30minutes


 

「よっしゃ~! 100!!」                                       

 額に汗を流しながら、光流が手に持ったダンベルを床の上に置いた。

 やたらと汗くさい部屋の中、机に向かっていた本を読んでいた忍は、やや呆れた風に小さく息をついてから、本を閉じて机の上に置いた。

「終わったなら風呂に行くぞ」

 忍はそう言って立ち上がると、既に用意していたパジャマとタオルと洗面用具を手にとる。光流も「おう」と返事をして、二人一緒に風呂場に向かった。



 相変わらず混んでいる風呂場の列に並びながら、忍はやや苛立ちを隠せない。なぜ10分と浸かれない風呂に入るために、わざわざ貴重な時間をかけて並ばなければならないのか。せめて光流の日課である筋トレの時間さえなければ、もう少し早く入ることが出来るのに。思いながら光流に目をやると、光流は一緒に並ぶ寮生達と楽しげに会話をしている。その姿に、なおさら苛立ちが募った。

「忍……俺、ちょっと用事思い出したから、後で入るわ」

 そんな忍の負のオーラを察したのか、前に並んでいた同級生が遠慮がちにそう言い残して、そそくさとその場を去っていった。

「あ、俺も、電話するの忘れてた! 忍先輩、お先にどうぞ!」

 その前に並んでいた寮生達も空気を読み、次々と忍に順番を譲っていった。

 おかげで早く風呂には入れたものの。



「おまえな~、ちょっと並ぶくらいでみんなに気ぃ使わせんなよ」

 部屋に戻ると、光流に呆れた風に説教めいた台詞を放たれ、忍は眉間に皺を寄せた。

誰も譲れなどと脅してはいないし、彼らが勝手に怖がって勝手に譲っただけなのに、なぜ自分が悪いように言われなければならないのか。しかし言い返したところで無駄な喧嘩になるだけなので、納得いかない気持ちを押し殺して黙り込む。

 そうすると、光流はますます呆れたように小さく息をついた。その様子になおさら苛立ちを感じ、忍はさっさと自分のベッドの布団に潜り込んだ。

「……点呼行ってくるな」

 光流の声をまるきり無視して、忍は体を壁側に向ける。言いたいことも言えず拗ねているだけの子供みたいな態度の自分に光流が呆れていると解っていても、態度は変えられなかった。

 パタンと扉の閉じる音が、何故だかやけに耳に響いた。



 

 全く仕方のない奴だと、光流は頭を抱えながら寮内の廊下を歩く。

 点呼を終え自室に戻って扉を開くと、忍は出て行った時のままベッドの中。ぽりぽりと頭を掻きながら、光流はベッドに歩みより、下段の柵に手をついた。

「忍~、まだ怒ってんの?」

 声をかけても、忍は背を向けたまま眠ったふり。絶対に寝てなんかいないくせに。光流は心の中で口をとがらせる。

「なあ、いいかげん機嫌治せって」

 ちょんちょんと背中を突っつくが、反応はまるで無い。

 少し不愉快な気分にさせられたくらいで、どうしてこうすぐ殻に閉じ篭ってしまうのだろう。うっかり小言も言えやしない。解っているのに、つい口うるさい事を言ってしまったことに後悔ばかりを感じながら、光流は忍の上にがばっと覆い被さる。

「……降りろ」

 ようやく忍が低い声を発した。

「一緒に寝る」

 光流は忍の体にぴったり密着する。額に青筋をたてた忍が、光流の体を押しのけようと腕をあげたが、光流はその腕を捕らえてシーツの上に押し付けた。

「降りろ」

 忍が鋭い視線を光流に向ける。けれど光流は押えつけた手の力を少しも緩めない。忍は身を捩るが、毎日の筋トレの成果がしっかり成果として表れている馬鹿力に適うはずもなく。

「……っ……」

 強い力で抑えつけられたまま唇を塞がれ、忍はやや苦しげに芽を閉じた。

 触れるだけのキスの後、目の前にはやけに優しい光流の笑顔。

「機嫌、治った?」

「……いいかげん、離せ。馬鹿力」

「バカは余計だろ」

「うるさい、馬鹿」

 何百回でも言ってやりたい気分でそう言うと、光流はまた苦笑して、ようやく忍を解放すると、体を離してベッドを降りていく。

「おやすみ~」

 飄々とした声と共に、光流ははしごを伝って自分の布団の上に登っていった。

 (馬鹿)

 また一つ心の中で呟いて、忍は頭まで布団を被った。




 翌朝、六時前に起床した忍は、うるさいいびきをバックに登校の準備を整える。鞄に教科書をしまってからふと、床の上に転がったダンベルが目についた。

 光流が起きるまでにはまだ時間がある。やや興味をかられ、床に膝をついてそのダンベルに手を伸ばす。持ち上げると、思った以上に重かった。

 昨夜の悔しさが思い起こされ、幾度か上下に動かしてみる。十回近く動かしたところで、忍は疲れたように息を吐いてダンベルを床の上に置いた。

 やはり、どう考えても馬鹿馬鹿しい。何の目的もなしに、何故わざわざこんな疲れる真似をしなければならないのか。光流に報復するためだけの手段ならば、力づくよりもっと手っ取り早い方法が他にいくらでもある。そう思い直し、とりあえず昨夜の仕返しに、光流の目覚まし時計を遅らせる忍であった。





 昼休みのチャイムが校内に響き渡る。

 食堂に向かうため階段を下りていた忍の耳に、バタバタとにぎやかな足音が届いた

「忍―――っ!!!」

 もはや足音だけで声をかけられる前に誰だか解っていた忍は、光流の大声に振り返りもしない。

「今朝、俺の目覚まし止めただろ!?」

「何のことだ?」

 胸倉を掴みあげられるが、忍は至って平静な心持ちで、にっこり微笑みながら言った。

「おめーはよ……」

 光流がわなわなと肩を震わせる。

 その時、突如として階段を駆け上がってきた生徒に派手にぶつかられ、光流がよろめいたと共に、二人同時に階段の上から下まで転げ落ちた。



「おいっ、大丈夫か!?」

 周囲からわらわらと人が集まってくる。

「いって~……忍、大丈夫か!?」

「ああ……問題ない」

 光流がしたたかに打った頭を抑え、思い切り顔を歪ませながら立ち上がる。忍はあくまで大きく表情を崩さないまま立ち上がろうとしたが、左足を立てた瞬間に表情を歪め、光流がはっと目を見開いた。

「足、くじいたのか!?」

 どうやら図星らしく、忍は足を捻ったようで立ち上がることもできない様子。すると光流は何やらギラッと目を光らせ、咄嗟に忍の背と膝裏に手を回し、そのまま抱き上げようとする。

「な……!」

 いきなり何をするのかと、珍しく動揺を見せる忍が、そのまま抱き上げられてたまるかと身を捩る。

 思いがけず避けられた光流が「わ!」と目を丸くし、またも二人同時にその場に倒れこんだ。

「おまえら、何やってんだ?」

 人だかりの中、他の生徒達より頭一つ分背の高い大柄な生徒が、にょきっと姿を現した。どうやら近くを通りがかったらしい古沢である。

「どうした忍、立てないのか?」

「足を捻ったみたいで……」

 面倒見の良い古沢は、無表情ながらも心配しているのがハッキリと分かる様子で、忍の傍に膝をつく。その刹那、光流が何故か酷く焦ったように、古沢の体を押しのけた。

「いいです先輩、俺が運びますから……!」

 光流はそう言うと、またしても忍の体を抱き上げようとするが、忍はやはりそれを許さない。

「だから、おまえはさっきから何をしてるんだ?」

 忍が怪訝そうに右手で光流を押し退け、どうにも落ち着かない様子の光流を睨みつけた。

「立てないんだろ? 俺が保健室まで運んでやるから、おとなしくしてろって!」

「わざわざ抱き上げなくとも、肩を貸してくれれば……」

 珍しく必要以上に必死になる光流に、忍もまたムキになって反論していると、いきなりふわっと体が宙に浮いて視界が回り、忍は大きく目を見開いた。

「な……にを……っ!」

 気がつけば、忍の体は古沢の肩に担ぎ上げられていて、忍は下ろせとばかりに足をばたつかせるが、古沢はそんな忍の抵抗などものともせず、軽々と担ぎ上げたまま廊下を歩き出す。

「あ、歩けますからおろして下さい……っ!」

 さすがに焦りを隠せない忍が訴えるが、古沢は平然と歩き続ける。

「この方が早いだろう。気にするな、バイクに比べればおまえなど、ぬいぐるみ抱っこしてるようなものだ」

 確かにバイクに比べれば人一人担ぐくらいどうということはないだろうが、決してそういう意味ではなく、周囲の目線がどうにも恥ずかしくてならない忍だったが、古沢には全く分かっていないようである。

 結局、そのまま保健室まで直行。物珍しげに眺める生徒達の視線の中、人生最大の羞恥と屈辱を味わうはめになった忍であった。

 

 


 最悪だ。

 何度も心の中で悪態をつきながら、忍は保健室のベッドの中でひたすら項垂れる。

 それもこれも、全ては目の前で座る光流のせいだと思い睨みつけるものの、なぜか光流の方が八つ当たりも出来ないほどに意気消沈している。その理由がさっぱり分からず、忍は浅く息を吐いた。

「……どうした?」

「……別に」

 尋ねても、光流はぷいと顔を背けて黙り込むばかりだ。

 明らかに拗ねている光流のその様子に、忍はただわけがわからず困惑する。いったい光流が何を怒る事があるのか。泣きたいのはこっちの方だと思いながら、忍は起き上がってベッドから降りようと床に足をつけた。

「手塚、歩けるか?」

 机に向かっていた一弘が立ち上がり、忍に声をかける。

「ええ……何とか、大丈夫そうです」

 床に足をつけると、まだ痛みはするが、適切な処置のおかげでどうにか歩くことは出来そうだった。忍は立ち上がってブレザーを羽織り帰り支度を始めるものの、光流は小椅子に座ったまま一向に動こうとしない。

「……どうしたんだ?」

「分かりません」

 明らかに様子がおかしい光流を前に、一弘が忍の耳にこそっと問いかける。忍は無表情に応えた。

「光流、教室に戻るぞ」

「……」

 忍が再度声をかけると、光流はようやく渋々と立ち上がった。





 既に授業が始まり、静まり返っている廊下をゆっくりと歩きながら、忍はチラリと光流に目を向ける。その様子は明らかに不機嫌なオーラに満ち溢れていて、どうにも落ち着かない忍は、不意にピタリと足を止めた。

「光流、何を怒ってるんだ?」

「……なんも怒ってねーって」

「嘘をつくな。人に気を使わせるなと言っておいて、自分はその態度か?」

 いい加減苛立ちを感じて追い詰めるようにそう言うと、光流はぐっと言葉を詰まらせた。

 拗ねる理由があるけれど言葉にするには躊躇われる何かがあるのか、光流は黙り込んだが、忍は怯まない。子供みたいに拗ねているだけの光流相手になら、いくらでも強気になれる忍であった。

 逆に冷徹に見据えられた光流は、途端に弱気になったようで、うるっと瞳に涙を浮かべる。

「だ、だって、悔しかったんだ……!」

 拳を握り締め肩を震わせながら、正直な気持ちを放った光流の言葉に、忍は眉をしかめる。

「何がだ?」

 まったくもってわけが分からない。悔しいのは間違いなく自分の方だと忍は思った。

「あの時だって、俺が保健室まで運ぶつもりだったのに……っ」

「あの時……?」

 またしても、光流が何のことを言っているのか分からず、忍は眉間に皺を寄せる。

「一年前の喧嘩の時……おまえ、気ぃ失っただろ」

 光流は膨れっ面を隠さないままに言葉を続けた。

「あの時、俺が保健室まで運ぼうとしたら、今日みたいに古沢先輩が軽く抱き上げて、さっさと連れて行っちまって……」

 忍から視線を逸らしたままの光流を、忍はきょとんとした表情で見つめる。

「だから、もし今度あーいうことがあったら、次は絶対に俺が運ぶって思って、毎日必死で鍛えてたのに、また……!」

 そこまで聞いて、忍はようやく事の次第を把握した。

 つまり、一年前の喧嘩の時も今回も、良いところを全て古沢に持っていかれて悔しがっていただけらしい。ついでに毎日の筋トレの理由が、まさかそんなくだらない事だったとは。忍はあまりの馬鹿馬鹿しさに、脳内で頭を抱えた。

 自分で気絶させておいて何をわけのわからない事を言っているのかと呆れるが、光流は相変わらず悔しそうに瞳を潤ませている。だが、普段は温和な光流がここまでの顔を見せるほどだ。よほど本気で悔しかったのだろう。そう思ったら、途端に光流が酷く可愛く見えて、忍は緩やかに微笑した。

「分かった。なら、抱いてみろ」

「え……?」

 思いがけない忍の言葉に、光流は目を大きくする。

「ここから運べるところまで運んでみろ」

 あたりを見回してから、忍は言った。今は授業中。幸いここは誰も使っていない会議室の前の長い廊下。人の通る気配は微塵もない。

 はっきりきっぱりとした忍の口調に、光流はやや戸惑いながらもこくりと頷いて、それから忍の腰に右手を回し、左手を膝裏に当てる。そして次の瞬間、かなりの気合と共に忍の身体を抱き上げた。

「やり、思ったより軽い」

 至近距離で、光流が得意げに笑みを浮かべた。どうやらようやく機嫌が治った様子だ。

 こんなことで満足できる単純思考が羨ましいような、やっぱり馬鹿馬鹿しいような気分で、忍は黙って光流の腕に抱かれる。

「何ならこのまま寮まで帰る?」

「出来るものならやってみろ」

 さて、いつまでこの得意げな様子が持つものか。忍はやや意地の悪い想いで、そのまま歩を進める光流を冷静に観察する。

 案の定、廊下の端から端までたどり着くより先に、光流のこめかみから汗が流れ、両の腕が震えた。

 それでも光流は懸命に歩を進めるが、数メートルで限界突破し、ぜいぜいと息をつきながら忍の身体を下ろした。当然だ。いくら鍛えたところで、元の体格が古沢とは違いすぎる。しかも相手は自分と大差ない体格の男だ。どれだけ頑張ったところで、お姫様抱っこで校内の隅から隅までも運べるわけがない。

「ご苦労だったな」

「……嬉しくねぇ」

 床に手をつき、光流ががっくりと項垂れる。忍は床に膝をつくと、微笑みながらそんな光流の頭をポンと叩いた。

「普通、背におぶせようとは思わないか?」

「それじゃ、負けてるじゃねーか。あん時古沢先輩、保健室までおまえのこと抱いて連れてったもん」

「ほう……」

 全く記憶にない忍だったが、それは果たして勝った負けたの問題なのだろうか。だがいつでも最後まできっちり責任を果たさなければ気が済まない、実に光流らしい思考だとは思った。

「俺は自分で歩きたかったがな」

 忍が諭すように言う。光流ははっと顔をあげ、焦りを露に口を開いた。

「……それは分かってる。俺はただ……!」

「分かってない。おまえはいつだって、自己満足ばかりだ」

 忍はやや厳しい顔つきでそう言うと、すっと立ち上がった。

「忍……!」

 光流もまた立ち上がり、慌てて忍の後を追いかける。

 横に並ぶと、忍がそっと光流の肩に右手を置いた。光流がハッと目を見開く。

「こうして、少し肩を貸してくれるだけでいい」

 静かな口調で忍が言った。

「あとは自分で頑張れるから、おまえも俺のために頑張りすぎるな」

 柔らかい微笑。

 光流はその言葉の意味を頭の中で反芻させ、切なげな表情を見せると、そっと忍の肩に額を乗せた。

 しばらくの沈黙の後、光流が顔をあげる。

 無言で見つめ合う二人の瞳は、酷く憂いを帯びていた。


 どうしようもなく、触れたくなる。


 そんな想いで、どちらともなく、静かに唇を重ねる。

 自然と互いの背に腕を回し、抱き締めあう。


「……ダンベル」

「え……?」

 ずいぶんと長く抱き合ったまま、ふと忍が低く声を発した。脈絡のない言葉に、光流がきょとんと目を丸くする。

「もう、やめろ」

「いや、でもアレは、おまえのために……やっぱ、強くなりてぇし……!」

 とは言うものの、実のところ楽しすぎて既に当初の目的を見失い、完全に趣味となっている筋トレである。それを突然やめろと言われても。光流は焦りばかりを露に、言い訳がましい言葉ばかりを並べたてる。

 すると忍が、突然にぎゅっと強く抱きついてくる。光流は更に焦りを露にした。

「やめろ……」

 忍が甘えるように抱きついて、少し震える声を発する。

 光流は途端に何かを察したかのように、切なげに目を伏せた。

「……じゃあおまえも、二人きりの時に本ばっか読むの……やめろよな……」

 少しの沈黙の後、光流もまた、泣き出しそうな声で言った。

 そうだ。ずっと好きな事に時間を奪われて寂しかったのは、お互い様だ。

 気付いた瞬間、互いの温もりがどうしようもなく愛しくなって、何度もキスを交わした。

 


 その日から、一日必ず三十分。

 ダンベルも持たず本も読まず、自分のやりたいことはひとまず置いておいて。



「足、もうぜんぜん平気そうだな」

「……必要以上に触るな」

 明らかに何かに興奮している光流の顔を、忍は足で蹴りつける。

 それから二人、床の上に倒れこんで、キスをして、強く抱きしめあった。



 そう。一日たった三十分で、決して全てを解り合えるわけではないけれど。

 触れ合うことで満たされる想いがあるから、毎日、忘れないようにしよう。



  二人きりの、大切な時間。