エール!



──4月。

池田家の双子の中学入学式当日、空は綺麗に晴れ上がり、町は春の花の甘い匂いをそっと漂わせていた。

「ああぁあ、もうっ! 全然出来ねぇっ!」
「こら、みつる。皺になる」
「だってだって、全然うまく結べねぇんだもん!」

鏡の前でネクタイを締めては解き、解いては締めてを繰り返して。
どうしてもうまく結べないことに苛立ち、ネクタイをくしゃくしゃっと丸めようとした光流は、キッチンから横目で眺めていた忍に穏やかに窘められた。
膨れっ面の光流に、既にきちんとグレーのスーツに身を包んだ忍は苦笑すると、ゆっくりとリビングに入る。
先月12歳になったばかりで、早生まれにしてもまだまだ幼い光流を、忍は優しく手招きした。

「みつる。締めてやるから、こっちに来い」
「うー・・。ごめん、かあさん」
「いいさ。今日から制服がブレザーだからな、毎日着るうちに上手に締められるようになるだろう。だんだん慣れていけばいい」
「うん」

慣れた手つきで、忍の細い指先が臙脂のネクタイをきゅっと締めるのを、光流は少し擽ったそうな表情で見つめる。
「・・かあさん、慣れてんね」
「それこそ、毎日締めているからな。でも、俺は高校からブレザーになったから、中学からのお前たちの方が、きっと早く慣れるさ」
「ほんと?」
「ああ。多分な」

淡々としていながらも気遣いが込められた忍のそんな言葉に、まだ幼い丸味を帯びている光流の頬が、嬉しさでふわっとピンク色に染まる。
きちんと形よく整えたネクタイを満足そうに眺めると、忍は光流に笑いかけた。

「ほら、みつる。もういいぞ。──みつる?」
「・・・・」
黙ったまま、ぎゅっと胸の中に抱き付いてきた光流に、戸惑ったように小首を傾げながらも。
忍は膝をフローリングに着くと、やっと150センチを超えたばかりの光流の身体を優しく抱き留めた。

「・・かあさん。おれ、早く大きくなる。うんと身長伸ばして、ネクタイだってちゃんと自分で締められるように、早く大人になるから!」
しがみつくように両手を細い首筋に回し、耳元で一生懸命言い募る光流に、忍は淡く笑った。
「そうか。──でもな、みつる。俺はお前が、毎日毎日、少しずつ成長しているのを眺めているのも、すごく楽しいぞ」
「・・そうなの?」
「ああ。俺が子どもの頃、俺の周囲は、結果には一喜一憂しても、日々の成長には無関心だったからな。お前たちの成長のお陰で、子どもの頃に知らなかった事を、お前たちと一緒にゆっくり体験できて、俺は楽しいな」
「かあさん・・」

普段あまり自分の親族──双子にとっては母方の祖父母や伯父伯母にあたる筈の人たちのことを口にしない忍のそんな言葉に、光流の表情が幼いながらもきゅっと引き締まった。
強くもう一度抱きつきながら、光流は大切な約束をするように忍に囁く。

「・・それじゃおれ、毎日必ずちょっとでも成長するように頑張る。かあさん、毎日ちゃんと見ててくれる?」
「勿論」
「へへ。・・かあさん、ちゅーしてもいい?」
「馬鹿。幼稚園生にまで戻るつもりか? 早く大人になると言ったばかりだぞ」
「ちぇーっ! ・・ま、いいや。おれ、うんとカッコイイ大人になるから!」
「ああ、楽しみにしてる」

(──もう随分、男前になってきたけどな)

少しだけ大人びて見える明るい笑顔に、忍はこっそりときめきながらも、それは綺麗に微笑った。

*
*

──それより遡ること、約30分。

もう随分長い間、飛沫の音が続いている風呂場の扉を、まだ髭をあたっていないままの光流は、ジャージ姿でノックした。
「しのー大丈夫か? ゆだってないか?」
「・・・・・・・・ん。ゆだってない」
いつもながらゆったりとした返事に、光流は思わず苦笑した。

表情の変化に乏しいと言われがちな、双子の片割れ。
曰く、大人しい方の忍。
(でも本当は、いつでも好奇心いっぱいに世界を眺めるのに夢中で、無口になってるだけなんだよな)
ちゃんと理解している光流たち家族にとっては、忍のこんなのんびりした返事も、ごく通常運転の仕様だ。

「今朝も走ってきたのか?」
「・・ん。走ってきた」
「気持ち良かったか?」
「・・知らない鳥がいて・・綺麗だった」
「そっか。後で教えてな」
「・・・・・・。ん、分かった」

シャワー音の合間に聞こえる忍の返事には、淡々としているようで、とても嬉しそうな感情が含まれているのがよく分かって、光流まで嬉しくなる。
ぽやぽやっと見えるトコも可愛いんだよなー俺の子ながら、 なんてふやけたことを考え頬を緩めながらも、光流は続けてガラス越しに声をかける。
「そっか。──ところで、今日はお前らの入学式だし、俺もそれなりにビシッと決めたいからさ。シャワー終わってたら、代わってくんねぇか?」
「・・ん。今すぐ出る」

それからたっぷり100を数えたところで、漸く扉が開く。
全裸のままぽたぽたと滴を滴らせている忍の背後で、もうもうと盛大な湯気が立った。
──こりゃ、お湯出しっぱなしでずっとシャワー浴びてたな。忍には黙っとこ。
どこの家庭の主婦の例に違わず、水と電気の出しっぱなし、点けっぱなしには恐ろしく厳しいパートナーを思い浮かべて、光流は一人頷いた。
湯上がりでピンク色に上気した頬でぼんやり自分を見上げている忍に笑いかけ、そっとバスタオルで包み込む。

「こぉら、しの。ちゃんと拭かねぇと風邪引いちまうぞ? 今日は新入生代表の挨拶するんだから、いつもの美人なお前でいなきゃな。・・ちゃんとチンチンの裏まで洗ったか?」
ちらりと、濡れた前髪の下の澄んだ瞳に見上げられ、言った傍から光流自身が何だか照れくさくなってしまった。
「・・とうさん。とうさんはいつも、そういう事ばっかり言うから、みつるが怒る」
「あー・・。あいつ見てると、俺がガキの頃背伸びばっかしてたの思い出して、つい子どもに戻してやりたくなって、からかっちまうんだよなあ。・・みつる、そんなに怒ってんのか?」

頭を掻く光流の顔をじっと見つめ、忍は小首を傾げた。
その姿が、相変わらず奇跡のように清潔な美貌を保っている忍が時々見せる仕草とあまりに似ていて、光流はこんな時でも激しく萌えずにいられなくて。
(うわ、なんつー可愛い・・)
思わずデレた光流の内心には当然気づかないのだろう小さな忍が、ゆっくりと口を開いた。

「・・おれには、とうさんのそういう気持ち、ちゃんと伝わってるし、かあさんにもきっと、伝わってる。でも、みつるには、伝わってない。・・みつる、とうさんみたいになりたいのに、とうさんが子ども扱いするから。とうさんのこと大好きなのに、とうさんが冗談ばかり言うから。だから、みつる、余計に怒ってる。──おれは、みつるのことも、とうさんのことも、大好きだから。だから、仲良いと嬉しい。擦れ違うのはイヤだ。・・・・・・・・ちゃんと、洗ったよ」
「は? ──ああ、裏まで、・・な」
「ん、裏まで。・・あっつい」
「おいおい、大丈夫か、しの?」

珍しく長い文章を一気に話して疲れたのか、それともやはり今頃湯中りしてきたのか。
息継ぎで危うく目を回しかけながらも、光流の下品な冗談に大分遅れた返事を返してくれた忍の律儀さが、堪らなく愛おしくて。
光流は、忍をバスタオルに包んだまま、その綺麗な瞳をまっすぐに見返した。

「分かった。みつるのこと、気にしてくれてありがとうな、しの」
「・・双子だから」

珍しく照れたように呟いて目を伏せた忍を、光流は改めてぎゅっと抱き締めた。

*
*

何でお前はいつも支度がギリギリなんだという忍のお小言に光流が平謝りし、それを双子が顔を見合わせつつ眺めるという、いつものお約束はあったものの。
「よっし! それじゃ池田家、出発!」
「おう!」
小さな光流だけが元気に手を突き上げ、それでも四人、仲良く揃って家を出た。

光流は、長いブレザーの袖を気にしている小さな光流の頭をぽんと叩いた。
「みつる、制服似合うな」
「え・・そうかなあ。でも、ほんとは、かあさんにネクタイ締めてもらっちゃったんだけど・・」
「いいじゃん、別に。俺も、今朝は忍に締めて貰ったんだぜ?」
「ほんとにっ?」
「ほんと。──なあ。格好よくネクタイ締めるコツ、教えてやろうか?」
「うんっ!」

楽しげに何やら言葉を交わしている光流たちを眺め、忍は黙々と歩いている小さな忍を見下ろした。
「しの。あいつらに何か言ったのか?」
「ん。二人のこと、好きだから、仲良いと嬉しいって。とうさんに、言った」
「そうか。・・俺の代わりに、ありがとう。しの」
「かあさん。かあさんのことも、おれ、・・大好き」
「──俺も、お前たちが好きだよ」

優しい言葉にこくんと頷き、それから照れたのか、ぱたぱたと光流たちの方へと走り出した小さな背中を見つめながら、忍はゆっくりと空を見上げた。

──きっと、そう遠くない将来。
お前たちは大人になって、俺や光流がいない自分たちだけの世界を、きっと見つけることだろう。
その世界で、自分たちだけの大切な存在と、お前たちは巡り会うかもしれない。
・・俺と光流が、奇跡みたいな偶然で、グリーンウッドで出逢ったように。

その時、俺と光流は、多分少しだけ淋しくなるだろう。
でも、俺も光流も、お前たちのその世界をきっと好きになる。
お前たちの世界も。その世界で見つけた大切な誰かのことも。
俺も光流も、とても愛しく思うだろう。

──そっと、指先が握られた。
隣を見れば、いつの間にか隣に並んだ光流が、優しく忍を見つめていた。
自分と同じだけ重ねた歳を、甘い目尻にほんの少しの皺として滲ませている光流の笑顔が、不意に光の矢のように忍の胸を衝く。
「家族って、やっぱいいな、忍」
「・・・・。ああ、そうだな」

葛藤も、苛立ちも、逡巡も。
全てに苦しみ、全てを乗り越えて。
そして今、家族のかたちを全肯定できる光流の強さ。

堪らなくこの男が愛おしいと、忍は思った。
だからごく自然に指先を握り直し、小声で光流の名前を呼ぶ。
「──光流」
「うん。大きくなったよなあ、あいつら」
「ああ・・」

前を見つめれば、まだ大きめの制服を揺らしながら、双子が元気に駆けていく。
・・遥か昔、間違いなく経験したその光景が、再び忍の胸を切なく揺らす。
得意そうに自分のネクタイを何度も指差す光流と、頷きながらも何かを囁いている忍。
まるで子犬がじゃれあいながら転がるようなその姿に、くくっと光流がおかしそうに破顔した。

「でもさ、ああやってると、まだまだ子どもだよなあ、あいつら」
「そうだな」
「とうさん、かあさん! そんなのんびり歩いてると、式に遅刻するっ!」
「・・遅刻は、イヤだ」
「おお、今行く! ほら、忍、走ろうぜ!」
「馬鹿。大人が走ると何事かと思われる。みっともないから、手を離せ」
「・・っておい、そう言いながら置いて行くなよ、あっさりと!」

笑って軽々とスーツの裾を揺らして駆け出した忍の、思いは柔らかに青空に溶けていく。

いつかは飛び立つ羽根ならば、それを育てる力が、今の俺たちにはある。
──だから今は、俺たちの傍で、ゆっくり大人になれ。
俺と光流と、精一杯の気持ちで。
お前たちを守り、愛しみ。
そして、お前たちの日々を、成長を、ずっと祝福し続けるから。

中学一年生になったお前たちに、俺と光流は心からエールを贈る。