日常茶飯事

       Even more rara case.  





雨が降っていた。

背広に匂いをつけぬ為、上着を事務所に置いて喫煙所に独り佇む。
勤務時間も終わり一服して帰路につくつもりが、外の雨に囲まれ動けない心持ちになる。

止まずとも、居心地のよいそこにずっと居るわけにいかないことは判っていたのに。

『お前が不幸になる必要なんかないんだから』

お前に何が判る。
そう、思ってきた。
求めあっても、穏やかな日々により類い稀な安息を見出だしたとしても。

互いに、持たぬゆえ原点を失い続ける絶対的自由な孤独を抱える者と、持つゆえのしがらみに捕らわれ続ける先天的不自由な囚人。
だからこそ惹き付けられるが、また相反するが故永遠に理解は叶わない。

欠けたものを補い合える幸せと、それでもトラウマを克服せんとするが為時折ふいに浮上する、理不尽に奪われかけたものへの葛藤や怒りに我が身を滅ぼしたい程の焦燥や苛立ちを覚える。

かつて、心ない誰かによってたかって踏みつけにされ無くそうとしていた、幼い頃の本当の自尊心と誇りを取り戻そうと、独りで立ち上がろうともがく。
何度も、何度も。

そんな時は、どうしても彼の側にいられない。

独りで立ち上がらないと意味がないのだと。

彼と、対等に居たいが為には。

時間が少しづつ解決している認識はある。
元より二人とも安易で日本の社会的常識な解決法より、心の拠り所である育ての家族や唯一の恩人を選んだ。
一緒に暮らしても、社会人になり隣で過ごす時間はわずかでも。

だから、共に居る時間は悔いの残らぬように大切に過ごす。
でも独りの時は、孤独も自由も滅びればいいと密やかに呪詛しながら、…光流の直球な照らいもない豊かな感情表現に、そして解りやすい嫉妬や束縛に、つい反発して孤独な自由を望む。どうしても慣れることが出来ない。

(矛盾だらけだ)

二本目の煙草に火をつけたところで、スマートフォンに着信が入る。

件名:今日は早く帰れそう。
本文:明日休みもぎ取った。
忍は?

珍しい。
電話ではなくメール。
文字を打つのが面倒で、大概意味のない会話で声を聞きたがるのに。

件名:もう少ししたら帰る
本文:日曜は特に予定はない。

送信すると、手元には感じない微かなマナーモードのバイブ音を耳にし首を傾げた。
視線を感じて喫煙所のドアを何気なく視界に納めかけた時。

「じゃ、久しぶりにゆっくり出来るな」

突然現れた光流に、忍はくわえていた煙草を落としかけて慌てて掴む。

「お前…」

「普通に事務所に行ったけど、喫煙所じゃないかって事務所のおねーさんが」

飄々と嘯く余裕の笑みが子憎たらしくて。

「まさか、桜の代紋ちらつかせたんじゃないだろうな」

眉をひそめる忍に、光流は破顔した。

「いやぁ? 『手塚センセと付き合いの古い同級生です。飲みに行こうって約束していて』って言ったら驚いてここ教えてくれたけど」

さすが伊達にタラシの名を欲しいままにしているわけではない男に、しかし女運の悪さと諸々相殺している奇妙なバランスを思うと今更ながらの指摘だと諦めに似た気持ちになる。

「車なんだろ。支度するから下で待っててくれ」

わざわざ迎えに来られた居心地の悪さを隠し煙草を揉み消すと、帰宅準備にデスクへ向かう。
光流の休みがいつも突然なのは仕方のないことだが、少しは心の準備もさせてくれと胸中でため息をつく。

事務所を出ると、ビルの隙間に満ちた月が落ちている。

春先の強い夜風が、止んだばかりの雨の匂いを含んで忍の短い髪を舞い上げた。



*



ここしばらくの長丁場で二週間ほど帰宅がままならなかった。
さすがに1日ばかりは睡眠時間をくれた課長に感謝して時計を見ると午後も四時を廻っている。
直帰してもすぐに眠ってしまいそうな自分の時間が惜しくて、忍の弁護士事務所に車を走らせた。
現場解散であった為、着いたのは五時半を過ぎていて一応メールを作る。
それから事務所の門を叩くと、数回会った事のある事務員らしき女性が帰り支度をしている様子だった。
喫煙所にいると聞いて、今日はもう終業かと当たりをつけ、メールを送信する。

返信はすぐで、ガラス張りの扉を開くと忍の驚いた顔が拝めた。

滅多に顔など出さないのだが、本当は職業柄どんな場所に訪れる時も押しは強い。
自分の顔の利用価値もTPOも、ある程度わきまえているつもりだ。

だがすぐにいつもの無表情になった忍は、迎えに馳せ参じた王子にすげない態度で待機を命じ、光流はいつものこと、とあっさり車を事務所の前にまわした。

「メシ、どーする?」

運転しながら尋ねると、少し思案した忍は「冷蔵庫にあるものでいいな」と応じる。

「了解」

どうやら手料理にありつけそうで、光流は少しばかり心が躍った。現場で泊まり込みが続くと弁当やコンビニ食が続く。忍の手料理はおかげで少し薄味に感じられるが、むしろそれが嬉しい。

帰宅して、シワの寄ったスーツやワイシャツをクリーニングに出すべく専用の籠に押し込むとシャワーを浴びる。
忍のいない時間に帰宅して着替えたりもしているが、現場が長引くとなかなか顔を合わせる事はない。

部屋着に着替え頭を拭きながらキッチンに顔を出すと、いい匂いに腹が鳴る。

「晩飯なに?」

ひょいと手元を覗き込めば、ほうれん草とすり胡麻を和えている。

「舞茸ご飯、しじみ汁、鳥胸のみぞれ煮、砂肝とこれ」

すっかり所帯染みたヘルシーメニューに光流の顔が綻ぶ。
何も言わず、光流の疲れた日はこんなメニュー。
休みの日は少しカロリーの高い、でも光流の好物を用意してくれる。

(なんか愛されてるよなー…本人隠してるつもりみたいだけど)

そろそろと忍の作業の邪魔にならない程度に、その腰に手を廻す。

「なんだ?」

手は休めず、胡麻和えを器に盛りながら振り向かずに尋ねられる。

「…んー。ちょっと充電」

肩にそっと頭を乗せて目を閉じる。
本当にわずかに忍の動きが緩やかになるが、動作自体は止む気配もない。

一見無反応にしばらくは動いていた手がふいに止まる。

「光流、仕事だ」

ぱちりと目を開く。

「へいへーい」

「ご飯を盛って、あと味噌汁」

「了解」

てきぱきと動きながら食卓に盛り付けを並べ席に着く。
リビングにソファーを置いた為に、食事はキッチンの向かいのカウンターで並んで食べる。

「いっただっきまーす」

寮の頃からの習慣で行儀よく声をかけてから箸をつけた。
大根おろしにポン酢、ゆず胡椒の汁に刻み紫蘇、片栗粉をまぶしたとろみのある鳥胸肉は柔らかくて食が進む。
隣で姿勢よく箸を使う忍をちらりと見て、何か話したいのに言葉が出て来ない。
空腹に勝てず飯を流し込むせいでもあるが、常日頃あまり無駄話をしない忍であるから無言の食事で少し寂しい。
こーゆー時に、隣にいるのが女性であったならばきっととりとめもない1日のどうにも興味の持てない話を延々と聞かされるのであろう事を考えると、まぁそれも悪くはないなと思い直す。

「そういえば」

珍しい忍からの声かけに箸をくわえたまま光流が視線だけ向けて促す。

「お前今日誕生日だったよな」

「へ?」

しばし思考を巡らせ、今日の日付を思い出す。殆どが仕事の予定日時しか記憶していない頭に、簡単には重要度の低いデータは浮かんでこない。
首を捻る。

(あー)

「そんな気もする…」

ケーキも祝いもない通常運転の二人。

「まー、齢食って嬉しい年齢でもないがなー。すっかり忘れてたわー」

激しく本音だ。
でも忍が思い出してくれたことが素直に嬉しい。

「何?プレゼントでもくれんの?」

ニヤリと笑って軽く隣の肘をつつくと、忍は無表情のまま「飯食ってからな」と食事を続けた。

光流の方が驚く番だった。

(え? なんですか忍さん? ちょっと…すっかり忘れていたようなこと言っておきながら…)

忍とて仕事は忙しい。
おおむね定時に帰れるような仕事量に抑え充分な手際の良さで案件を選んでいることは知っているが、わざわざプレゼントを用意するような人柄でもない。よしんば用意しても、こんなにさらりと受け流して言葉に出来るほど素直な性格でもない。

(一体全体どんな風の吹き回し…明日は春一番の嵐か?)

もそもそと、早く食べてしまいたいのに微かに照れと警戒を感じながら光流は食事を再開した。



*



光流が食器を洗っている間に忍がシャワーを浴びに行く。
浴室からパジャマに着替えた忍が出て来ると、少しうとうとソファーで新聞を眺めていた光流はふいに意識がしっかりした。

(やべー。ちょっとドキドキするかも)

自室に行きすぐに戻ってきて光流の隣に腰を下ろした忍に、それとなく身を寄せる。
忍の手の中に、細長い小振りの箱。
無言で手渡されてしげしげ眺める。
新聞をローテーブルに置き、頭に浮かぶ物を連想する。
形からすると女性に贈るネックレス等が妥当である。

「開けていいの?」

ちらりと視線をやると忍がこくりと頷く。
光流は少々包装に亀裂を入れつつも、それなりに丁寧に開封する。
中からは白い箱。
箱の蓋を開けるとさらに、ビロードの様な手触りの黒い丸みを帯びたケース。
ぱくりと横から開くと 、中に入っていたのはネックレスのチェーンだった。
それも二本。

「お前確か、金属アレルギ  ーはないよな?」

忍が静かに言うのに、光流はこくこくと頷きながらチェーンを手にとる。
多分プラチナ。
それも派手ではなく品のいい細過ぎないデザイン。少しだけ長め。造りがしっかりしていても重くはなく、もしかして特注。
どうみても安価なものではない。
しかしチェーンだけ。

「お前がくれた指輪、さすがにつけられないからな。しかし貰いっぱなしもなんだから身に付けたい時にはこれで…」

光流が急に顔を向けて真剣に見詰めるのに忍の言葉が止まる。

しばし見つめあう。

女扱いするなと怒る。
どこまでも対等にこだわる。
人一倍神経質なくせに、傍若無人を振る舞いながらも実は自分以外にばかりに気を遣おうとする。
冷たく見えて、先の先まで読んだ上での慇懃無礼。
内弁慶で二人きりだとろくに笑顔も見せてくれないくせに、こちらが甘え過ぎなければあくまで寛容で。でも自分ではちっとも甘えてこない。

(忍。わかりにくいんだよお前)

そのまま忍にそっと口づける。

さらに深く舌を絡ませる。

「忍…、…しのぶ……」

逃げ腰をしっかり抱き締めて、忍の名を繰返し囁く。

光流の服を掴み息が上がって制止を声にも出来ない様を薄目で眺めても、奪う事を止められずにただひたすら逃げ惑う舌を追いながらその名をささやく。

愛しい人の名に。
誓うように。
護るように。

光流はもう眠気も忘れ、これから乱れさせる忍の反応だけを想像することにした。
こんな時にしか素直に甘えることも出来ない不器用な男を、可能な限り甘やかす為に。




END



BGM
忍side 「風になりたい夜」稲垣潤一
光流side「『原獣文書』月婚歌」