beautiful world
それはまだ、光流が緑都学園に入学して間もない頃。 中学時代にはブラスバンド部で、それなりにクラシックの基礎知識は身につけている光流には、そのピアノ曲のタイトルがすぐに頭の中に浮かんんだ。 静かな美しいメロディーが、耳に心地よく響く。光流も好きな曲だったけれど、こんなに綺麗な音でその曲を聴いたのは初めてだった。 いったい誰が弾いているのだろうと興味にかられ、音楽室に足を運ぶ。
そっと音楽室の扉を開くと、細い指先でピアノを奏でている一人の生徒の姿があり、ふとその指がピタリと停止し、綺麗なメロディーが音を止めた。 「あ……悪ぃ、邪魔した?」 音をたてないよう、かなり慎重に扉を開けたつもりだったのに、すぐに反応を示したピアノの演奏者は、しかし不快な様子など少しも示さない穏やかな笑顔を光流に向けた。 「構わないよ、暇つぶしに弾いていただけだから」 落ち着いた、静かな声色。光流は同じように笑顔を向け、彼のそばに歩み寄る。 「すげぇな、おまえ、ピアノ弾けるんだ?」 「幼い頃から習っていたからね。でもお世辞にも上手いとは言えないから、聴かれていたなんて恥ずかしいよ」 「んなことねぇよ。凄く、うまかったぜ? こんな綺麗な音色、初めて聴いた」 光流が穏やかな声でそう言うと、彼もまた、穏やかに微笑んだ。 「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいよ」 少しの穢れも知らないような清廉潔白な瞳に、光流は戸惑いにも似た妙な胸騒ぎを覚えた。 「もう一度、弾いてくれる?」 「今の曲でいいかな?」 「ああ」 品位に満ちた指先が、また美しい音色を奏でる。 きっとこの音と同じように綺麗な心の持ち主なのだろうと、心地良いメロディーに耳を傾けながら、光流は思った。 (手塚忍、か……) これから三年間、共に暮らしていく同居人。 光流はその横顔を見つめながら、彼が同居人で良かったと思う安堵と共に、心の中でもう一度、その名前を呟いた。
その数ヶ月後。 「光流~っ、聞いてくれよ!! 俺、手塚の奴に前にトイレで○○○―してたのバレてから、ずっと脅しかけられてて……頼むから何とかしてくれ~っ!!!」 「……最悪だな、おまえ」 緑林寮の住人であり同級生である友人に泣きつかれ、光流は呆れ半分同情半分の表情をして同級生の訴えを聞き、頭を抱える。 この数ヶ月であっという間に寮生ほぼ全員の弱みを握り、あらゆる方向から抑圧をかけて寮の頂点に君臨する同室の友人、手塚忍に、毎日のように悩まされ続け、いいかげん何とかしなくてはと思っていた矢先だった。 (見事に騙されてたよなぁ……) ふと、光流は出会ったばかりの頃の忍を思い出す。 いかにも世間知らずのお坊ちゃまという雰囲気に、人当たりの良い柔らかい笑顔。決して品が良いとは言えない寮の先輩達の中で、これから三年間もやっていけるのだろうか。せっかく縁あって同室になったのだから、これから自分がいろいろ教えてやらなきゃ。……なんて思っていた自分がいかに浅はかだったかを思い知り、深くため息をついた。 あの一見無垢な笑顔の下に隠れていた素顔は、冷酷無比なとんでもない悪党。光流が自身もまた様々なリスクを背負う覚悟でその素顔を暴いてやったはいいが、彼は反省するどころか、光流以外の人間にも徐々に悪党の片鱗を表していき、現在ではすっかり開き直って寮生や学園の生徒たちの弱みを次々に握り、誰も彼に逆らえない状態に陥ってしまっている。 (やっぱり、このままじゃいられないよな) そう思いながら、光流は自室の扉を開いた。 「おかえり」 姿勢よく自分の机の椅子に座る、悩みの根源である同居人が、柔らかい微笑みを光流に向けてきた。光流は思わず、顔をひきつらせる。 「……ただいま」 「どうしたんだい? 疲れてるみたいだけど」 きょとんとした顔つきで忍に尋ねられ、光流は更に疲れた顔をする。 誰のせいだ、誰の、と心の中で悪態をつくものの、たぶん当人は少しも分かっていない。 「あのさ、手塚」 「何かな?」 「……」 話を切り出そうとするものの、完璧に笑顔の仮面を被っている忍を前に、光流は言葉を失った。 そしてまた、心の中でため息をつく。 もしかしたら忍本人にも、仮面を被っている自覚はないのかもしれないと思った。それくらい、造る自分が当たり前になっているのだ、彼の中では。 偽りの自分イコール本当の自分。 (それって、悲しくねぇ?) そう思うのに、言葉には出せない。言ったところで、通じるはずないと分かっているからだ。それでも気を取り直して、光流は口を開く。 「おまえさ……もう、やめたら?」 「え?」 「人の弱み握って脅して手に入れるものなんか、空しくねぇ?」 光流のその言葉に、途端に忍の表情が怜悧なものに一変した。 張り詰めた空気の中、光流はまっすぐに忍を見据える。 「それで、どうにかしてくれと頼まれたのか? 君は本当にお人よしだね」 冷静な声色で、忍が言葉を発する。彼もまた光流から視線を逸らさない。 「弱みなど、安易に人に見せる方が悪いんだ。つけこまれる人間をいちいち庇っていたらキリがないよ。そんなことじゃ弱い人間から利用されるだけだということに、早く気づいたらどうだい?」 「俺はそうは思わない」 光流がキッパリとした口調で言うと、忍の眉がわずかに動いた。 「おまえが言う「弱い奴」だって、おまえには無いものを持ってるんだ。おまえだっていつか必ず、そういう奴らに助けてもらう日がくる。その時に後悔したって遅いんだぞ」 一瞬の間を置いて、忍が光流から目を逸らした。少しの沈黙の後、ゆっくりと忍が口を開く。 「後悔などしない。いいね、君は。そんな甘い考えでも生きていける世界に属してるんだから」 「どういう意味だ?」 「君がどう考えようとどう生きようと君の自由だが、それを僕に押し付けるのはやめてくれ。僕と君とでは住む世界が違うんだ」 忍は冷徹にそう言い放つと光流の横を擦り抜け、部屋を出て行ってしまった。 少しの間を置いて、光流は深く息をついた ピリピリと張り詰めていた空気が、忍が出て行った事でようやく緊張の糸をほぐす。 (キツいな……) こんなことでこれから三年間も同じ部屋で暮らしていけるのかと、光流は自分自身に問う。 忍の言うことは、いつだっていちいち間違ってはいない。本当の意味では正しいことですらあるように、時折、返す言葉に戸惑う。住む世界が違うと言われれば、確かにそうなのかもしれない。 でも、本当にそうなのだろうか。 (だったら何で、ここにいるんだよ) 綺麗に整理された忍の机を、光流は深刻な目で見つめる。 潔癖で頑なで、自尊心の塊のような、完璧主義者。でもこの世の中に、完璧なんてものはどこにも存在しない。存在しないのに、彼はそれを求めている。 (疲れるだろ、そんなの) もっと力を抜けば良いのに、と光流は思う いつか変えられる日が来るのだろうか。 本当の笑顔を見られる日が来るのだろうか。 「ま、成るように成るか」 突然、光流は楽観的にそう言い放つと、下段のベッドの上にゴロンと寝転がった。 潔癖な同居人は、たぶんこんなところ見たら嫌がるだろうけど、そんなこといちいち気にしてたら一緒に暮らしてなどいけない。あんまりグチャグチャ、余計なこと考えるのはやめよう。 そう思いながら目を閉じて、いつの間にか眠りに落ちていた光流だった。
(ああ、こいつ、俺のこと誰か、分かってねぇな)
ふと光流がそんなことを思ったのは、まだ図書室で殴り合いをする以前のこと。 「よう手塚、今度生徒会役員立候補するんだって? まあおまえなら当選確実だけど、頑張れよ」 「ありがとう」 たくさんの同級生に囲まれながら賞賛の言葉をかけられ、忍は全員に同じように微笑みかける。 「手塚、演説のことだけど」 光流が声をかけた時のことだった。 「ああ……そこにいたんだね、池田」 そう忍が言い放った瞬間、光流は目を見張った。 ずっと、光流は忍の目の前にいた。けれど、まるで今やっと気づいたかのように、忍は変わらない微笑を光流に向けた。 目の前にいて完全に無視されることなど、光流にとっては初めての経験だった。いつでも彼は、人の輪の中心にいたから。何故か酷く胸が痛むと同時に、激しい苛立ちに襲われた。 ずっと同じ部屋にいて、同じ時間を過ごしているのに、こいつは少しも自分のことを見ていない。忍にとって自分は、その他大勢と同じ、利用するだけの人間に過ぎない。そう気づいた瞬間、心の底から強く思った。
(俺を見ろ)
「こんな感じで良いか?」 「ああ、完璧だよ。さすが池田だね」
(俺を見ろ)
「なあ、手塚」 「なんだい?」
(俺を見ろ)
「おまえって、キス、したことある?」 「え?」
忍の背を壁に押し付け、光流はじっと、その目を見据えた。そして、ゆっくりと顔を近づけていく。 唇が触れるか触れないかというほどの近距離まで近づいたその瞬間、光流はにっこりと微笑んだ。 「なんて、冗談。男子校にありがちじゃねえ?」 「悪い冗談だな。君らしくないよ」 忍はいたって冷静なままでいつものように微笑むと、光流に背を向けた。
刹那、光流の表情が獲物を射る獣のような鋭いものに変化する。 (分からせてやる)
「いいかげん、仲良くしようぜ?」 「……友達ごっこならヨソでやってくれ」 「っとにてめーは可愛くねーなー。 少しは素直になれよ?」 「だから素直に言ってるだろう?」 「それがおめーの素かっ!!」 「そうだ」 「……分かったよ。だったら「ごっこ」でもいい」 「……」 「友達ごっこ、しようぜ。少なくともこれから3年間、俺達は同じ世界に住むんだからさ」 「……」
「あの、これ良かったら、二人で使って下さい!!」
学校からの帰り道、肩を並べて寮へむかっていた光流と忍に、近くの中学校に通う女子中学生二人が、リボンのかかった箱を二人に差し出した。 「男二人でペアマグ使えって……。女の子って何考えてんのかよくわかんねぇよな」 部屋に戻ってその箱を開けると、中には色違いでお揃いの、水玉模様のペアマグカップ。 光流はテーブルの上にカップを二つ並べ、呆れたように言った。 「そういうところが可愛いんじゃないか」 「……で、どっち使う?」 既に忍が女遊びも達者なことを知っている光流は、忍の言葉に返す言葉もなく、ただそう尋ねた。 「黒い方、使っていい?」 「んじゃ、俺こっちな」 黒地に白の水玉模様を忍が、白地に黒が水玉模様を光流が使うことになった、ペアのマグカップ。
「池田、人のものを勝手に使うなと言っただろう?」 潔癖な忍は、気がつくといつも自分のマグカップを使う光流に、いいかげんにしろと腹をたてる。 「いーだろ、別に。減るもんじゃあるまいし」 光流は光流で、そんな細かいこと気にするなと構わずどちらのカップも平気で使う。 減るとか減らないの問題じゃない、デリカシーのない奴だと、忍が文句をつける。 わーったよ綺麗に洗えばいいんだろ洗えばっ、と光流は口をとがらせながらマグカップを洗う。
(あ……) ふと、光流は気がついた。 いつの間にか、忍が平気で光流のマグカップを使っていることに。 (また、茶かよ) 思わずプッと微笑む。 ほんと、ジジむさい奴。たまにはコーヒーとか飲めよ。 そんなことを思いながら、忍を見つめる。 「……なに笑ってんだ? 気色悪い」 「別に~」 ニヤニヤと笑う光流に、忍は眉をしかめる。 もうどっちがどっちの物だか分からないマグカップを、片手に持って。
早くも仮死状態になりつつあるブラスバンド部に久しぶりに顔を出して、最後まで一人残ってトロンボーンを吹いていたら、ガラリと音をたてて音楽室の扉が開いた。 「池田、まだ帰らないのか?」 「あー……もうこんな時間?」 久しぶりに練習してたらつい夢中になってしまった。光流は楽器をケースにしまいながら、何気に思い出して、忍に目を向けた。 「なあ手塚、ピアノ弾いてくんねえ?」 「ピアノ? 何を?」 「何でもいいよ、おまえの好きな曲」 あまり気が進まないけど仕方が無いといった風に、忍がピアノの前に腰を下ろす。 蓋を開け、白く細長い指先が、鍵盤を静かに叩いた。 美しい、静かなメロディー。 好きな曲といって、忍がそんな曲を選ぶことを、光流はずいぶん意外に思った。その、あまりに美しい音色にも。けれどそういえば、確か、初めて忍のピアノを聴いた時も、このメロディーだった。
きっと美しい心の持ち主なのだろうと、あの頃は思ったのに。 (手塚忍)
「どうした? もっと弾いてよ、忍」 少しも変わらない声色で、光流が言う。 忍は一瞬の間を置いて、口を開いた。 「名前……」 「え?」 「名前で呼ぶのは、やめてくれないか。あんまり好きじゃないんだ、自分の名前」 鍵盤に目を向けたままそう言った忍に、光流は穏やかな表情で応えた。 「なんで? 綺麗な名前じゃん、忍って。俺は好きだぜ?」 また少しの間を置いて、忍が鍵盤を叩き出す。 (あ……照れた) 綺麗な音を奏でる忍の、耳の後ろが少し赤くなっているのを、光流は見逃さなかった。 光流がクスリと微笑む。
ずっと、この曲が終わらなければ良いのに。 そう、心の中で呟きながら。
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