2.0の瞳

「おまえって、視力いくつだった?」

 今日、学校で、健康診断があった。

 だから何となく気になって尋ねてみたら、彼はいつもと同じ無表情のまま「1.5」とだけ応えた。

「やり、勝った! おれ、2.0」

 後で考えたら、全然威張るようなことではなかったのだけれど、凄く勝ち誇った気分でそう言ったら。

「……良かったな」

 やっぱり無表情のまま、低い声でそうとだけ言われて。

 一気にテンション下がった。

 

 蝉の声が、やけに煩い。

なんであいつらは、ただでさえ苛付くこの季節に大声で鳴き叫ぶのか。

 八つ当たりでしかないそんな文句を心の中で連ねながら、光流はコンビニのドアの前に立った。自動ドアが開くと共に心地良い冷気が頬に当たり、先ほどまでの苛立ちがほんの少し和らぐ。そのままジュースのコーナーに歩を進め、ふと視界にに飛び込んできた子供用のおもちゃが並ぶコーナーを前に、ピタリと足を止めた。

 

三日前から夏休みに突入したものの、部屋にいても少しも気が休まらないどころか、逆に気を張るばかりの毎日。

 原因は、たった一つだ。

「おまえ……家、帰らねぇの?」

 夏休みにはてっきり実家に戻るものだと思っていた同居人にそう尋ねると、「ああ」と短い返事だけが返ってきて、会話は即効で終了。

 普通、こういう時は、帰らない理由を話すなり、「おまえは?」と聞くなりして、会話を続けようって思わねぇか?

 そう心の中でため息をつくものの、目の前の相手はまるで無表情。見えない鉄壁の壁ばかりを張り巡らせている。

 あくまで「お友達になる気はない」と、全身で訴えられてしまっては、こちらも動きようがない。

 そんな風だから、今日も暑さなど微塵も感じない涼しい顔で机に向かい、ただひたすら本を見つめるだけの同居人。

苦痛だ。

はっきり言って苦痛以外の何ものでもない。

一体どうしたら、あの見えない壁を打破できるのだろう。

 暑さと苛立ちのせいで少しも思考が回らないまま、光流は目の前のおもちゃを手にとって、目当てのジュースと一緒にレジ前に置いた。


「ただいま~」

 寮に戻って部屋のドアを開き声をあげるものの、室内温度30度を超える部屋の中で汗一つ流さず机に向かう同居人は見事に無視。

 ああ、そうかよ無視かよ。にっこり笑って「おかえり」、あの偽りの笑顔がちょっと懐かしいぜ。

 苛立ちばかりを胸に、光流はコンビニの袋に手を突っ込み、ガサガサと音をたてる。

「手塚」

 何気なく光流が呼ぶと、怜悧な表情で本に視線を落としていた忍が、顔を上げて光流を振り返った。

 刹那、ピュッと小さく音をたてて、光流の手に握られていた水鉄砲から飛び出した水道水が、忍の顔面を直撃した。

ほんの一瞬、忍が大きく目を見開く。光流はニヤリと笑った。

 けれど。

「……くだらない事をするな」

 数秒後、忍は顔面に飛び散った水を手の甲で拭うと、ジロリと光流を睨みつけ低い声でそう言い放ち、光流に背を向け部屋を出て行ってしまった。

 部屋に取り残された光流は、完全に外してしまったことに面白くなさげに目をすわらせ、「ちぇ……」と小さく声をあげ、手に持った水鉄砲を机の上に置いた。

 無駄な散財だったぜ。

 そう心の中で悪態をつきながら、光流は椅子に腰を下ろす。

 とりあえず、夏休みの課題でも仕上げよう。思いながら机の引き出しから教科書を取り出し、開いたその時。

 カチャリとドアの開く音がしたけれど、振り向かずにいると、「池田」と小さく声をかけられた。

 声をかけてくるなんて珍しい、と思いながら振り返った刹那。

 バシャ!!と派手な音をたてて、忍の手に持たれていたバケツの中の水が、光流の全身をずぶ濡れにした。

 光流はまるで鳩が豆鉄砲をくらったように、大きな目をぱっちり見開く。

 わずかな沈黙の後。

「お……まえ……~……っ…」

 びしょ濡れになった前髪をかきあげながら、光流は心の底から呆れた声をあげた。当然だ。バケツ一杯の水、床も机もびしょ濡れなら、手に持っていた教科書ももう使い物にならないのじゃないかというほど水浸しで。

 普通、ここまでするか?

 そう尋ねようとしたけれど、目の前の相手は相変わらず無表情だけれど、やけに偉そうに。

「おかげで涼しくなっただろう?」

 おまえが暑さのせいで苛立っていた事などお見通しだ。

そう怒った瞳で訴えて、バケツを床の上に投げ捨てた


 結局、それから二人で延々と、濡れた床の拭き掃除。

「おまえって、すげぇ負けず嫌いだよな」

 黙々と床を拭き続ける忍を横目に、光流は小さく息をつきながら声をあげた。忍は返事をする気もないように、フンと光流から顔を背ける。光流は目をすわらせた。

 負けず嫌いなのは、あの喧嘩の時に重々承知していたけれど、まさかここまでとは。

 思いながら、たっぷり水を含んだ雑巾をバケツの上で絞る。

「で、実は口より先に手が出るタイプだろ」

 まるで日常会話のような気軽さで光流がそう言うと、忍は床を拭く手をピタリと止め、光流に鋭い瞳を向けた。

「それはおまえだろう」

 言われて光流は、思わず苦笑した。

 ああ、やっぱり、まだ根に持ってやがる。

 心の中で呟いて、光流は口を閉ざした。

だが忍の気持ちは分からないでもない。なにせやり方が卑劣すぎた。

 何だかんだ言っても、結局は似た者同士なのかもしれない。

 そう思いながら忍に目を向けると、ふと、光流は忍のうなじの辺りがほんの少し赤くなっているのを見つけた。

「あ、虫、刺されてる」

 また何気なくそう言うと、忍は完全に無視を決め込んだようで、光流の声などまるで聞こえていないように黙々と床を拭き続けている。 

「それ、けっこう痒いだろ」

 尋ねても完全無視され、光流はむっと口をとがらせる。

「痩せ我慢するなっつの」

 光流がふてくされた口調で言うと、忍がわずかに眉間に皺を寄せた。

「……痒くない」

「嘘だね」

「痒くないから掻かないんだ」

 あくまで反抗を示す忍に、光流はますます眉を吊り上げた。

「嘘だ、ぜってー痒いって。なにくだんねーことで強がってんの? バッカじゃねぇ?」

 こうなったらヤケだとばかりに、光流は喧嘩上等の強い口調でそう言うと、立ち上がり、自分の机の引き出しを開いた。中から虫刺され用の薬を取り出し、床に膝をついたままの忍に差し出す。

「ほら、塗れよ。マシになっから」

「必要ない」

 どこまでも拒絶するつもりらしい忍に、いったいどこまで意地を張るつもりかと、光流は苛立ちばかりを感じた表情で、いきなり背後からがしっと忍の肩を掴んだ。

「な……」

「動くな」

 何事かと目を見張る忍に、光流は意思の強い口調と眼差しを向ける。忍が一瞬怯んだように動きを止めた。

「動いたら噛み付く」

 本気の本気でそう言うと、忍は不本意な様子ながらも抵抗を止めて。

 光流はチューブから捻り出した薬を人差し指に乗せ、忍のうなじに寄せた。

 

きめ細かい白い肌に、ほんのり浮かび上がった赤い痕。

 

 暑さのせいでわずかに湿った、細い髪の生え際。

 そっと痕に触れると、ピクリとわずかに忍の肩が揺れた。

 一瞬、ドクン、と、鼓動が跳ねた───。




 あんなに煩かった蝉の声が、ずいぶんと遠くに感じる。

 静かな部屋に、カタンと小さな音が響いた。

 引き出しを開き元の場所に薬をしまい、長い睫毛を少し伏せた光流の耳に、次の瞬間。

「……ありがとう」

 低い声が小さく届いて、光流は咄嗟に振り返った。

「あ……いや……」

 まさかそんな言葉をかけられるとは思っていなかったから、何故だか酷く焦りにも似た想いを感じて、光流は思わず忍から視線を逸らした。

 すぐさま掃除の続きに取り掛かる。

 床を拭きながら、自分が変だと感じるのはきっと。 

いつもなら上手に返せるはずの言葉が、どうしてか、少しも上手く返せなくて。

 きっと、そのせいだ。

 そう、自分に言い聞かせた。

 


「なあ、明日、プール行かねぇ?」

「……」

「決まり! 水着用意しとけよ?」

「……プールって、どこのだ?」

「え……近くの市民プール」

「市民プール?」

「……知らねぇの?」

 嘘だろ。光流がプッと笑うと、忍が明らかに怒った瞳をした。

(なんだ……結構、分かりやすいじゃん)

 一体今まで何を気負っていたんだか。

 突然にバカバカしくなって、そう思ったら、ずいぶんと気が楽になった。

 ずっと怯えていたのは、自分の方だったのかもしれない。

 いつだって、目に見えるものは一つでは無く。

 目を閉じれば簡単に見逃してしまうからこそ、いつもしっかり見つめていなければならないと、知っていたはずなのに。

早く打ち解けようと焦るあまりに苛立ってばかりで、自分の心が自分の瞳を曇らせていたことに、なんとなく、気付けたような気がする。 

だからしっかり目を開いて、いつも逸らさず見つめていよう。

 たとえおまえが気付かなくても。

 いつでもおれが、本当のおまえを。


(見つけてやる)

 

 この、2.0の瞳で。