまま、光流が真剣な声を発した。

「心配してくれて、ありがとな」

「分かってるなら余計な心配増やすな」

「ごめんって! でも……!」

 ガバッと忍に抱きついて、光流は言葉を続けた。

「俺はさ……たとえ寿命が十年縮んでも、おまえが一秒でも多く笑ってくれてる方が嬉しい」

 その言葉に、忍は目を見張った。

「だから、ずっと……」

 笑ってろよ。

 そう言って光流が優しく微笑んで、唇が重なってくる。

 

 もしかしたら、少し、頑張りすぎていたのかもしれない。
 
 だけど。
 でも。
 やっぱり。

「十時までは許してやる」

「……りょーかい」

 

 何よりも、誰よりも、大切だから。

 これ以上は甘やかしてなんかやるものか。

 

 カップ麺の香りが漂う部屋の中、光流の重さが酷く心地良くて、忍はそっと光流の髪に指を絡ませた。

 
 
  翌日。

「一分過ぎてる」

「それくらい多めに見ろーーーっ!!!!」
 真夜中の二十二時一分。
 あと二分で食べられるカップ麺を無残に取り上げられ、光流が嘆きの声をあげる。

 けれど約束は約束。

 やっぱり一人暮らししてみたいかも。

そんなことを思い、光流は深くため息をつきながら、すごすごと寝室へ向かおうとする。

「光流」

 不意に呼び止められ、光流は振り返った。

「今日だけだぞ」

 仕方ないといった顔をして、忍が手に持ったカップ麺を差し出してくる。

 途端に光流は顔をパッと明るくして、尻尾を振る犬のごとく忍に歩み寄り、カップ麺をがしっと掴んだ。

「いっただきまーす!」

 少し時間の経ちすぎた麺を箸で掴んでズルズルと音をたてながら頬張ると、目の前に座る忍がいつもより柔らかい表情で見つめてくる。

「おまえも食う?」

「太る」

「ちょっとくらい大丈夫だって。ほら」

「いらん。俺は先に寝るぞ」

 光流の差し出すカップ麺をあくまで拒否して、忍は立ち上がり、さっさと布団へ向かっていった。

 っとに、融通のきかない奴。

 一度くらい一緒に食って、夜中に食うカップ麺の醍醐味を味わってみればいいのに。

 光流は少しふてくされながら、ズルズルと麺を吸い続ける。

 
 だけど。

 でも。
 やっぱり。

 
  いきなり光流は勢い良くカップ麺を全て平らげ、空の容器を台所のシンクに置いて、それから急いで歯を磨いて寝る準備を整えて。

 

「忍くーんっ」

「……寝るぞ」

「誰が寝かすか!」

 

 こればっかりは、我慢なんか出来るわけねぇだろ?

 たとえどんなに満腹になっても、心だけは満たされないから。
 

 頬に唇をおとすとぎゅっと目を瞑る仕草がたまらなく愛しくて、光流は忍の腰に手を回し性急に抱き寄せた。

 
  そんな、どっちもどっちな毎日。