日常茶飯事 おまけ
Even up.
「忍」 口づけながらゆっくりと忍の上背をソファに横たえる。すっかり息のあがった面持ちで、酸素を求めながら目を閉じ光流の服を掴む腕がほどけていく。 「いい?」 わざと、許しを乞う言葉と共にもう一度軽くついばむと、忍は上気した表情を隠すように顔をそむけ「せめて、…消せよ」と息を途切れさせながら弛緩してゆく。 「だぁめ」 銀糸をそっとかきあげながら、額に頬に、そして耳元でささやく。 「待てない」 ふいに反応する身体と裏腹に、潤んだ眼で困惑を濃くする瞳が泳ぐが光流はまた「だめ」と諭すように繰り返した。 「お前はおれのものだから全部見せて。…なぁ、いいって言ってよ」 いつか忍が「左の耳からささやくとすぐ落ちる」と言っていた様を思いだし実践してみる。 「もの…じゃ」 抵抗は弱々しい。 「忍」 我ながら意地が悪いと胸中で苦笑しながらも、視線は反らさず少し泣き出しそうな表情を折れるまで見つめる。 「…わかった」 眼差しを伏せ消え入りそうな声で応えた忍に愛しさだけが込み上げる。 「忍の、そーゆーとこスキ」 なだめる様に首筋をさすりながら、反対の鎖骨に唇を寄せてちょっと緩んだ自分の表情を隠す。 「なに…が…っ」 息を詰める反応に気をよくして彼の匂いに顔をうずめたままパジャマのボタンを解いていく。 「おれのわがままに弱いところとか」 はだけた肌にキスを落としていく。 「っ…!」 跳ねる身体を宥めるように、すこしづつ触れる。 すこしづつ。 白い肌に日焼けした自分の手のひらを這わせる。 「…いつまでも慣れないとことか」 怯えて逆ギレさせないように言葉を選んで言い聞かせる。 脇腹を直に撫で上げるとまた跳ねる。 「…くすぐったい」 眉をひそめる表情もおそらく憮然とした心持ちであろうに、まっかに染まった顔ではまったく説得力がない。 「だって触りたいし」 エアコンは充分効いているかなと、自分の上衣を先に脱ぐ。 うん、寒くない。 呆れたような、眩しげに見上げる視線に嬉しくなって見下ろしながらもう一度軽くキスする。 「なぁ忍。おれの名前、呼んで?」 きょとんとしてまばたきを幾度かし、忍がくちを開く。 「光流?」 生きてきた年数、呼ばれ続けてきた名前。父に、母に、正に、じいちゃんに。友達や先輩や後輩、上司、同僚、女性。 「もぅいっかい」 目蓋を閉じ、忍の呼び声を堪能する。 「光流」 ふいに気づいて嬉しくなった自分に、驚きながらも笑った。 訝しげな忍に伝える。 「…なぁ。その名前さ、おれを産んだ人はたぶん知らないんだよな」 忍が息を飲むのがわかる。 「もし知ってても、絶対呼ばれることはない」 いや、呼ばせない。 なんだろうこの満足感は。 「しあわせ」 おれ、ネジ飛んでるのかな。 「光流」 伸びてきた腕にゆっくりと包まれながら、その心音にすっかり安堵する。 「光流」 耳元のその声だけで、天にも昇る気持ちになるおれっておかしいんだろうか? 「してやったり、…な気分じゃね? 」 気遣わしげな気配にそっと顔を上げて、忍と視線を合わせる。 その表情は決して哀れみではなく、只々おれにだけ常日頃から比重の偏った心遣い。 その滅多にない感情を強く発露する忍ににやりと笑い 。 ちょっと苦笑になったけど。 「忍に呼ばれたらそれで。 どれだけ数多の人に呼ばれるよりもしあわせ」 それを、おれを産んだ人は知らないなんて勿体ない話だよな? だが。 ふたたび視線を合わせて気付く。 あ、しまった。 自分で言って照れてしまった。 見るまにさらに首まで真っ赤になり「このばかっ」と抱き締めてくる忍に、自分で無意識に放った言葉が突然翻訳され跳ね返ってくる。 (…なんつー恥ずかしいセリフを。中坊かおれは…) ちょっと誤魔化すように、手を内股に這わせると不意討ちを食らった忍のオクターブ高い声。服ごしでこの感度。 「ほんとだよ」 (いやマジでほんとに) 真っ赤であろう自分も顔を上げ辛いけど。 「忍」 こちらも真っ赤な顔で睨み付けてくるこの誇り高い男の、こんなに素直な表情を真正面から見るのはおれだけ。 そんな自分にちょっと自惚れ気分にさせてくれるのもこいつだけ。 それが一番大切なもの。 時間をかけて紡ぎ続けた永い糸を今、誓いのリングとちょっと丈夫なチェーンにモデルチェンジして。 素直じゃあない忍が、対等を求め真顔で贈ってくれた真意。 (そんなに心配しなくても、お前さえ逃げなきゃおれは結構大丈夫なんだけどな) まったくもって、普段は隙もない想い人。でも。 おれはおれの護りたいものを、おれを護ろうとしてくれる人を自分で見つけられたからそれでいいんだ。 あのれんぎょうの下に置き去りにされたから得た、今ここに幸せがある。 「忍」 過敏な箇所を選んで、反らす身体をやさしく煽る。 「みつっ、るっ」 今夜は何度も名前を呼んでくれる。 嬉しくて、つい焦らしてしまうとようやく髪を乱しながらの忍に懇願を貰える。 決して女みたいに演技染みて誘う素振りもなく、同じ男のプライドを砕いて限界で決死の一言。 それからはさすがに余裕がなくなって野郎の本性で見境がなくなってしまったけれど。 制止をねだる嘘つきな唇は塞いで、喘ぐ声だけを繰り返し執拗に催促しながら。 心を明け渡して、長いこと互いに深くまで触れあった。 * 喉が渇いて目覚める。 暗い室内に肌掛けの感触。 それから背になんの違和感もない体温。 どうやら下着だけ辛うじて身につけられたようで、しかしそれがいつ誰がしたものか困惑する。 背後から脱力した腕だけが忍の脇腹に乗っていることに気が付いて、いつの間にか眠ったのかまったく記憶を探っても出てこない。 規則正しい息を乱さないようその腕をそっと退けながら、体重を移動させソファを降りようとして、すとんと膝をついた。 (?!) 立ち上がるつもりだったのだが、下肢にまったく力が入らない。 冷えた床に座り込んで途方に暮れる。 試しに腕を上げてみるが、こちらは動く…しかし。 思わず片手で顔半分を覆いながら気が付いた。 手が微細に震えている。それは確実に寒さじゃない。 二度見して、舌打ちしたくなる。お前は処女かと自分に毒づきながら。 何も初めて肌を合わせた訳でもないのに。おまけに光流しか知らないわけでもない。同年代には揶揄される程の経験者なのに一体なににこんなに動揺しているのか。 震えを抑えようと我が身をかき抱いてみるが、止む気配はない。 「忍?」 (起きてくるな) 気付かれたくなくて部屋が暗いことに感謝するが、気が緩んだのもつかの間抱き寄せられ力の入らない身体はいとも容易く熱に包まれる。 もはや羞恥より驚愕が強くて言葉も出ない。 「忍」 光流はそれ以上何も言わなかった。 黙って背後から抱え、熱を分け与えられる。 震えを続ける身体を唖然と見下ろして、止まれと念じるゆとりもないまま次第にそれは治まり、忍は長いこと溜めていた息をようやく吐き出した。 「………ー」 声を出そうとして、嗄れて 上手く音にならない。 すると気が付いたように光流が「水でいいか?」と立ち上がった。 急にひんやりとする背に、震えの止んだ手で上掛けをかける。辺りを見回して自分のパジャマを見つけ手に取ると、戻ってきた光流がコップをローテーブルに置いてそれを肌掛けの下に羽織らせてくれた。 沈黙がいたたまれないが、ひとまずコップに手を伸ばし水を飲み干す。 ため息を吐いて、それから「ありがとう」と礼を言った。 「大丈夫?」 流した筈の所作に触れられ若干勘に障ったが、ここで怒っても仕方がないと思い直し「よくわからん」とだけ応えた。 本当にそのままだから仕方がない。 まだ少し驚いている自分に、まともな言い訳など浮かぶはずもなかった。 「ベッドで寝よ」 もっともな提案に手を引かれて今度は自然に立ち上がり、パジャマを身につけベッドまで歩く。まだ虚脱の感覚を身体が覚えていて、頭のなかがその事でいっぱいだった。 同じ姿勢で向きを変えて、背後からだき抱えられ横になる。 しばらくは互いに黙したまま目を閉じていたが、光流がふいに小さく喋った。 「お前は頭で考えて感情溜め込み過ぎなの。だからたまに感情的になると色々逆流して混乱するんじゃないのか?」 「ー! …」 まったく。 流してくれたらいいのに解説をつけられて釈然としない。 なんと返したものかと思案していると先に続けられた。 「別にそのままでいいけど」 (いいわけがー) 「おれの傍に居るときくらい、楽にしててよ」 (………) なんでこんな、顔だけはいいモテ男にこの俺がピロートークされているのか! おかしいだろうどう考えたってっ。 「怒った?」 伺うような声音に、苛立ちが止みどうでもよくなる。 …撤回。 ただの女難持ちの優男だ。 ふいに眠気が襲ってきて、もうこのまま寝てしまおうと無視を決め込む。 眠りに落ちるのはいとも簡単だった。 光流がまたいたずらして、指輪を通したチェーンを身に着けているのに気がつくのは朝の話。 End 「ロミオとシンデレラ」を聴きながら。 |
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